2020/9/15 8:52の方こんにちは、先日拍手をしたものです。
通販のことでお話しました。実はあのときあなたの
Twitterを見てしまい、罪悪感にかられ、謝罪をしました。
あのとき、うそをついてしまいました。
また通販を利用しますと。実は、Twitterを見てしまったとき、結構なショックを受けてしまい。 (恐らくあなた方が
わたしの感想を見てショックを受けてたように。あくまで私の妄想ですが)あなた様の本を見たりするとそのことが、鮮明にフラッシュバックしてしまうような感じになってしまいました。すみません結構キツイです。
ここまで私の好き勝手に思いを吐露してきました。
それでは失礼します。不快な思いをさせてしまって本当に申し訳ありませんでした。さようなら

拍手の返信が遅くなってしまい申し訳ありません。確認が遅くなってしまった所為で不快な思いをさせてしまっていたことを謝罪致します。通販の利用や報告の有無に義務はございませんので、気に病まれなくて良いかと思います。ただ、私も人様に不快な思いをさせる為に本を作っている訳ではありませんので、当方の本が不要になったら破棄してくださいますようお願い致します。(92ka)

 

2020/9/11 2:57の方本を購入させていただきたいのですがずっと非公開のままなんでしょうか?

在庫確保の都合で一時的に非公開にしておりました。事前のアナウンスを失念しておりました、すみません。再度通販ページを公開致しましたので、よろしければご確認ください。(92ka)

 

2020/9/10 13:12の方先日通販を利用させてもらったものです。
通販の在庫を聞いた際に感想をかなりざっくりかいてしまいました。私的にはなんだかとても感想を詳しく書くのはどうやら苦手でありまして、どうも照れ臭くなってしまうところがあります。なのであんなにざっくりとした感想ですましてしまいました。ごめんなさい
今後も通販は利用したいと思っておりますのでどうか
ご自愛くださいそれでは失礼いたしました。

お返事が遅くなってしまい大変申し訳ございません。頂いた感想は全てありがたく拝読しております。
私自身が丁寧な感想を書くのが苦手なタイプであることも理由にあるとは思うのですが、表現の方法はどうあれポジティブな感想に優劣はない、かつ返信の有無は受け取り手の好みや都合、その他作家側のルールによるものかと思っておりますので、感想を送った方が謝る必要はないかと思います。こちらの返信の都合で不快な思いをさせてしまっていたらすみません。この度はメッセージありがとうございました。(92ka)

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「突然で恐縮ですが駿河先輩、ちょっとピアスでも開けてみませんか?」
 突然も突然、突然が過ぎる。と、私の耳たぶにピアッサーを拳銃の如く突きつけてくる扇くんに、珍しく激しい抵抗を見せている私だった。
「いや、ちょっと待て。話が見えないぞ扇くん。とりあえず話してみろ。正直、積極的にきみに対する理解を深めたいとは思わないけれど、多分、話せば分かるから。とにかく、その、ピアッサーを下ろして」
 先輩を驚かせる為にわざわざ購入してきたのであろう、その穴を開ける為の工具を握る手を制止し、なんとか顔から引き離そうとしているのだが……結構力強いな、この子。ぐぐ、と力を込めて握り合った手と手は完全に拮抗していた。
「はっはー。話せば分かるって、控えめな命乞いのようでいて実は不遜な台詞ですよねえ。最終的に自分の意見を押し付けたいだけの言い訳じゃないですか。第一、僕達の間に対話は必要ありませんよ」
「必要ありまくりだよ。コミュニケーションを諦めようとするな。私は自分の意見を押し付けてでも自分の貞操を守りたい。そのくらいの権利はある筈だ」
「貞操は貞操でも耳たぶの貞操ですがね。まあ、思いの外普通の貞操観念をお持ちの駿河先輩に免じて正直にゲロっちゃいますと、僕も長くお付き合いしている先輩相手に、心を込めたプレゼントのひとつくらい用意しないと、いい加減愛想を尽かされてしまうかなー、と思いまして」
「尽かすとしたら今だよ、今!」
 私の耳元で試し打ちとばかりに針をガシャガシャやられている今!
 というか、開けるにしてもそんなにいきなり穴を開けるものなのか。冷やしたりとか消毒したりだとかするんじゃないのか? 開けようと思ったことがないから知らないけど、少なくとも心の準備くらいはさせて欲しい。
「冷やすとかえって開け辛いらしいので大変だと思いますよ」
「そんな正論っぽいこと返されても困るよ」
「えー? というか、駿河先輩なら痛いのがお好きだと思ってたのに。あなたの変態性って所詮その程度なんですね」
「そっ……!? いや、いきなり他人の耳に穴を開けようとする方が嗜好としては特殊だからな?」
「あはは。駿河先輩も中々言うようになりましたねえ――あっ」
 と、扇くんが上に覆い被さったまま、一貫してにこりともしない瞳で笑顔を作ったところで、私の巴投げが決まった。この技は安易に使いたくなかったのだが……しかし、彼は私の忠実な後輩を名乗っておきながら全く忠実な素振りを見せないので、私が有する奥義のひとつを見せるのもやむを得まい。
「あいたたた……酷いじゃないですか」
 数秒の間を挟んだ後、扇くんは部屋の隅から起き上がってきた。痛みを訴えてはいたけれど、作った笑顔は崩れていなかったので、同情の余地はないと判断する。
「そもそもどうしてピアス穴が開いていない人間にピアスを贈ろうと思ったんだ」
「ええーっと、……イヤリングだと思って購入したら、ピアスだったんですよね。返品するのも面倒だったし、だったら駿河先輩の耳にピアスホールを開けた方が手っ取り早いかと思って」
「本当の本当に私がきみに愛想を尽かすとしたら、多分今のタイミングだったな」
「ほらほら、どうせ話しても分からないでしょう?」

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「駿河先輩って、僕のこと好きでもなんでもない癖に、どうして僕とセックスするんですか?」
「……きみ、そういう面倒くさいことを言う子だっけ?」
「どちらかと言えば。というか、そんな遊び人みたいな返しはしないでください」
 傷付いちゃうじゃないですかー、と背中の方で扇くんがじっとりと笑った気配がしたが、大したダメージも追ってなさそうだった。こういう口ばっかりのところはそれこそ、面倒くさいの筆頭なのだが。
「あーあ。憧れの先輩が性にだらしないだなんて、見損なっちゃうなー」
 シーツの上に寝そべっていた私を、半ば潰すようにのし掛かっていた扇くんは、詰るようにそう言った。元からゼロ距離だった四本の脚の位置が、絡むような配置に組み変わる。
「今、きみが言える、ような、台詞、か……?」
 彼の下半身が、立てた膝を軸に動き始める。肌と肌が擦れる感覚はするのに、耳から入ってくる音はぐちゃぐちゃと水っぽくて、何をしているかは察しがつくが、あまりフォーカスを当てたくなくて、止める。
 微睡みに落ちそうになっていた頭をゆるく持ち上げると、自分の長い髪の毛先と扇くんの掌が目に入る。伸びっぱなしの髪。手袋をしたままの手。手首までを黒いシャツが覆っているので、私はその下の肌の色を知らない。
 なのに。
「ねえ、どうして僕と、してるんですか?」
「……っ」
 腰の奥から迫り上がってくる感覚が瞼が重くしてきたので、睫で視界に薄い闇が重なる。私から見えない方の手が、私を扱く。押して、引いて、圧して、退いて、が繰り返されて、私の喉が愉悦の声を作る。だけど多分、彼はこれが聞きたいんじゃあない。
「はあ……なんか疲れちゃったなあ」
 緊張と解放を一定量繰り返すと、体勢はそのまま、体重がもろに落ちてきて、私の背骨を圧迫した。着地点には私の頭があった。扇くんはそのまま顔を覗き込んできて。
「ねえ、どうしてだと思います?」
 三度同じ事を訊いた。そうやって私を責める彼の唇の感触も、私は全く知らない。

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「はあ……最近、なんだかやる気が出ないんですよねえ」
 講義が始まる前。教室の机に片肘を付けたまま、扇くんが言った。
 なんで彼が私の通う大学の講義室にいるんだろう? という疑問もないではないが、その突っ込みを入れるのも今更というか、野暮な先輩だと思われたくはないので、ここはスルーといこう。
 代わりに、
「きみがやる気に満ち溢れている様なんて想像付かないけどな」
 と、ちょっと強めに詰ると、扇くんは肘どころか頬まで机にぺったりとくっつけてうなだれながら、
「えー? そりゃあ僕は駿河先輩のように、いつでもどこでも元気一杯、お気楽に生きているキャラじゃないですけど、多かれ少なかれアップダウンはありますよ」
 と、反論した。台詞の半分以上が失礼極まりない言動で出来ていたので、危うく私の方が会話のやる気を見失いそうになる――のをぐっと堪えて。
「ちょっと早いけど、夏バテかな?」
「夏バテってなんですか?」
「えっ知らないのか? ……えーっと、暑くて食欲がなくなったり、身体が怠くなったり、そういう疾患のことだよ」
「あー、じゃあ多分それです」
 活力に欠ける肯定の返事をしながら、扇くんは私が持参していたカフェラテをストローから啜った(勝手に飲むことを許可した覚えはない)。確かに、私を煽るように見つめて来る瞳を覗き込んでみれば、心成しか虚ろな気がする(いつもだけど)。身体のみならず気持ちまで重苦しそうだ。
「あーあ。駿河先輩なんかに心配されるなんて、僕らしくないなあ」
「きみが落ち込むのは勝手だけど、先輩を巻き込むな。心配し甲斐がなくなるだろうが」
「はっはー。人は一人で勝手に落ち込むだけってやつですか」
「叔父さんの名台詞をそう悲劇的にもじって良いものなのか?」
 しかし、扇くんも病気になるんだなあ、と。
 考えてみれば極々当たり前のことなのに、何故かとても珍しい事象に遭遇したような気持ちになりながら、中身が半分まで減ってしまったカップを傾けていると。
「うーん……ちょっと自己肯定力を高めたいので、駿河先輩。手始めに僕の好きなところを百個くらい挙げて貰えませんか?」
「私がきみの好きなところを百も言えると思っている時点で、きみの自己肯定力は問題ないよ」

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「いい加減、友達に戻るべきだと思うんですよ。僕と駿河先輩」
 いつになく浮かない顔で扇くんが言った。
「戻るべきも何も……きみと私、友達以上になった覚えがないのだが」
「あれ? そうでしたっけ?」
「そうだよ」
 昔の阿良々木先輩にもその気があったが、扇くんはどうも記憶喪失を装おうとする節がままある。かてて加えて、私同様、ない筈の記憶を捏造してふざける癖もあった。ハイブリッドなボケ方は器用だけど、先輩として流されまいと気を遣う必要があった。
 のっけから重苦しい表情をしていたからどんなシリアスな話が始まるのかと思いきや、私が突っ込むとすぐにいつもの飄々とした顔に戻ったから、まあ、例によって言ってみただけのジョークなんだろうな。
「そもそも、僕と駿河先輩ってお友達同士なんですかね?」
「友達――とはちょっと違うのかもしれないけどな。先輩と後輩だし」
「何を仰るんですか。愛さえあれば歳の差なんて」
「だからそれは友達じゃない間柄で使う台詞だろう」
 きみはどうしても一足飛びで私との距離を詰めたがるよな。
「えー? それはつまり、僕とはお友達になりたくないってことですか?」
「先輩と後輩で良いだろう。今まで通り」
「ははあ、成程。どうしても友達になりたくないというのなら、僕も駿河先輩と改めて友達以上の関係になるのは吝かではありません」
「分かった。きみとは友達で良い」
「わーい」
 と、扇くんは両手を広げて喜ぶようなポーズを取った。
 ……なんだかなあ。
 友達が欲しいんだったら、最初から素直にそう言えば良いのに。
「じゃあ、友達の駿河先輩。今度お家に遊びに行っても良いですか?」
「まあ、そのくらいなら良いよ」
「友達の駿河先輩とお泊り会がしたいなあ」
「うーん? それもアリなのかな? 私は男の子の友達がいた試しがないので、いまいち加減が分かっていないけれど、友達だったらパジャマパーティーのひとつやふたつ、やってもおかしくないもんな」
「あー、でも僕、枕が変わると眠れないんですよ。なので、寝る時は友達の駿河先輩のお胸を借りても良いですか?」
「あんまりふざけるようだと私は今すぐきみの友達をやめるぞ」
 私だって健全な女子高生だから、エロい話をする友達は少なくないけれど、きみをそういう友達としてカテゴライズするのはちょっと違う気がするんだよな。
「え? 駿河先輩ともあろうお方が、まさか友達を選り好みしているんですか?」
「また嫌な言い方をするなあ。そうじゃなくて、誰にだって話題の向き不向きがあるって話だよ」

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うちのナースはおさわり禁止2

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 沼地蠟花のことを何も知らない。
 生まれも育ちも。将来の展望も。月に二度は私に会いに来て、安くはない酒と接客に金を落としていくけれど、その金はどこから回ってくるのかも。病院に人一倍苦手意識を持っている癖に、心理カウンセラーを志すようになった心境も――その病院嫌いの理由だって、全てを開示する義務などない筈なのに、沼地は私に話してくれた。しかし、それも私にとっては理解しかねるものだった訳で。
 とどのつまり、私は彼女のことを何も分かっていないのだろう。
 私だって、ただ黙って相手の隣に座っている訳ではない。実は喋り上手な彼女の言葉を――素直に受け取るには巧妙に混ぜられた皮肉をかわす必要があるし、毎度毒見でもするような心持ちにさせられる言葉の数々を――なるべく受け止めようとはしている。
 それでも私は、彼女について何も知らないと言えよう。相手の話を聞けないことは、少なからず自分が不道徳を働いているような気持ちも芽生えるが、しかし。
 時たま、何か些細な気まぐれがきっかけで、沼地の語る言葉にこちらが自ずから手を伸ばしたとしよう。すると途端に、彼女のとろいながらも過多な言葉の中からは、本質だけがするりと抜け落ちてしまうのだ。
 だから、私は彼女の言いたいことを、一つだって正しく拾えてはいないのかもしれない。
 でも、それでも良いと思う。その理由は、二つくらいある。
 一つ目は、語り手としての彼女はきっと、聞き手のクオリティまでは求めていないから。
 そしてもう一つの理由は――いつか彼女が言った通り、真実の開示の瞬間は、常に痛みと隣り合わせにあるからだ。

 沼地が借りている部屋の場所を知ってから、私の生活は大分楽になった。
 どれくらい楽になったかと言えば、今や客として店で会うより、プライベートで会うことの方が多くなったくらいだ。
 まず、そのアパートは職場に近く、大学から遠い。
 私のバイト代には送迎費なるものが付くのだけど、そもそもの稼ぎが(言い換えてしまえば成績が)芳しくないので――いや、同年代の中で見れば、額面は決して悪くない筈だ。稼ぎと共に消費も激しいから、と訂正しておこう。経済を豪快に回せるのは素晴らしいことだけれど、生活を成り立たせる為の支出を抑えられるのは、一大学生として喜ばしいことだった。
 加えて、学生としての顔がある以上、在籍している学校から離れた場所で活動出来ることは、私の心を少しばかり穏やかにさせた(つまるところ、私は身バレを恐れた結果、わざわざ自宅から遠い場所のバイト先を選んでいたので、週末に自宅に帰らないだけでも時間の余裕が出来た)。
 あと、これはここだけの話なのだが、私は彼女が使っている寝具が気に入っていた。
 セミダブルのベッド。
 知らない人にとってはそれがどうした、という話かもしれないが――いやいや、一人暮らしの学生にとっては、中々手が出し辛いものだとは思わないか?
 と、苦学生ぶってはみたものの――私の内面を知る人からすれば、家具の一つや二つ、ぽーんと買ってしまうような金銭感覚を有しているだろうと予測されるかもしれない(そして、その憶測は決して間違ってはいないとは思う)が、しかし現実はそうもいかない。
 ……私の部屋が、ベッドを運び込めるくらいに片付いていれば、良かったんだがなあ。わざわざ大型家具を運んできたというのに、業者さんが部屋に入った途端、さっと青ざめてしまったので、私も注文をキャンセルする他なかった。
 そんな失着エピソードはともかく(これを直接沼地に言えば、たちまち非難の視線を貰ってしまうだろう。だからここだけの話だ)。
 閑話休題。
 つまるところ、私は沼地の生活に甘えていた。
 だらだらに甘え切っていた。
 明け方、玄関のチャイムは鳴らさず、合鍵でドアを開ける。きついパンプスとストッキング、それからガーターを脱ぐ。ユニットバスの熱いシャワーでアルコールを抜く。濃い色のシーツに潜り込む。私が気に入っているセミダブルベッドは、成人女性二人くらいなら難なく横になれる。その日あしらった客の顔は上手に思い出せないけれど、週明けに提出を求められているレポートのことは憂鬱に思いながら、瞼を重くする。
 そんな甘やかな生活は快適だった。部屋の主から通い妻だと揶揄されること以外は。
 勿論、世話になっている以上、それくらいの軽口は目を瞑ろう。

 その日は手紙が届いていた。
 郵便受けの中身を覗くのは私の仕事ではないのだが、しかし、今日に限っては私がその役を仰せつかった。
「ぁ、痛っ」
 もとい、玄関先に置きっぱなしだった郵便物を、気付かずに踏んでしまったのである。
 磨かれたフローリングと紙の間の摩擦係数は小さく(ストッキングを穿いていたことも敗因かもしれない)、私はその場にすってんころりんと尻もちをついた。否、すってんころりんなんて可愛らしいオノマトペで表現したのは主観に過ぎなくて、実際はどったんばったんと近所迷惑な音を立てていたようだ。
 その証拠に、部屋の奥から沼地がのそのそと起き出してきた。
 寝ていたのだろう。後頭部にゆるく寝癖がついている。そんな顔を見せられると、人が通りそうな道に郵便物を放置した無精を責める為の憤りは、みるみるうちにしぼんでしまうのだった。
 足元に転がっていたそれを素直に手渡す。その大きな封筒は、私が足蹴にした所為か(わざとじゃない)、角がよれてしまっていた。
「何だ、その物々しい郵便物は」
「受験の手引きだよ」
「受験? 何のだ?」
「公認心理士の資格」
 コウニンシンリシノシカク。
「ほら。これでも一応、カウンセラー志望だから」
 という沼地の言葉に、やっと私の頭でも理解が追い付いてくる。
 えっ!? お前、資格の勉強なんかしてたのか!?
 いつの間に、そんな堅実なことを。
「てっきり、女遊びだけで食っていく気なのかと思っていたのに……」
「きみの中の私のイメージに何か思わなくはないけれど、現実にそんな生き方が出来ていたら苦労してないよ」
 と、沼地は眉間に皺を寄せた。
 そうだな。
 努力をしている相手に失礼な発言だった。
 お前が勉強をしている様なんて、私には逆立ちしたって想像がつかないけれど。しかし、沼地も見えないところで努力はしているということか。取得を目指しているというカウンセラーの資格がどんなものなのかは、分野に明るくないので分からないが……少なくとも、ヒモになるような努力をするよりは断然良い。
 しかし仮にそうだったとしたら、私みたいな奴が真っ先に食わせる側に回るんだろうなあ……。
 なんて、つまらない想像をしながら、シャワーを浴びに行こうと立ち上がったところで。
 ふと、郵便受けの下に、『何か』を見つけた。
 おっと、危ない。如何せん公認心理士のインパクトが大きかった所為で、見落とすところだった――と、冗談めいたことを考えられたのは、それを玄関先で拾い上げるところまでだった。
 その『何か』も封筒だった。
 先の受験票に比べれば、幾分かサイズが小さい。
 どこにでも売っているような、簡素な茶封筒。
 ただし、宛名も差出人の名前も見当たらなかった。それだけでもかなり怪しい。
 不自然さに後押しされ、蛍光灯に透かして見る。が、中は空っぽではないことくらいしか分からない。
「…………」
 少々躊躇はしたものの、私は中身を検めることにした。不用心極まりないことに、封はされていなかったから。
 ほら、危険物とか、怪文書とかが入っていたら不味いじゃないか。不気味で怖いじゃないか。
 中をそっと覗き込む。今思えば、そっちの方が対処は簡単だったかもしれない。
 怪しげな封筒の中には――一万円札が数枚入っていた。
 紛うことなき、日本銀行券である。一番高価な金額の。しかも、不自然に厚みがあった。
「他人の郵便物を勝手に見るなんて、趣味が悪いぜ」
「!」
 いきなり声をかけられた。
 思わず茶封筒を取り落としそうになって、そっちの方の手を上にあげてしまい、対象を相手から遠ざけるような形になってしまった。そんな暴挙に出た私を、沼地はじとりと睨んだが、それ以上追っては来なかった。
 彼女の冷たい視線が語る。
 この封筒の中身について。触らない方が賢明だ、と私の本能も警鐘を鳴らした。
 それ以上を聞けば、きっと、この甘やかな生活は瓦解する。
 しかし、私は避けることを――問題を先送りにすることを良しと出来なかった。
「これは、何だ」
 出来る限りの力で、感情を押さえ付けながら問うた。
 自分でも吃驚するほど、静かな声だった。
「さあね? 通り掛かりの優しい人が入れてくれたんじゃない?」
 はぐらかされた。しかも、やる気のないはぐらかし方だった。それが分からない程、私は馬鹿じゃない。
 面白くない気持ちそのままに相手をきつく睨んだが、動じなかった。
 彼女はきっと、私から追及させることを諦めている。
 重くわざとらしいため息が、私達の間に落とされて。
「……一ヶ月につき、五万円かな」
 先に沈黙を破ったのは沼地の方だった。
「だから、料金形態にもよるけれど、最低でも月に二度は会いに行ける。きみが聞きたいのって、要はそういう話だろう?」
 確かに、私から訊いた話だった。
 でも、聞きたかった訳ではなかった。
「私もアルバイトをしていてね。雇い主、もしくはクライアントとでも言えば良いのかな。その封筒は、そいつが郵便受けに入れたものだよ」
「…………」
 元から不可解な点はたくさんあった。
 彼女の賃貸ワンルームに通うようになって、生活水準のズレに気付くべきだったのだ。定職を持たない沼地の支出入は、とてもじゃないが、ナースキャバに通える羽振りの良さではない、ということに。
 しかし、私はそれらの不自然性を見ない振りをしてきた。
 見たくなかったのかもしれない。
「一ヶ月に二回、会いに行きさえすれば良かった。お店に行って金を落とす。きみがナースのコスプレで働いているのを確認する。それが仕事で求められた最低限のノルマだった。クライアントへの委細の報告は義務じゃなかったからね」
「……その、クライアントとやらの名前は」
「本当は言わない方が良いんだろうけれど、きみにも予想がついているだろうから」
 と、煩わしい前置きで予防線を張りながら、彼女は教えてくれた。
 貝木泥舟。
 聞いたことがある名前だった。
「つまり、お前はそいつの要望に従って、今まで私を指名していたってことか」
 なんて、私は不毛なことを聞いた。
「まあ、そうなるね。わざわざ訂正を挟むほど間違ってはいないな」
 だから不毛な答えしか返って来なかった。

「目的? いや、そういうのは知らないよ。私もきみと同じで、ただのバイトに過ぎないから。奴にどんな高尚な目的があろうと、下卑た思惑があろうと、私の及ぶところじゃないからさ。私は振られた役割に従って動いていたまでだ。
「知っての通り、私も心理士を目指していて――まあ、それなりに金もかかるし、時間もかかる。
「そうだな。まずは私がカウンセラーを志し始めた辺りから、話を進めようか。
「実はね。
「かつては私も、バスケットボール選手になりたかったんだ。
「神原選手も考えたことがあるだろう? 優秀なバスケットボール選手なら、一度くらいは思ったことがあるだろうし、そして大抵、それは通過点に過ぎない。学生時代の思い出の一つで終わるだろう。
「しかし、こういうことを自分から言うと嫌われてしまうかもしれないけれど――実際、私はなれたと思う。
「あそこで足を故障していなければね。
「……うん。今は治っているんだけど、でも、ちょっと時期が悪かった。
「あれは中学三年生の冬だったかなあ。推薦を狙っていた高校が視察に来ていた試合で、私は接触事故を起こした。その辺りは、あまり詳しくは語りたくないのだけれど、まあ、分かるだろう?
「私の夢は潰えた。
「なんて、格好良い言い方をしたものの、そんな前向きな将来設計じゃあなかったな。
「死ぬまでの時間をやり過ごす為の方法を、一つ失ってしまった。なんて表現をした方が、当時の感覚に近いかもしれない。
「大袈裟だって? それは大人になった今だから言えることだよ。大人になれた今だから、かつての自分を上から目線で慰められるのさ。
「足は駄目になった。
「だけど卒業を目前にして、他の進路を見つけなきゃいけなくなった。
「就職か、進学か。どちらも私には厳しい道に感じられた。ほら。得意な球技を軸に進路を決めていたから、受験に向けての勉強とかしていなかったんだ。という訳で、選択肢は無いに等しい。
「足のリハビリが終わるまでは、一応、家に置いて貰えたけどね。それが親から貰った最後の甘やかしだったよ。
「ん? ……いやいや、本当はね。その推薦先のスポーツ進学校には学生寮があったから、そのタイミングで家から出るのが理想だったんだ。
「ノーワーク、ノーペイ。
「なんて言われても、当時の私はまだ若かったし、自慢の足を失ったことで荒んでいた。いきなり他の道を見つけろと言われても、ねえ?
「しかし、挫折が私の転機となった。
「あれは私が偶然、学校の保健室を通り掛かった時だ。否、私がその時期保健室に通ったのは、言うまでもなく壊した足が理由にあったから、偶然ではなく必然だったのかもしれない。
「足が痛んだから、ベッドに横になっていた。ま、要するに不貞腐れて寝ていた訳だが。
「カーテン越しに、話し声が聞こえてね。
「口ぶりから察するに、常連じゃあなさそうだったな。
「始めはてっきり、私と同じように、体の不調を言い訳にしてサボりに来た連中かと思った。
「だけど違った。
「保健室に蔓延っていた彼女達が負傷していたのは、体ではなく心だった。
「まあ、他人に言うのは気が引けそうな、そして聞くのもはばかられそうな悩みを、ぽろぽろ喋っていたよ。それらは全て『ここだけの話なんだけど――』みたいな前置きで始まりそうなものばかりだった。
「確かに辛い話、心がしんどくなる話ばかりだったけれど、その奥には――愉悦があった。
「それはきっと、当時の私が不幸だったから気付けたんだろうね。
「そう。彼女らがしていたのは被カウンセリングじゃなく、不幸自慢だった。可哀そうな自分を可愛いと信じることで、心のバランスを保っているようだった――そして、それは決して間違った行いじゃあない。
「立ち聞きするのは気が引けたけど、すっかり聞き入ってしまって――そして魅せられてしまった。
「身体のみならず、私も彼女達と同様、メンタルに傷が付いていたのかもしれない。それが価値観を歪ませたのかもしれない。
「そして、その歪みは身体のリハビリが終わっても、ついに矯正されることはなかったよ。
「他人の不幸に触れることで、私の心は癒された。
「どうすればこの幸福を、もとい不幸福を確立させられるだろうか。あれこれ探し回った結果、私は今の進路に行き着いたって訳だ。
「カウンセラー。
「分かりやすい進路希望だろう? こうなってくると、やはり私も多分に漏れず、バスケットボール選手という夢は通過点だったんだろうな。
「手始めに、私は資格を取ることにした。
「さっききみが言った通り、堅実にね。
「資格を取るにはまず、資格を取る為の資格を得るところから始めなければならなかった。カウンセラーになるには大学を出なきゃいけなかったんだけど、私は中卒だったから、人生の舵の切り方をややハードモード寄りにしてしまった訳だ。
「それでも、私は諦めたくなかった。
「一度知った蜜の味を忘れることは出来なかった。
「とりあえず、素人感覚のカウンセリングごっこを始めてみることにした。何もかもが初めましての手探りだったから、こうして思い返してみると、仕事というより、趣味や道楽に近いかな。
「そもそも、私が心理士を目指し始める原点には、他人の不幸話を聞きたいという欲があったからね。仕事に直結しなくとも、とりあえずその気持ちを満たすことで、モチベーションの維持を図ろうとした。
「始めは対象を中高生に限定した。
「彼ら彼女らは匿名性を好むからね。先に述べた通り、素人の――言わばモグリの相談員だったから、責任逃れのリスクヘッジ的な意味で、名前を伏せて活動したかった。
「なんてもっともらしく理由を述べてみたけれど、こんな話は後付けかもしれない。単に、私の中の心理士のモデルケースがスクールカウンセラーだったから、その影響で無意識に相談対象を選んだのかもしれない。
「選り好みをしたんだ。
「ただ一つ、これは確実に言える。より生々しい話を聞けるから、という理由はあった。
「そんな最低な動機の元、私はひっそりと旗上げをした。
「不幸を愉しむカウンセラーの誕生って訳さ。
「……そんなに煙たがるなって。無論、私は相談者の話を真剣に聞いたよ。ほくそ笑んでいたのは、あくまで心の中でだけさ。
「その証拠に、私の慈善事業は中々に上手くいっていて――いや、謙遜を入れると話が煩雑になるか。
「好調だった。
「大成功だった。
「私の人心掌握の才能が、このタイミングで花開いたと言っても良いかもしれない。
「それをそのまま仕事に出来れば良かったのかもしれないが……いや、その好調さは私のカウンセラーごっこが完全無料相談所だったことに理由がないとは言えないだろうから、ここで採算が取れた気でいるのは拙速かな。
「そんな折だったよ。私と貝木が出会ったのは。
「きっかけは、何だろうな? とある街の相談者が抱える悩みを一本に辿った結果、私がその男に行き着いたんだったかな。それとも、貝木の方が、自身が勤しむ詐欺活動の妨げになるからと、私のカウンセリングに当ててきたんだったかな。まあ、そのどちらかだよ。
「彼は詐欺師だった。
「そして、話が分かる大人だった。
「この場合の『話が分かる』とは、『金払いが上手い』という意味だと思ってくれて良い。詳しい事情は割愛するけれど、それまでの私が如何に稚拙な金の使い方をしていたかを学ばせられたよ。
「私は貝木の仕事を手伝うことにした。
「相手の思想に感銘を受けた訳ではないけれど、ここでビジネスの場数を踏んだ大人からスキルを盗んでおいた方が、その後の自分にとって一助になると思ったんだ。
「主な仕事は火消しだった。詐欺師の巻き起こした火の粉を、適度に鎮火させた。
「具体的に言えば、傷付いた被害者の話を親身になって聞いてあげた。しかも、これは今までの活動と手口は変わらない上に、より込み入った身の上話を聞けるようになった。たまに現れるマジもののクレーマーは、然るべき機関を紹介してあげた。空々しく聞こえるかもしれないけれど、それらは私にとってかけがえのない経験になったよ。
「断っておくが、私は詐欺活動そのものに助力はしていないよ。あいつの思想に肯定もしていない。私が行っていたのはあくまで、被害者のメンタルケアだけだ。一人で切り盛りしていたプレ期間と同じように、無料でね。
「ただ、奴が働く社会悪的行為を阻害しようと動いて訳じゃないし、静観するのも悪だと責められたら、弁明は出来ないな。
「まあ、そんな風に。
「そうやって私は、カウンセリングの経験を積んで、精度を高めていった。
「そんな生活が続いたある日、貝木から言われた。
「『もっと金払いの良くなる仕事をしないか』
「ってね。
「どんな無理難題を押し付けられるのかと身構えていたけれど、あいつからは、
『ナース服特化型のキャバクラで酒を飲んで来い』
「とだけ言われた。
「訳が分からなかったよ。
「その時に渡された名刺には、きみの源氏名が書いてあった。だからてっきり、きみと貝木は知り合いなのかと思っていたけれど、その予想は外れだった。
「それも不可解な話だ。
「しかし、そんな不可解さもすぐに忘れた。きみのナースルックはそれくらい強烈だったよ――もとい、きみの思想や、キャリア設計図に、私は心を打たれた。
「ドクター志望の苦学生が、学費を工面する為に、ナース服で接客業に勤しんでいる。
「あの神原駿河さんが、自分の生活の為に、献身的に酒を注いで媚びを売っている。
「そんな風刺の効いたきみの姿は、私の目からはとても魅力的に見えた。
「同情的になったのかもしれない。もしかすると、強かにアルバイトに勤しんでいたきみに、少なからず自分を重ねていたのかもしれない……だとしたら、それは十数年前、互いがバスケットボールプレイヤーだった頃の弊害だけどな。同じコートでプレイしていた時代の記憶に引っ張られ、余計なシンパシーを感じたのかも。
「きみはきみ自身を指して『不幸じゃない』と言っていたけれどね。
「いつだったか、きみのプライベートを質問したことがあっただろう? その時に、通っている学校名も尋ねていたと思う。
「丁度、私はそこの編入試験を受けようかと思っていたんだよね。
「いつまでも小遣い稼ぎのバイトに興じている訳にもいかなかったから。ここで、私の当初の目的、資格取得に立ち返る。
「昔の知人が、人には言えないお店で秘密のアルバイトをしていて、尚且つその知人は私が編入を考えている大学に通っている。そしてどういう訳か、私が師事する詐欺師は、そいつに金を落とすことを期待している。
「ならば、仲良くならない手はないじゃないか。
「訳は分からなかったが、何かの巡り合わせじゃないかって、思いすらした。
「だから頑張ったよ。
「神原選手みたいな奴には分からない話かもしれないが、この歳になると、友達って意識して作ろうと思わないと作れないからね。
「人と友達になるのって、難しいよね。
「気の長い仕事ではあった。でも、時間だけはたっぷりとあったから。
「奴の払いをそのまま懐に入れられないのは歯痒かったけれど、このフリーター時代に仕事を失うのは避けたかったし、将来を見据えての実務期間も必要だった。
「果たして貝木の下での従事が実務経験にカウント出来るかは、正味曖昧なところではあるが……まあ、そこは詐欺師だ。対象が世間なのか私なのかは問わないが、とにかく、上手くよろしく騙して貰えることを期待するしかない。
「それに、私もそこまで悪い奴になるのは、気が引けたから。
「しっかしさあ、他ならぬきみの方が分かっているだろうけれど、我ながら、私の働きぶりは中々のものだったぜ?
「本当はね、毎日通おうかとも考えた。金さえ払えばきみに会えるんだし。クライアント、いや、もはやスポンサーかな? あいつに相談すれば必要資金のアップも見込めるだろうと踏んでいたのだけれど、それは流石に、きみに怪しまれるだろうと思って止めた。
「学生って肩書きはいざという時の盾にもなるが、今回の場合は足枷だった。分かるだろう?
「事実、今こうしてきみに暴かれてしまっている。
「話を戻そうか。
「だからね、あくまで自然に仲良くなろうと努めたんだ。
「毎回指名をした。勧められたお酒は積極的に飲んだし、飲ませた。新しいサービスも一通りは試した。
「きみはまるで私の我儘に振り回されているかのように振る舞っていたけれど、私の興味本位が自分の成績向上に貢献していることは分かっているのか、完全に拒否したことはなかったよね?
「世間が怪我をした人間に優しくなることは知っていたから、故障の経験を活かさせて貰った。松葉杖を引きずってアフターに誘ったり、それがまんまと上手くいったりね。
「うん。上手くいったんだよ。
「店の外で、プライベートで会う時間も増えたし、次第にナースじゃない時のきみの話を聞ける機会も増えていった。バイトのシフトの確認だけじゃなく、今や大学の履修登録の相談までされるようになったしね。
「……何だよ。別に、嫌々やっていた訳じゃない。
「多かれ少なかれ打算があったのは認めるけれど、きみとの火遊びは楽しかったよ。
「今までああも他人に執着したことなんてなかったから、毎日が新鮮だった。私の生活に張りを持たせてくれたという意味では、きみにも感謝しなければなるまい。
「まめまめしくキャバ嬢への連絡を怠らない私に、貝木は満足していた。きみも満更じゃあなさそうだった。私の懐も少しずつ温まっていったし、僅かながら知見も増えた。
「十二月には臨時ボーナスなのか、いつもの金額にちょっと色がついていた。これはそういうことかなって思って、私はクリスマスプレゼントを用意した。中々趣味が良かっただろう?

 と、沼地は場を混ぜっ返すように笑った。
 ばちん、と弾けた音がした。
 私の左手が、彼女の頬を張った音だった。
 相手の足元に茶封筒を叩き付けて、そのまま玄関から飛び出した。
 それ以来、私は沼地蠟花に会っていない。

 

0

うちのナースはおさわり禁止2

03

 沼地蠟花は一人暮らしをしていた。
 いや、戸籍謄本上は、今もしている。
 ならばどうして過去形で表現したかと言えば、ミクロ的に考えた場合に、つまりはここ数日の生活を振り返った場合に、現在進行形で表すのはどうかと思ったのだ。
 勿論、一人で食べて、一人で寝て、一人で暮らしていく為の最低限のルーチンワークが立ち行かない、という意味ではない。寧ろ一人で生きる方が何倍も気が楽だ。私は昔からそういう気質で、つまりはソロプレイヤーだ。
ソロプレイヤーだった筈だ。
 最近は、目覚ましを鳴らさずに起きた朝なんかに、布団の中でよくそんなことを考える。しかし、考えても無駄なことだということもは端から分かっていることなので、私は頭を持ち上げた。のそりと。
 そのままベッドから抜け出そうと、隣で山なりに盛り上がっていたタオルケットを跨ごうとして。足に柔らかいものが当たった。
「ぐ……」
 右足をぶつけてしまったものは神原駿河だった。丁度相手の太腿辺りをぐにゃりと踏んでしまった。
 私が寝起きしているワンルームは西向きなので、日が昇り切った明け方でもちょっと薄暗い。その所為もあって避け損ねてしまったのだ。
 それこそ、ソロプレイヤー時代には経験したこともなかったアクシデント。
 彼女は小さく呻き声を上げたが、私に非難の声は飛んでこなかった。
 だからなかったことにしよう。
 空きっ腹を抱えて、部屋の隅のキッチンスペースに立つ。僅かな希望を捨てずに冷蔵庫を開けたけれど、中には卵が一個しかなかった。
「ねえ、神原選手。卵が乗ってる卵かけご飯と、乗ってない卵かけご飯、どっちが良い?」
「その二択しかないのはあんまりだから買ってくるよ。ついでに少し走ってくる」
 と、いつの間に起きていたのか。
 彼女はきびきびと寝間着用のTシャツの下にスパッツを履いた。少し長めの丈のやつだ。
 私が何かを言うより先に、玄関で靴を履く。そのおろしたばかりのランニングシューズも、私の部屋に滞在中に買ったものだった。隣に置きっ放しのヒールを履いているところは、ついぞ見ていない。
「今日、バイトは?」
「入れてない」
「ん」
 頭の中でカレンダーを数えて、今日で七日目。朝のニュース番組ではUターンラッシュを報道していた。お盆休みの最終日、という世間一般の認識を、私も頭の隅にインプットする。
 夏休みの終わりが見え始めて、憂鬱な気持ちを膨らませる学生は多いのではないかと思うのだけど、彼女はその限りではないらしい。大学生の夏休みがとても長いというのは、私が最近新たに得た知見だ。
 自宅と学校の往復の休息タイムを得た神原は、ついでにナース服を着ることも休むことにしたようだった。

 きっかけは八月初旬まで遡る。なんて語り出すと異様な程仰々しく聞こえるが、きっかけはあくまできっかけに過ぎず、この日を境に彼女が抱えていた問題が露呈しただけだと私は踏んでいるが。
日曜日の二十七時過ぎ――つまりは月曜日の午前三時過ぎ。
 ……ねっむい。
 寝起きは最悪だった。というのも、私を叩き起こしたのが、突然鳴らされたアパートのインターホンだったからだ。でなければ、こんな冗談みたいな時間を指して早起きしたとは言わない。
 一人暮らしの私の部屋に、こんな時間に来訪するのはバイト上がりの神原選手くらいなので、ドアスコープ越しに相手の疲弊した顔を確認した後、チェーンのロックを外した。
 彼女はピンヒールを揃えて脱いだ。いつもそんなに行儀が良いのかと聞けば、雑に脱ぎ散らかしてヒールを痛めたことがあるらしく、私の前でのそれはただの経験則からのルーチンワークに過ぎなかったらしい。
「ああ、疲れた。起きててくれて助かったよ。あと、ついでにシャワー貸してくれ」
「…………」
 何だよ。いきなり現れて、その傍若無人な態度は。人の家に上がり込んだら、まずは『お邪魔します』とか言うもんじゃないの?
 なんて、面倒なことを思いはしたが言う筈もなく、相手の希望通り、そのままバスルームに押し込んだ。汗の匂いと香水のラストノートをさっさとまとめて落として欲しかったからだ。
 神原がシャワーを浴びる音を聞きながら待つのは、これで二度目くらいだっけ。しかし今回はあまり楽しい話じゃなさそうだ。なんてことを考えながら、部屋の隅に置いたままの、もう使っていない松葉杖に目をやった。これも彼女が気付いたら顔をしかめそうなものだ。
 風呂から上がって、裸の神原がバスタオルで頭を掻き始めるのを確認してから、私は訊いた。
「別に構わないんだけどさ、こんな時間に何の用? まさかうちでシャワーを浴びる為だけに来た訳じゃないんだろう」
「あー……まあ、そうなるよな。んー……別に隠すことじゃないから、良いか」
 なんて、逡巡の姿勢を見せながら不穏な前置きをした後、彼女は言った。
「家に帰ろうとしたら、店の客が出待ちしてた」
「通報案件じゃないか」
 ここまでついてきていたらどうするんだ。民事刑事問わず、ややこしいことに巻き込むのは止めてくれよ。
 私は再びドアスコープを覗いて人影がないかを確認したが、魚眼レンズを通して明け方の空がぼんやりと見えただけだった。
「大丈夫。まいてきたから。あと、知り合いのおまわりさんに通報しておいた。正義感の強い人だから、寧ろそっちの方が心配だな」
「はあ」
 と、神原はよく分からないことを言いながら、私のベッドに横になった。よっぽど疲れていたのか、ものの一分で寝息が聞こえてきた。

 程なくして、件の不審者は警察のお世話になった。と、いう話を神原から聞いた。
 知り合いのおまわりさんとやらは、よっぽどの仕事熱心だったらしい。はたまた、よっぽどの人格者だったかのどちらかだ。
「人格者とはちょっと違うような気もするのだが……まあ、私に限らず他の女の子も似たような経験をしていたようだから、結果的には良かったのかな」
 なんて彼女は言っていたけれど、それでも自宅に帰る気は起きないらしかった。
「ほら。夏休みだから」
 と、あまり身の無い理由を掲げながら、私の部屋に居座っていた。裸足であぐらを掻いていた。お昼ご飯のインスタントラーメンに卵を落として啜っていた。
「本当は味玉だとベターなんだがな」
「じゃあ自分で作ってみろよ」
「そんなそんな」
 麺を口に収めながら、神原はらしくなくふにゃりと笑ったが、それはあれだな。料理が出来ない奴の反応と見える。
「……一応、目標としている貯金額はあるんだ」
「ふうん」
 何の話で話題を逸らすのかと思えば、バイトの話か。
 ならば逸らされてあげよう、と。
 当たり障りのない相槌を打ちながら、私も自分の分の麺の塊を鍋から器に移した。ちょっと伸びかけのところを食べるのが気に入っていた。
「その目標を達成するまでは、何が何でもバイトを続けてやるって訳かい?」
 テーブル(正確には炬燵机だ。私は炬燵が好きで年中ずっと出しているのだが、神原には終始変な顔をされている)の角で卵を割りながら、私はあまり身の無い質問で場を繋げた。
「いや、そこまでの気概は無い」
「無いのかよ」
 スープの中に生卵が到達する。黄身が崩れて歪んでしまっていた。
「やめれば生活が変わるのは事実だけど」
 神原は淡々と言った。
「どうなんだろうな……正直、面倒なことを受け入れてまで続ける意義があるのかと言えば、別段そんなことも無い様な気がしてくるんだよ」
「面倒なことって、今回のケースみたいな?」
「も、含めてだな。前にも話したことがあるかもしれないけれど、元々、この仕事は向いてないんだとは思う」
 神原は気まずそうに頭を掻いた。
 まあ、確かに。
 よく喋る奴が、よく人の話を聞けるのかと言えば、別段そんな保証はないからな。
 神原駿河のコミュニケーション能力の高さは、絶妙な足し算と引き算の上に成り立っている。
 ま、それでそこそこ上手くやっていけてるんだから、これも一つの才能なんだろうね。立派な対人スキルの一種と言えよう。そこに本人の自意識がついて来れていなくとも。
「気にするなって。時間が解決してくれるさ」
「時間?」
「うん。仕事の上達も、時間の経過を待てば良い。嫌なことを忘れるのも、時間の経過を待てば良い。がむしゃらに働いているうちに自然と、きみも一人前のコスプレキャバ嬢になっている筈さ」
「そうか……って違う。違うよ。コスプレキャバ嬢は目指していない。私はスポーツドクターになるんだよ」
「あれ? そうだっけ」
「そうだよ。忘れるな」
「いつか独立して自分のお店を持って、自分好みの女の子を集めて、その全員にナース服を着せたい。とか言ってなかったっけ?」
「それも楽しそうだし、そして私が言いそうなことではあるが……」
「きみは何かと自己を過小評価しがちだけどね。もっと胸を張れば良いじゃないか。私はきみ以上のセクハラ看護師を見たことが無いよ」
「セクハラ看護師じゃない。セクシー看護師だ。セクハラ看護師だと大問題じゃないか。告発されて実名報道されそうだ」
「問題というならどっちも問題だとは思うけどな。社会問題だ。そうなると私に出来ることはさしずめ、学生時代の知り合いってことで、マスコミからのインタビューには答えておくくらいか」
「やめろ。お前にカメラを向けたがる奴なんていないから」
「『とてもそうは見えませんでした。真面目で人当たりが良くて、優秀なアスリートだったから……』」
「そういう生々しい裏事情を話すな」
「あはは」
 軽く嘲笑してみせる私。
 すると、そこで神原は気持ちを切り替えるように。
「しかし、実入りは良い分、若いうちしか出来ない仕事だしな。しばらくは、それを支えに頑張りたいと思う」
 なんて。
 まるで自分に言い聞かせるように言った。慰めるように言ったのかもしれない。
 しかし、賛同し兼ねた。し兼ねたというより、し損ねた。
「それはどうかな」
 と、うっかり口に出してしまった私に対し、まさか口を挟まれるとは思っていなかったのだろう。意外そうに眉を上げる。
 さて。
 用意した本音を開示したら、彼女がへそを曲げることは容易に想像がついたが、ここで押し黙るのも許されそうになかった。
 ので。
「……確かに時間は有限だけど、使い方は有限じゃないからさ。今しか出来ない仕事って決め付けて、それに身を投じる自分には価値があるんだと。そんな感じに思い込んでいるだけじゃない?」
 途端、彼女の目がつり上がった。
 やっぱり失言だったね。
 しかし、相手も私の性格を解してきたのか。それとも自身の性格を省みるようになったのか。はたまた私が言わずとも思うところがあったのか――だとしたら随分と無粋な真似をしてしまったことになる。
 どれが真相かは分からなかったが(全部かもしれないな)、とにかく、スルーすることに決めたらしい。
「おかわり」
 神原は仏頂面のまま立ち上がり、新しいラーメンの小袋を開けた。そして冷蔵庫から、今朝買ったばかりの卵を摘まみ上げる。
 実は意外と彼女は大食漢――ではないか。この場合は。
「贅沢な食べ方をするなあ」
「良いじゃないか。残しておいても、痛むだけだろう」
 と、白い殻を割って、今度は鍋に直接中身を落とした。夏場に湯気を立ち昇らせた所為で、また室温が上がった気がする。
 私達は二人、卵を無駄に消費して生きている。

「沼地のベッドって良い色だよな」
 神原が感心するようにそう言ったのは、その日の夜のことである。
「そう?」
「うん。私がずっと白いシーツを使っていたからか、なんだか新鮮な感じがするんだよな」
 と、神原は背を伸ばした。実にリラックスした様子で。
 何の気なしにぼやいた彼女からは昼間の熱が嘘みたいに引いていた。まるで私との付き合い方を覚えた結果、角が落ちたかのように。
 ただ、果たしてそれは良い傾向と言えるのだろうか。
 私のシャンプーで髪を洗い、私のバスタオルで体を拭いて、今は私のベッドの上であぐらを掻いている彼女が。
「……なあ、神原」
「ん?」
 彼女が顔を上げた瞬間。
 どん。
 後ろから背中を叩くような音がした。
 窓の外がおぼろげに光っている。カーテンを開けると、遠くの空の片隅で、閃光が綺麗に輪を描いていた。
「へえ、お前の部屋って花火が見えるのか」
「私も知らなかった」
「なんだ、勿体ない」
 どこか楽し気な様子で、窓の外に向き直る神原。
 その顔を見て、私の腹の底では疼く気持ちがあった。
 手首を掴む。不意を突かれた様に、目を見開かれた。掌の中があっという間に汗を掻く。
 もう少し花火が見たい、と言った神原を遮って額をくっつける。露骨に眉間に皺を寄せた彼女に向かって、私は何て返したんだったかな。また見れるだろう、とか。そんな適当なことを言ったに違いない。
 相手の瞳が二色の光を映す。遅れて、遠くで鳴った花火の開く音が、私の腹に響く。
 そして、彼女のお気に入りのシーツの上になだれ込んだ。

 翌朝のことだ。
「帰る」
 と、ため込んだ洗濯物と、新しく買い込んだ衣類、その他諸々を詰めた袋を抱えて、神原は私の玄関の戸をくぐろうとしていた。
 一体どんな風の吹き回しなのかと思わなくもなかったけれど、そこは来る者拒まず、去る者追わず。カウンセラー的には一回は追った方が良い効果が得られる時もあるのだけれど、その時は今じゃあない筈だ。
「送って行こうか」
「ん? じゃあこれ、手伝ってくれ」
 抱えていた荷物を半分手渡された。
 自分の名誉の為に言っておくけれど、この衣類の山は私が不精して洗濯機を回さなかった結果ではなく、神原駿河が私と同じタイミングで脱いだ衣類を洗おうとしなかったことが原因だ。全く、横着なんだか、それとも一周回った潔癖症なんだか。私には理解しかねるね。
 途中で休憩しようと、駅前のファミレスに入った。外食するのも随分と久しぶりな気がした。しかも、彼女と一緒にとなると。
「同伴みたいだよね」
「やめろよ」
 聞けば、夜にはバイトのシフトも入れているのだという。切り替えが早過ぎるだろう。どういう心境の変化なんだか。
「あー……バイト、行きたくないなあ」
 飲み放題のオレンジジュースに浸けたストローを噛み潰しながら、神原はぼやく。そんな様は、まるで試験期間を目前にして憂鬱さを覚える高校生のようだった。
 しかし、私達は高校生じゃない。
 だから、選択権がある。
 行きたくないって嘆くくらいならさあ。
「やめちゃえば良いのに」
「やめないよ」
「ふうん」
 彼女の答えは強情、というより強かと表現する方がそれっぽいような気がした。
「きみが何を考えているのか、私には全く分からないね」
「私が何かを考えて動いているように見えるなら、お前は病院に行った方が良いな」

 

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うちのナースはおさわり禁止2

02

 神原駿河の仕事着が変わった。
「衣替えだ!」
 意気揚々と披露してくれた新しい仕事着とは無論、看護師が着用するワンピースを模したそれのことを指している。それがどこかクラシカルな形のものに変わっていた。
 ……どうせならナース服から一新すればいいのに。
 今までのボディラインがよく見える(時点で現場で使用されているような業務用の白衣とは違うんだろうってことは嫌でも察しがつく)制服とは違う。
 エプロンドレスって言えば良いのかな?
 ロリータ? ゴスロリ? 厳密にはそれらともまた違うんだろうけれど、目に馴染んだ(好きで馴染んでいったんじゃない)前の服とは随分と様相が変わったから、曖昧なイメージが先行してしまう。
 旧制服のタイトスカートとは打って変わって、膝まであるふんわりとしたシルエットのスカート。裾ではフリル増量中といった感じの出で立ちだった。
「そんな恰好で接客業が務まるのかよ」
 あと、元スポーツ少女がそんなキャラクター性を放棄するような恰好をして良いのかよ。
「安心してくれ。私はスポーツ少女時代も、ゴスロリでバスケットコートを走り回っていた女だぞ!」
 ……うーん。
 そんな自己申告から何が安心出来るのか、私にはさっぱり分からないね。
 衣装替えによっぽど自信があったのか。それともナース嫌いの私の鼻を明かせるとでも勘違いしたのか。
 彼女は、今まで私に見せて来た中で一番に得意満面の笑みだった。ウインク(実は上手い。顔の筋肉を動かすコツを熟知しているのかもしれない)とかしちゃっていた。
 そして、そのコスチュームチェンジに合わせてなのか、神原は、ほんの数日前まで腰まであった長い髪をばっさりと切っていた。
 頭の形が綺麗に出る爽やかなショートカットは、かつてバスケットボールプレイヤーだった彼女を彷彿とさせ――ないか。ないない。思い起こすには頭の上のナースキャップが邪魔過ぎる。
「でも、どうしていきなりイメチェンなんか。ひょっとして、失恋でもしたの?」
「してないしてない。ほら、髪型が変わっている方が続編っぽいから」
「続編?」
 いや、この話は掘り下げるべきじゃないかな。
 あんまりメタなネタが過ぎると嫌われちゃうからね。
「うん……。正直、このスタイルになってから、成績はちょっと下がった」
 と、それまでの自信はどこへやら。彼女は悔やむように肩を落とした。おや、と不随意的に私の眉が持ち上がる。愚痴っぽい神原が珍しく感じられたからだ。
『成績』というのはこの場合、キャストとして指名された数のことか。それを聞くと、さっきまでのドヤ顔は、自分で自分を鼓舞させる為のハッタリだったのかもしれなかった。良かれと思ってやった営業努力が振るわない、というのは成程、それはちょっと心にキツそうだね。
「まあ、男受けするかどうかは微妙なところだろうな。慰めてやるから元気出しなよ」
 シャンパンに口を付けながら、私は彼女の肩を抱いた。そろそろアルコールが私の気を大きくさせる頃だった。
「心にもないこと言うんじゃない。顔が笑ってるんだよ。私が楽しんでる時のリアクションは希薄な癖に、私が落ち込んだ時には笑うってどういうことだ。人の不幸を面白がるな」
「あはは、バレた?」
「……はあ。やっぱり髪が長くておっぱいが大きいナースの方が好かれるんだろうなあ」
 なんて、まるで全人類の嗜好がナース服に帰結するような言い方で神原は総括をしたが、無論、そんなことはない筈だ。
 現に、その狭いフェティシズムの輪の中に入れない奴が、きみの目の前にいる。

「……酔った」
「え。珍しいな。珍しいというか、お前が酔っ払ったの初めて見たぞ」
 思ってたより強かったか? という神原の呟きを耳に入れながら、私は天を仰いだ。そのまま上半身を右にスライドさせると、着地点に太腿があった。
「マナーが悪い」
「ここだと女の子に一任してるんだろ。■■■さんのルールだと?」
「……一見さん以外は、断らないようにしている」
「じゃあ平気だね」
 それ以上は追及されなかった。
 おろしたばかりだという制服は、既に煙草の香りがしたし、その奥には香水の甘さがあった。
 上を見上げると、神原は厳しい顔で新しいシャンパンのボトルを凝視している――が、それがどこか遠くに感じられた。……胸が邪魔で見づらいだけかもしれないけれど。ちょっと避けて貰えないかな。
「あれ? もしかしてノーブラ?」
「な訳ないだろう。ノーノーブラだ」
 否定語が二重になった分、より強く否定された気がするし、そのまま胸部を触っていた腕を払われた。
 ついでに、神原は両腕で上体を抱えるようなリアクションを挟んだので、膝に垂らしてあったエプロンが私の頬を擦った。
「…………」
 駄目だ。なんとか茶化して誤魔化せないかと思ったが、瞼が重くなってきた。
「……薄々思ってはいたけれど、ここってキャバクラの割に、コスプレ色が強いよね」
「そうか? いちゃキャバ全体で見れば少数派かもしれないけれど、イメクラとかはこんなもんじゃないのかな。行ったことが無いから知らないけれど」
 知らないのかよ。
「いや、ほら。コスプレが好きならメイド喫茶でバイトするって手もあったんじゃないの? って思って」
「それは無理だ。私がご主人様と呼ぶのは生涯で阿良々木先輩だけと決めているから」
「? 阿良々木先輩って?」
「あと、別にコスチュームプレイに執着がある訳じゃないから」
 よく言うぜ。
 新しいスタイルの制服に心躍らせながら言うには、些か説得力に欠けると思った。今の私が酔っ払って判断力に欠いた状態じゃなかったとしても、そう感じたに違いない。
「……慰めてくれるんじゃなかったのか」
 薄目を開けると、神原が不服そうな目でこちらを見ていた。
ふと、彼女に私のことが好きかどうかを言葉で尋ねてみたくなったが、それはまたの機会にしておくことにした。

 

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うちのナースはおさわり禁止2

01

「神原選手って、医者なんだっけ?」
「違う。今は当ナース系いちゃキャバ場内指名ナンバー4のセクシー看護師だ。というか、私の名前は■■■だ。神原選手って誰ですか?」
「流石に自分を見失い過ぎじゃない?」
 あと場内指名(ってあれか。本命になるまでじゃあないけど、話してみると案外楽しいってタイプ?)の数で誇られても今ひとつピンと来ないし、毎回本指名料を支払っているこっちの気持ちを全く考慮していない。そんなだから、上から数えて四番目という中途半端な数字なんだよ。
 でもまあ、聞くまでもないことを訊いた過失は認めよう。ここでは隠しているけれど、彼女が医学部在学中の学生だってことを、私――沼地蠟花は既に知っていたからだ。
 ならば質問を変えようか。
「じゃあ、■■■さん。ダメ元で訊くんだけどさ。きみ、診察って出来る?」
「診察? ……ああ、分かった。そういうことか。ほんと、お前も好きだよなあ。『診察』ワンセット入りまーす」
 彼女は分かったような顔をして、カルテに見立てた伝票に走り書きをし、安っぽいナース服の前をくつろげた。桃色の生地の下から見せブラが顔を出す。軽薄そうな赤色だったが――いや、それは良い。話の本筋じゃないから。■■■さん、もとい、神原駿河さんは分かったような顔をしておきながら、なんにも分かっちゃいなかった。
「いや、全くそういうことじゃない。『診察』はナースパブ限定裏メニューを指した隠語じゃない。私の顔におっぱいを押し付けないでくれる?」
「ん? 違うのか?」
 人の話は最後まで聞いて欲しい。キャストのオーダーミスの分までサービス料を払えと言われたらどうするんだ。ぼったくりもいいところだぜ。神原選手のドリンクバック分から引いといてくれよ。
「私の記憶が正しければ、きみって医者の卵だろう? ちょっと診て欲しいんだけど、ってことだよ」
「ん? お前、どこか悪いのか? なら、こんなところでお酒なんか飲んでいたら、身体に毒じゃないのか?」
 意外そうに眉を上げる神原。それとは対照的に、私の眉間は狭くなった。
 ほらね。弱った身で相談に来ているのに、いきなり小言から入るから嫌いなんだよね、医療従事者って。
「自分だって心理カウンセラー志望の癖に」
「だからこそ、耳当たりの良い言葉を選べるようになりたいんだよ。で。なんか、目が痛くてさあ」
「目? 目かあ……うーん、眼科は専門性が高いから、よく知らないんだよなあ……」
 なんて、小賢しい言い訳をしつつ。神原は私の方に向き直った。膝頭と膝頭がくっつく。
「私は膝頭より膝小僧って言い方の方が好きだがな。ほら、美少年を彷彿とさせるから」
「じゃあ小児科医にでもなれば良いのに。子供の膝くらい、よりどりみどりの眺め放題だろう」
「いやでも、ガチな少年の膝って大抵擦り剝けているから。美少年のお膝のお稚児さんは大抵傷だらけだから。いやらしい気持ちに――じゃなかった、痛ましい気持ちになってしまう」
「お稚児さん?」
 首を傾げた私と再度対称に、「まあ、それは良いんだ」と、神原は頭を振った。
「……本来なら、医師免許を有していない者は、医業をなしてはいけないんだぞ。医師法で禁じられているんだ」
「固いこと言うなって。有名な医療漫画の天才外科医はモグリだったじゃないか」
「アッチョンブリケ」
 中々ノリが良かった。
 そのままのノリの良さで、神原は私の瞳孔を覗き込む。
 今までで一番、ナース服が様になったシーンかもしれない。品性に欠けるピンク色じゃなければ尚良かったのに。あと、ナースワンピの前が閉まっていれば。
「目のどの辺りが痛いんだ? ……こら、擦るな。傷が付いたら一生ものだぞ」
「んー……」
「痛いのはいつからだ? どんな風に痛む? まばたきして、ゴロゴロする感じか?」
 ……うるさいなあ。
 いつだったかは、私が神原を質問責め(主な質問内容は、『どうしてきみがナースコスプレ特化型のキャバクラでバイトをしているか』だった)にして、渋い顔をされたことがあったけれど、今になってポジションが逆転していることに、何か思わなくも――ないか。うん。ひたすらに面倒くさいだけだ。
「痛いのは、この間、熱を出して以来……ああ、それはもう平気、復調したんだけどさ。目の腫れだけ収まらなくて――うん、まばたきすると気になる」
 新しいおしぼりで手を入念に拭いてから(ちょっとだけそれっぽいな)、私の目元に手を伸ばしてくる神原。下の瞼を親指でゆるく押し下げられる。負っていた疾患との相乗効果で、絶妙な不快感。
「触られると、痛いんだけど」
「すまん。いや、すまんなことないよ。ちょっとは我慢しろ。おっぱい見てて良いから」
「何の慰めにもならない」
 私を何だと思ってるんだ。
 ていうか、どれだけ自分の胸に自信があるんだよ。
「実は今日から新しいブラなんだ。誰かに自慢したくて堪らなかった」
「ふうん」
 意外や意外。さっき私がスルーした方の話を、神原が本筋にしたがっていたとは。しかし残念だ。用意された広い紙幅を、期待通りに埋めることは出来そうにない。私の描写スキルは高くないからね。悪しからず。
 それでも一応、と。目前にあった服の合わせ目に集中してみようと試みる。が、あんまり上手くいかなかった。
 涙袋の異物感が瞼を重くさせていたってのもあったけど、普通に、神原の手に遮られて見えなかった。
 この店の従業員は、キャバ嬢らしくネイルをしている女性も多いのだけれど、彼女の手がそうではなかったことは良かったか。その辺りは、裏の顔(本来はナース服の方が裏の顔な筈なので、裏の裏の顔かもしれない)が医大生なだけある。手を使う実習も多いのだろう。今は患者に見立てた上客の手を握ることに忙しくしているが、いずれ本物の患者の患部を触ることに忙しくなるのかもしれない。よく分からないけれど。
「……よく分からないな。暗いし」
 一瞬、私の思考を読み取られたのかと思ったが、そんなことはなかった。ただ早々にさじを投げられただけだった。
 人の眼球をじっくりたっぷりと観察した挙げ句の台詞がそれだとしたら、まったくもって頂けない。
「直前に熱が出た、というのは気になるけどな……正味な話、ここで相談するより、すぐにでも病院に行った方が良いと思うぞ?」
「…………」
 それが易ければ、苦労はしないんだよねえ。
 私のフットワークは、一度左足の故障を経験していても(寧ろそれが転機となっていて)、決して重くはない。
しかし、行き先が病院の場合は、その限りではないんだよ。
「ん? どうしてそんな顔をする。もしかして、お前、病院が苦手なのか?」
「今更にも程があるね。冒頭の注意書きにも書いてあったじゃないか」
「何の話だ?」

 今回のオチ――いや、診断結果か。
 神原の『診察』を受けてから、翌々日。
 仏頂面でセクシー看護師をはべらす私がそこにいた。
「ものもらいだって。全治一週間」
「ふうん? じゃあ、発熱もただの不摂生か。良かったな、大したことなくて」
 と、重い腰を上げてまで通院結果を伝えに来たというのに、かようにつまらない反応をされては、私も肘をつきたくなるってものだった。
 本当は診て貰った日から大分良くなってはいたんだけど、眼帯をしたまま来店して見せたのは、ちょっとしたあてつけである。
「……あまり良くなかった目付きが更に悪くなったな」
「悪いのは私の目じゃなくて、きみの口の方なんじゃない?」
 ナースが患者に優しくないってどういうことだ。表面上は過剰な接客を模しているところが尚更、質が悪い。
「思えば、『目付きが悪い』って、割と酷いこと言ってるよなあ。目の付き方なんて、自分ではどうしようもないのに」
 どこか辛辣な見解を添えながら、神原は私の空いている方の目を覗き込んだ。今度は額と額がくっつきそうな距離まで近づく。
 と、そんな絶妙なタイミングで、店のスタッフが席にやってきた。
 途端、距離が出来た。
 ……いや、違うかな。適切な距離に戻されたんだ。それまで投げ出されていた神原の脚が、秒で行儀良く畳まれていて、そんな様に私は苦笑してしまう。いやはや、彼女も器用になってきたものだ。
 しかし、問題なかろう。
 近付い来てすぐ、彼は物珍しそうな視線で私を一瞥していたから(よくあることだ)。そして、今度は神原に向かって何かを耳打ちした。
「はい……はい、わかりました」
 きっと、■■■さんにご指名が入ったのだろう。指名が被るようになってきたということは、きみもそこそこ成績が振るうようになってきたんじゃない?
 しかし、ヘルプで呼ばれる子に興味は沸かなかったので、時間には余裕があったが私もお暇することにした。
「じゃあ行ってくる……じゃなくて、『ごめんなさあい、もうお時間なんですー。また指名してくださいね、お大事にっ』」
 語調に合わせながらなのか、左右の手指を使ってハートマークを作る自称セクシー看護師。
「……体裁の為だってことは言わずとも分かるけど、もうちょっと心は込められなかったのかよ」
 いや、それこそ目も当てられなくなりそうだな。と、私は帰り支度を始めた。

 

0

天国に割と近い部屋

01

 阿良々木暦は生きることが好きだけれど、希死念慮を抱くことは決して珍しいことではなくて、それは十八歳になる直前の春休み然り、中学一年生の夏休み明け然り、その他諸々、その都度具体的なシチュエーションは覚えていなくとも、何度となく息苦しさを感じてきたのは真実なのだった。
 死なない人間は居ないけれど、生まれてから死ぬまで一度も死にたくならない人間も居ない。居ない筈である。潔く認めるには少々悲しさが付き纏うけれど、居ないのである。短いようで長い人生、苦しいことや恥ずかしいことを前にして、「ああ、今の失敗無かったことにならねえかなあ」なんてみみっちいことを思うのも、それまで生きてきた自分を否定するという側面で切り取れば、ささやかな自殺願望の一種と見なせる――というのは流石にラジカルな極論だが、生きとし生ける者は多かれ少なかれ自分を殺して生きていると、僕は思う。人間誰しもそういうところはあるだろう。吸血鬼だってそうなのだから。なので、そういうところも愛していかねばならないのだと、学んできたのが僕の青春だったと言えよう。
 ついでに述べれば、死にたくても死に切れない吸血鬼時代や、実際に死んだ大学受験当日の出来事だとかを鑑みて、まあ生きている方が地獄だな、と思うことしきりな訳だが――しかし結局、なんだかんだ生きているのが僕である。どんなに自分を最低な人間だと罵ろうと、最低な人間にも最低限の人権が保障されているのが現代社会。だから、此度己の周りの人間関係がちょっとばかり変化したことによって生じた軋轢に、メンタルを擦り減らされた僕が、高校時代から懇意にしている後輩の神原駿河を捕まえて、
「いっそのこともう死にてえよ……」
 と、嘆いたところで、それは軽口の域を出ないのである。
 遡ること数日前。当時付き合っていた彼女に振られた勢いで誘った焼き肉屋からの帰り道、というシチュエーションも、その場の言い訳になってくれるだろう。この時に感じていた精神的苦痛は嘘偽りのない本物の苦痛で、誰に代わって貰うことも出来ないけれど、それでも僕は忘れる力と立ち上がる力を備えた男の子なのだ。なので、ただ立ち上がるまでの時間が欲しかった。関係の変化を望んだ末、断絶を選んだ元彼女に言わせれば、僕の数少ない美点である立ち直りの早さも行き過ぎれば汚点でしかない、と指摘されたのも悲しい事実だが。だけど、だけどだ。今日のそれもとりあえず口に出して気持ちを軽くしたい、とにかく背負っているものを半分にしたいが為に言った「死にたい」だった。その荷を背負わせる相手が自分を慕ってくれている年下の後輩である、というのが超格好悪いというのは理解しているが、ひとまずは目を瞑って欲しい。僕が運転するクルマの後部座席に座っている、現在に至るまでどんな醜態を見せても尚、僕を慕い続けてくれた年下の後輩なら――神原駿河さんなら、きっとこう言ってくれるだろう。
「良いか、阿良々木先輩。死にたいという気持ちは逃げだ。自殺願望というのは、言い換えれば甘えだ。どんなに辛かろうと悲しかろうと、生きることから逃げるのは悪いことだ。そして、私の尊敬する阿良々木先輩は、そんな逃げ道を選ぶことを良しとするような人ではない筈だ。私の期待は山よりも高く海よりも深いけれど、阿良々木先輩はいつだって私の期待に応えてくれたじゃないか。それでも、今回ばかりはどうしても、阿良々木先輩が自分の脚で立ち上がることが出来ないというのなら、僭越ながら若輩の身であるこの私に、どうかあなたの尻を叩かせて欲しい。あなたが望むなら、私は喜んであなたの尻を叩かせて頂く。いや、決して先輩の健康的な尻を好奇心の赴くままに叩いてみたいだとか、そういう邪な気持ちは――全くないと言えば嘘になるが……いやいや、この期に及んでそんな些細なことは気にしなくても良い。叩く側と叩かれる側とでどちらか選ばなくてはならないとしたら、私は迷うことなく自分の尻を差し出すだろうし」
 ……こんな感じか?
 自分の頭の中で組み立てた後輩の像が思いの外うるさ過ぎて、不要に心を折ってしまいそうになったが……ともあれ、言葉の選び方に多少の差異はあれど、矮小な僕に対してさえ、厳しくも優しい大きな心を以って接してくれる彼女は、今宵も僕を不遜に叱咤激励してくれるに違いない。というか、なんでも良い。どんなにくだらない話題でも、面白おかしい話題で塗り替えてくれれば、それで――と、思っていたのだが。
「そうか……うん。それもひとつの道かもしれないな」
「……えっ」
 実際の神原は僕の泣き言を前にして、まるで得心いったかのように、静かに頷いただけだった。
 意外にも。
 思いもよらず。
 予想だにせず。
 少なくとも、彼女は悪戯に死を肯定するようなタイプではなかった筈だ。
 …………。
 阿良々木暦は今の今まで知らなかったのだが、実は、神原駿河は正道を外れることに存外躊躇がない奴だったのかもしれない。この後輩と奇妙な縁が始まって早二年、知らない一面って案外まだあるもんなんだなあ、と穏やかに分析する気にはとてもじゃないがなれなかった。きっと、僕は期待していたのだ。期待を寄せられていたのは僕ではなく、神原の方だった。期待していて、そしていざその期待を裏切られたことを、少なからずショックを感じている。尻を叩かれたいと望んでいたのも、他ならぬ自分だったというのか……。出来ればずっと気付かずにいたかったぜ。
「僕はもう駄目だ神原……」
 頼むから、どうかそんなこと言わないでくれよ。僕の記憶の中ではお前、いつだって真っ直ぐに走っていたじゃないか。と、縋るような思いを抱えながらクルマを走らせる。しかし、かように落ち込んでみせるのが自分勝手だということも、分かってはいるのだ。
 堪え切れなった溜め息がひとつ、車内に深く響いた。すると、急に後ろから腕が二本するりと伸びてくる。確認するまでもなく、神原の腕だった。そのまま座席ごと僕の上半身が抱き締められたので、反射的に心臓の打ち方がテンポアップした。危うくハンドルを切り損ねるところだったが、理性で押し込めて平静を装う。僕もいい加減、二十歳を迎えた大人なので、このくらいのスキンシップに一喜一憂するようなデリケートハートではいられない。
「そんなことを言わないでくれ。私は阿良々木先輩のことを心から慕っている。だから、あなたが悲しんでいると私まで悲しい気持ちになってしまう」
 そしてここにきて、神原後輩は僕が欲しかった言葉をくれた。
 ……これ、僕じゃなかったら危なくないか? こんなん無実だろうが。このまま法廷で裁判にかけられたとしても、僕、無罪勝ち取れるんじゃないの?
 しかし、彼女の湿った肌には焼けた牛脂とアルコールの匂いが残っていて、ますます訳が分からなくなりそうである。つーかシートベルトしろよ。にこにこ笑顔で僕に抱き着いてないで。あと、僕はドライバーだったので誘った張本人の癖に飲めなかったのだが、神原はギリギリ未成年だったのにアルコールを舐めていた(自分の名誉の為に言わせて頂くと、先輩として一応止めはした)ので、ここでおまわりさんに捕まるとそれこそ社会的に死んでしまう。
 そんな風に、前頭葉が勝手に現実逃避を始めた結果、神原の家へ続く筈の曲がり角を、僕はうっかり曲がり損ねた。

 
02

 未成年の後輩と一緒にウィークリーマンションに身を寄せるのって、もしかして犯罪になる?
 しかし、阿良々木暦は走り出したら止まれない、もとい、転んだら坂の下の下まで転がり落ちるような男なので、その辺りは諦めて欲しい。もう道を突き進むしかない。どの道もう契約しちゃったし。その後のことは契約期間が過ぎた一週間後に考えよう。しかし、せめて罪悪感は薄められねえかなあ、と頭の中で思い付く限りの言い訳を並べながら、僕は新居へ向かう電車に揺られていた。遠方に新しい居を構え、その際二人の足として使っていた自家用車を置きに一旦実家に戻った後、再度契約した賃貸マンションに向かう道中。先に向かわせた神原は一足先に入室している頃だろう。
 ふと、車窓から見える風景の端が、青い色をしていることに気付く。
 窓の外には海があった。
 初めて見たよ、海。
 二十歳を過ぎてそんなことあるのかと、人によっては驚かれるかもしれないが、僕が生まれ育った地元の街は海がない土地だったのだ。しかし、綺麗な海面を確認出来たのはほんの短い間だけで、傾いた夕日と逆方向に位置していたそこは、既に黒い絵の具を溶かしたかのように暗闇を広げ始めていた。さっきまでは確かに青い色をしていたのに、日が沈んでしまうと、その場所はまるで底をなくしたように見えた。海も夜には暗闇になるんだな。知らなかった。
 思えば遠くに来たものだ。

 駅からの道のりの途中にあったコンビニで食料を調達した後、一度もくぐったことのない玄関をくぐる。知らない部屋には見知った神原が待っていて、傷心気味の僕を元気に出迎えてくれた。
「おかえり、阿良々木先輩」
「お、おう……ただいま」
 どもってしまった。眩しい笑顔に気圧された。僕の逡巡をものともせず、神原はそのまま、コンビニの買い物袋を持っていなかった方の僕の腕を巻き取るようにして、身体を絡ませてくる。完全にされるがままだな、僕。それからキッチンに引っ張られていき、買ってきた食品パックを電子レンジに突っ込んだ。……この部屋は台所のなりをしている割に、やけに使用感がないと思ったけれど――そうか、調理器具が殆どないのだ。
「……あのさ、神原」
「ん?」
 レンジの中でぐるぐる回る野菜炒めを眺めながら、未だ腕に張り付いたままだった神原に、僕は訊いた。
「お前はさ、本当に、僕の為なら死ねるって思えんの?」
 つーか、それで良いの?
 怖いとか思わないの?
 降りたいなら降りたいって言って良いんだし、というか言ってくださいお願いします。なんでお前、僕みたいな奴を心の底から信奉してるんだよ。後輩の人生を無思慮に消費しようとしている僕なんか、信じて良い筈がないじゃないか。僕はたまにお前が怖い。
 なのに。
「うん、死ねるぞ」
 神原駿河は、僕の言葉に力強く頷くだけである。
「阿良々木先輩の為になると言うのなら、私に迷いはない。しかし、阿良々木先輩。そう何度も確認されると恥ずかしいぞ。なんだか照れてしまう」
 かような台詞を、いつもの雑談の最中に垣間見せるきらきらした笑顔で言うものだから堪ったものではない。繰り返しになるが、僕は神原に後ろ向きなことを言って欲しい訳ではない。僕への憧憬が――そもそもそれ自体、神原だけが見ている幻に過ぎないのだが――僕の中の彼女を曇らせてしまったのだとしたら、それ以上に悲しいことはないのだから。
「……っ」
「ど、どうしたんだ阿良々木先輩、大丈夫か? とりあえず私を抱いておくか?」
「……こんなテンションで抱けねえよ」
 僕の罪は重くなる一方である。一体いつからこんなことになってしまったのだろう。そんな風にぐずっていたら、気付けば腕の外側ではなく内側に神原がいた。
「抱かないと言った筈だが」
「ならば熱いベーゼを交そう」
「フランス語を交えてねだっても駄目」
 昔、相手の為に死ねるなら、そいつは自分にとっての友達なのだと身体を張って教えてくれた奴がいたけれど、じゃあずっと生きていて欲しいと思った相手のことは、なんて呼べば良いんだろうな。

 
03

 海を見に行ってみたい、と声を挙げたのは神原の方からだった。僕の方は、自分の街から逃げ出したその日に見たあの海の色が記憶に残っていたので、あまり気乗りはしなかったのだが、しかし、後輩たっての願いとあっては仕方がない。それに、僕の我儘に付き合わせ続けてゆうに三週間は経っているので、ずっと部屋に閉じ込めておくのも、そろそろ可哀想だ。
「阿良々木先輩が俗世に染まらない高尚なお方だということは十二分に理解しているが、そんなに厭世家ぶらなくても。私の水着姿が楽しみだと素直にテンション上げれば良いではないか」
「二月の海に水着で入る気か、お前。温水プールじゃねえんだぞ」
 衣食住を共にし始めて随分経つのに、この後輩はいつまでもポジティヴなボケ方をしてくれるから嬉し涙が出そうだぜ。しかし、そもそも隠棲地に水着なんて持って来てはいなかったので、手ぶらで海岸へ向かう僕と神原だった。焼肉店の帰り道に僕を惹き付けた神原の「らしくなさ」は、新しい生活と向き合っている中で、次第になりを潜めていったように思える――のも、やっぱり僕の願望でしかないのかもしれないが。
「あ。手ぶらと言っても、阿良々木先輩が期待しているような手ブラじゃないぞ? 下着はちゃんと着用している。他人の女になった神原駿河は一味違うのだ。そのくらいの分別は付く」
「誰もそんな期待はしていない。手ブラで冬の海を泳いでる奴がいたら、それこそ通報案件だろうが。かえって目が離せねえよ」
 他人の女、に関してはスルー。ツッコミにくいので。
「ふふ、まさか阿良々木先輩の視線を独り占め出来る日が来ようとは。私もえらく出世したものだな」
「言ってろ」
 かようにコメントし辛いツッコミ返しを食らいつつ、沿岸の道を歩いた。砂浜は住処にしていたマンションからそう遠くない場所にあった。そして、この近隣では真冬に浜辺で遊びたいという欲求を抱く輩は少数派らしく、僕達の他に人影はなかった。魚を獲って生計を立てていそうな地元の漁師の人も、季節を問わず一年中海を愛していそうなサーファーもいない。どっちも生まれてこの方、実際に見たことはないけど。
「すごいな、海。久々に見たぞ」
「うん。僕は初めて近くで見た」
 広い。大きい。そして波の音って、結構うるさい。空と海を分かつ水平線はどこまでも並行だった。僕と神原の二人きりという点では部屋の中と同じなのに、場所を変えただけで閉塞感が全くない。まだ太陽が高い位置にあった所為か、水の色は殆ど青だった。良かった、暗闇じゃなくて。
 そして神原は本当に海に入る気でいるらしく、浜辺で靴下を脱いでいた。穿いていたズボンの裾を捲り上げて、裸足の踝を水に浸ける様を、僕は見守る。中々に勢い良く飛び込んでいったので、水飛沫が綺麗に立った。いい加減しつこいが手ぶらで来たので、タオルとか持ってきてないんだけど。どうやって足を乾かすつもりだ。お前のそういう後先考えないところ(は僕も大概だが)、今はちょっと良いなって思えるぜ。
「冷たい! 冷たいぞ阿良々木先輩!」
「だろうな」
「冷たいを通り越して痛い。足の指が千切れそうだ」
 とのことだったが、言葉とは裏腹に、実に楽しそうな様子で、神原はざぶざぶと海に入っていく。遠慮も躊躇する素振りも見せない。このまま放っておいたら、腰から上まで浸かりにいきそう。不意に、頭の片隅に「入水」の二文字が浮かぶ――これ、下手したら、もう帰って来ないんじゃねえの? と、いきなりそんな焦燥感に駆られて、僕は走り出した。初めて触れる海。一歩入っただけでその冷たさに全身が総毛立つ。水飛沫が派手に舞って水面が泡立ち、スニーカーはあっという間に海水を吸って重くなる。濡れた靴下が足指に纏わりついてきて気持ち悪かったが、構わず走った。距離は数メートルもない筈なのに、なんだか神原がとてつもなく遠くに感じた。やっとのことで追い付いて、相手の手首を掴んで引き留める。神原が振り向く。そこには笑顔があったので、ひとまず首の皮一枚は繋げられたような気になれた。息を切らしながら相手の肩を抱く。
「はあ、お前、なんで……あんまり驚かすんじゃねえよ」
「ん? ああ、ちょっと夢中になり過ぎてしまったか……ふふ、阿良々木先輩は、どこまでも私に付いてきてくれるのだな」
「な、なんだよ、それ」
 そういうのが得意なのはお前の方だろうが。
「海は偉大だな、阿良々木先輩。生物の起源を感じる。生命のスープだ」
「あれ? なんだっけそれ。なんか聞いたことある」
「元はコアセルベート説だが、恐らく、阿良々木先輩がご存知なのは新世紀エヴァンゲリオンに出てくる台詞の方だな」
「あー……映画館も、また行きてえなあ」
「行けば良いではないか。いつでも付き合うぞ」
「うん」
 なんて、いつか来るかもしれない映画の公開日について僕達は話した。それ以外にも、これまで多くの話をしてきた。たくさん、色々。生命の源が海であったなら、人生もまた海である。人の一生を空模様で例える人もいるのだから、海に例えたって良いじゃあないか。幸せと不幸せには波があって、希死念慮も生の実感も、寄せては返すを幾度も繰り返している。誰かと一緒に生きている限り、阿良々木暦はどうしたって相手の時間を削りながら生きていて、それに目が向いた時は少し息苦しくなるけれど――実はとても幸福で贅沢なことだと、僕は思う。なのに、しょっちゅう忘れてしまう。どうにも僕は忘れっぽくていけない。だけど、そんな僕を否定してくれるような相手は、ここには居ないのだ。
 ここには神原駿河しか居ない。
 僕がそれを望んだから。
 奥歯を噛み締めながら深呼吸をすると、潮風の所為か、口の中がちょっとしょっぱくなった。
「なあ、神原」
「ん? なんだ?」
「……いや、なんでもない。そろそろ帰るか」
「おう」
 帰る。そうだ、帰ろう。帰るんだ。相手と向き合う覚悟が出来たから。僕らはまた始めなくてはならない。
「ついでに、コアセルベート説を提唱したのはオパーリンという学者なのだが、聡明な阿良々木先輩なら、この人名から何か感じるものがあるとは思わないか?」
「思わない」
 シリアスにギャグを混ぜてくるな。珍しく真面目な感じにまとまりそうだったのに。

 
04

 それから程なくして、どこかの地方紙の片隅に僕達の死亡記事が載った――かもしれない。今生はそういうオチにしておこうか。

 

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