カッターナイフ

Reader


「なあ、あんずさん、カッターを貸してくれないかあ?」
 いきなりの不躾なお願いを前にあんずは咄嗟に眉根を寄せたが、しかし素直に自分の事務机からカッターナイフを取り出した。チキチキと刃を鳴らし、刃こぼれがないことを確認してから手渡してくる様を見て、
(丁寧な子だなあ)
 と、斑は心中で感心の声を漏らした。
「ありがとうなあ。ん? 何に使うのかが気になるって、顔に書いてあるな。いやいや、大したことじゃあないんだ。あんずさんの仕事を遮ってまで説明をするような、面白い話でもないと思うんだが」
 言って、単なる手癖なのか、はたまたあんずの真似をしたくなったのか、斑も自分の手元でチキチキとカッターを鳴らした。その様子に、あんずはまたも眉間に皺を寄せる。事情を伏せるのは斑の悪い癖だ。個人ユニットをメインに活動していた所為か、元々その気が強かった斑だが、二人組での活動を経験したこともあって、その自覚も芽生えてきた。しかし、どうにも一度染みついた性分というものは、中々抜けきれないらしい。相手に最低限の情報しか与えない。それはMaMの看板を掲げている三毛縞斑の、母親らしい面だと言えば真だ。しかし、そんな母親像の中の負の面を尊重するのも違うだろうと、あんずは案じているのかもしれない。別に今は急ぎの仕事もないからと、食い下がられた。
「……あー、わかった。わかったから、そんな怖い顔をするもんじゃない。可愛いお顔が台無しだぞお。俺はいつもみんなに笑顔でいて欲しくてアイドルをしているんだから、君にも笑っていて欲しい。事情は話すから……とは言っても、本当に大したことじゃあないんだがなあ。ははは、仰々しく引っ張った手前、恥ずかしいが」
 斑はバツの悪そうな顔でカッターナイフを懐にしまった。自分の中では、もっと気軽に、同じクラスの女の子から文房具を借りただけ、そんなノリに納めたかったのだが。もっとも、そんな青春めいた時期を海外で過ごしていた彼なので、上手くいかないのも致し方ないのかもしれなかった。
(こういうところがこはくさんに言わせるところの、「肝心なところで不器用なんやね、ぬしはんは」ってやつなんだろうなあ……)
 空いていた事務椅子に腰を下ろしながら、斑は自身をそう分析した。目の前には、真摯な顔で自分と向き合っているあんず。こはくもあんずも、自分よりずっと人間が出来ている。
「本当に大したことじゃあないから、お仕事をしながら聞いて貰って構わないぞお。俺もそんなに見詰められるとやや話しにくい。……実は、少し前に、ちょっとした、しかしよんどころのない事情故に、俺が子供を預かることになったのはあんずさんも知っているよな。そうそう、ご存じJのことだ。君も、あの子育て番組の立ち上げに関わっていた筈だから、記憶にあると思うんだが」
 勿論だとばかりに、あんずはこくこくと頷いた。結局、机に広げていたノートPCに向き直ることはなく、彼女はしっかりと斑と向かい合って耳を傾けている。
(ほんっとに、丁寧な子だなあ)
 斑の頭の中でまた同じ感想が過ぎっていき、自然と苦笑が滲んだ。そういうところを気に入ってはいるが、心配にもなる。当人からしたら余計なお世話かもしれない心配だが、しかし「ママ」がする心配だとしたら妥当だと主張したい。
(おっと、思考が逸れた)
 不意に浮かぼうとした自分の自然な表情を器用に飲み込んで、斑はへらりとした笑顔を作り直してから続けた。
「その時だったかな。Jと一緒に絵を描いて遊んだことがあったんだが、その時使った色鉛筆が部屋からひょっこり出てきたんだ。丁度暇していたし、気まぐれに使い切ってやろうと思ったんだが、生憎俺の部屋には鉛筆削りがなかった。事務所に顔を出す道すがら、会った知り合いにも聞いて回ったんだが、誰も持っていないと言う。わざわざ鉛筆削りを買いに行くのもなあ……ってことで、ナイフで削っちまおうかと思い至った訳だ。どうだ? 別に面白くもなんともなかっただろう?」
 と、伺いを立ててはみたものの、彼女が否定する筈がないと斑には予想がついていた。その通り、あんずは首を横に振った。時に厳しい反応を返すこともあるが、こういうときのあんずは相手を否定したり、馬鹿馬鹿しいと笑うこともない。それを知っていたから、斑はこの部屋に入って来た時、事務所のデスクに彼女の存在を認めて安心したのだ。
「え? 物騒なことに使われなくてほっとしたって? 酷い言われようだなあ。俺はただ、純粋に楽しくお絵描きをして遊ぼう! って考えていただけだぞお。なんならあんずさんを描いてあげよう。人の特徴を捉えるのには、ちょっと自信があるしなあ」
 遠慮します、とすげなく返される返事もまた、斑の予想の範疇だった。得心が行ったのか、ようやく自分のPCに向き直ったあんずを背にして、斑も無人のデスクに向き直る。カッターナイフを取り出して、すっかり先が丸くなっていた鉛筆を削り出した。背中合わせに、キーボードのタイプ音と新しい色鉛筆の匂いが染み渡っていった。

2