奴隷以上シッター未満

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「忍ちゃん、私と一緒にお風呂に入ろう」
「断固拒否する」
 僕こと阿良々木暦が不在の神原家で、こんなやりとりが行われたらしい。
 これはあくまでも伝聞を下敷きにした話なので、仔細は阿良々木暦の想像力によって補われたものであることを理解して貰った上で聞いて欲しいのだが、忍曰く、神原からそんな唐突な提案があったことは事実であった。無論、かつて夜の世界を席巻した女王たる忍が、そんなフレンドシップに溢れた提案に舌を巻いたのは言うまでもない。まず、彼女の物語には友達と呼べる関係の人物が登場する機会が極めて少なかった。それに、僕との物語が始まり、王の冠を戴かなくなったとしてもだ――忍野忍は、神原駿河を苦手としている。六百年生きた吸血鬼にとって、六年前に起きたマウントの取り合いはまるで昨日の出来事と言っても過言ではない――いや、今のは嘘だ。あいつは結構忘れっぽいので、六年前のことだろうが五分前のことだろうが、忘れることは忘れる。しかし、神原駿河のことだけは、忘れ難い苦々しい思い出として脳に深く刻まれているようだった。
 しかし、神原駿河の方はそうでもないらしく――というか、僕から述べるのも恐れ多くて堪らないのだが、あいつはあいつで僕と僕の細君の忠実な後輩でいることに努めているので、苦々しかろうと痛々しかろうと、
「阿良々木先輩と阿良々木先輩の門出を祝って、一緒にお風呂に入ろう」
 とか言うのだ。恐れを知らずに。
 念のため注釈しておくと、このふたつの阿良々木先輩のうちのひとつはひたぎさんを指している。これ、この先もずっと続くと思うとややこしいな……。
 忍は忍で、六百歳としてのプライドがあるのか、神原のことを年端もいかない子供として扱うことを止めようとはせず、成人した彼女に対しても鷹揚に振る舞う大人な八歳児としての姿勢を崩さない。
「門出は結婚式でとっくに祝ったじゃろう。儂は文字通り影ながらの祝福じゃったがの」
「新婚旅行に同行した奴隷同士、互いを労って汗を流そうではないか」
「人の話を聞け。儂的に言えば、うぬは儂の完璧な、主様への祝福のプランニングに水を差した邪魔者じゃぞ。どの口が儂に意見出来ると思っとるんじゃ」
 主様もとい相棒の阿良々木暦の口から言わせて貰えば、忍の完璧なプランニングはかなりドラスティックなものだった。それを神原の人間的感性がソフィスティケートしてくれたおかげで、僕達は臥煙伊豆湖さんに首を切られずに済むことになるのだが――この時の忍は、そんな裏事情をまだ知らない。
 知っているのは、主である阿良々木暦が、忍野忍を阿良々木家の養子にしたがっているということ。そして、それについて忍野忍と神原駿河は同じ懸念を抱いているということだ。磁石の対極のように神原を毛嫌いしている忍だが、皮肉にも血縁に関するナイーブな事情については心情を同じくしている。
「意見ではなく提案だ。勿論、忍ちゃんが嫌なら無理にとは言わないが、しかし、私はこのタイミングで忍ちゃんと親睦を深めておくことが無益だとは思わない」
「このタイミングとは、儂と我が主様が離れている一瞬のことか? ふん、我が主様がいなければ、儂はただの幼女じゃからな」
 続けて、忍は「かかっ」と自嘲的に笑っただろう。僕にはわかる。しかし、神原にはわからなかったようで、だからこそ、わからないからこそ黙らずに物申せる強さが彼女にはあった。
「私も、阿良々木先輩が考えるように事が収まってくれるのが一番良いと思う。今の世なら、幼女は養女として生きるのが最適解だと思う。だけど、もしそうならなかったら」
「うぬなんかに言われんでも、それこそ儂の望むところじゃ。覚悟はしておる」
「いや、覚悟なんかして欲しくないんだよ。私は。同じ奴隷仲間として」
「儂とうぬを同じ土俵に上げるな。同じ奴隷として語るな」
「む。私がただのおふざけでエロ奴隷を名乗っているとは思われたくないな」
「むしろおふざけ以外に何かあったら困るじゃろ」
「ふざけてないから言うんだよ。阿良々木先輩だけでなく、私にもきみの髪を洗わせて欲しい。主人を同じくするエロ奴隷が、ロリ奴隷の髪を洗うのは問題ないだろう?」
「…………」
 僕の奴隷に関する見解はさておいて――あくまでも命令系統の話だと集約させた点で、神原は賢かった。
 神原の言うタイミングとは、僕と忍が物理的に離れた場所にいるという意味だったが、ひたぎと忍が知り合った後で、かつ顔を揃えていないタイミングという意味でもあったのだろう。もし、ひたぎが忍を養女として迎えることを拒んだら、僕と忍は今までの関係を、今まで通りのペアリングを続けていくことになる――言うまでもなく、阿良々木暦は忍野忍の意思も阿良々木ひたぎの気持ちも、裏切りたくはない。神原駿河は、僕のそんな懸念を敏感にキャッチしたのかもしれなかった。医者を志すだけあって、誰よりもリスクマネージメントを徹底している彼女だからこそ。ひたぎがブライズメイドを任せる訳だ。
 忍はどう思っただろう? その長い金色の睫毛を伏せて、つまらなそうに頬を膨らませたかもしれない。あるいは、猿娘の考えることは全くわからんと、わかりたくもないと、そのまま神原家自慢の広い風呂場への招待を受けたのかもしれない。僕の与り知らぬ話だ。

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