鶏卵の回想

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 その日は朝から頭が痛かった。
 重い瞼を擦りながらカーテンを開けてみたが、窓の外が霧がかってどんよりした空模様だったって訳でも、俺の昨晩の良いとは言えない素行により質の悪い風邪を貰って来たような覚えも、ない。しかし、頭が痛む。正直ずっと毛布に包まっていたかったが、既にシャワーの音が小さく聞こえてくることに気が付かない俺ではなかったので、欠伸を噛み殺しながら寝床から抜け出した。顔を洗って、適当に自分の男ぶりを確認し、そのままだと額に垂れてくる前髪をゴムで括る。それにしても頭が重い。なんででしょうね――っと、朝食の準備の為にキッチンに立ちながら、スマートフォンで適当なニュースのチャンネルを流していたら、得心がいった。
「本日四月三十日は、彼のグロンダーズの会戦より■■年が経過し――」
 と、画面の中のアナウンサーが固い声で報道していたことだけは耳に入って来たのだが、丁度フライパンの上に鶏卵を落としたタイミングだったので、肝心なところを聞き逃した。ま、あの地獄が百年前だとしても千年前だとしても、今となっては誤差の範囲内だ、と俺は綺麗に焼けた目玉をプレートに移す。先生が風呂場から登場したのは丁度そのタイミングで、間の良い人ですねえ、と冷やかしてみる。赤子のような恰好で登場した先生は、どう贔屓目に見ても先生と呼んで良いような出で立ちではなかったが、現に先生だったのも百年前だか千年前だかの話だし、まあ良いか、なんて思う。俺しか知らない先生だ。先生は偶に常識が抜けている素振りを見せる。しかし、先生が赤子のように振る舞えるようになったのは、戦争が単なる過去の事象として報道出来るようになってからなのかな、なんて思うと、まあ俺の自尊心だか征服心だかに近い部分が、たぷりたぷりと満たされるような感覚があった。
「……竜が食べたかった」
 俺の肩越しに皿を覗き、先生が小さく呟いた。鶏卵の目玉焼きはお気に召さなかったらしい。ただ、俺はここ五年余り朝食のメニューを変えていないので、ひょっとするとこれは先生なりの冗談なのかもしれない。
「先生、まだ寝惚けてるんですか? 竜の卵が食えたのはもう何年も前でしょうに」
「そうだっけ」
「ええ。そりゃあ俺だって、あんたの希望はなるだけ叶えてやりたいんですけど、今の時代、勝手に食ったら捕まりますよ」
「それは困る」
 言って、先生は分かっているのかいないのか判然としない目のまま、俺の手から調味料の瓶を抜き取り、目玉に塩胡椒を振った。困るってのは、何が困るのだろう。愛護法で指定されている動物の味を忘れられないことだろうか。密漁を取り沙汰されて法の裁きを受けることがだろうか。それとも、俺がいなくなることが、だろうか。それこそ朝食のメニューを固定するずっと前から、俺は先生が困った様を見た覚えがなかった。それこそ、百年千年前ならいざ知らず。一度は世界を治めちまった先生が、法に阻まれ好きなものを好きに食べられないというのも、なんだか滑稽な気がする。生も死も凌雅してしまった先生の血も、なんだかんだ時間の流れ、時代の移り変わりには敵わないということなのかね――俺も、もう竜の乗り方を忘れちまったなあ、とまだ鈍く痛む頭で考える。

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