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「ふっふっふっ……私には分かっておりましたとも。阿良々木先輩は、最後には私の元に戻ってくるとね」
 待ち合わせ場所で、そんな決め台詞? を決めた(色々な意味でキマっている)扇ちゃんは確かに僕の知る忍野扇だったのだけれど、なんだかいつもと様相が違っていた。違い過ぎていて、違いが分からない男として知られている僕こと阿良々木暦にも易しい、実に分かりやすい形態変化だったと言えよう。
「私の形状記憶に価値を見出しがちな阿良々木先輩の期待を裏切ってみました」
「きみはいつも嫌なところを裏切るね」
 具体的に述べれば、まず、きみはそんなかぶいた笑い方をするような子じゃなかっただろう。叔父さん由来の謎めかした笑いで場を混ぜっ返すような子だったろうに――という僕の指摘すらも「そんなのどっちも大して変わらないじゃないですか」と一笑に付されそうである。が、ここはあえて丁寧にひとつずつ違いを挙げていこうじゃあないか。
 ひとつでも見逃すと、後が怖いし。
 何が起こるか分からなくて、怖い。
 まず――扇ちゃんは、容姿が違った。顔の造りこそ僕の記憶の中の扇ちゃんそのままで、その必要な時に必要な分だけ動かす表情筋の癖も全くいつも通りではあったのだが、
「おや。真っ先に私の顔について述べるとは、阿良々木先輩も存外面食いですねえ。いやはや、私の顔が良くて良かったです。顔を良く産んでくださったお父さんに対し、感謝の念を抱かない日はありませんよ」
「僕もきみのような皮肉屋さんを産んだ親の顔は、一度じっくりと見ておきたいよ」
「手鏡お貸ししましょうか?」
「要らない」
 自分の顔をじっくり眺めるのはまたの機会にするとして、そう――表情こそ忍野扇のそれだったが、その顔を彩るヘアスタイルが変わっていた。これには僕も素直に驚いた。僕が本当に忍野扇に形状記憶を求めているのかどうかについては、しっかりと否定しておくべきだとは思うが、それを抜きにしても彼女が髪型を変えたのは意外ではあった。思わぬ死角から急所を打ち抜かれたような、ちょっと高低差の激しい驚きの気持ちがある。
「おやおや? それって、恋に落ちたって意味の比喩表現ですか? 私の新たなる可能性を垣間見て、心臓を射貫かれた的な」
「さも当たり前のように、心臓に『ハート』ってルビを振る後輩に胸を開くのは、中々度胸がいるけどな。まあ、ちょっとドキドキはしたよ」
 なんたって、扇ちゃんは僕の記憶のボブカットの後ろをばっさりと切り落としていて、なんというか、とてもスタイリッシュな雰囲気を纏わせていたのだ。細い首のシルエットがはっきりと分かるカッターシャツを着込み、まるで髪型に合わせてあつらえたかのようなパンツスーツ(カジュアルな印象を受けたから、ひょっとしたらスーツではないのかもしれない)も、これまたボーイッシュさを加速させている。まあしかし、表情の作り方こそ記憶通りの女の子なので、そのちぐはぐさで混乱する僕を楽しむ為のドレスコードなのかもしれなかった。僕が直江津高校に在学中の頃から、彼女は大人びた面と背伸びがちな面のリバーシブルを演出している節はあったけれど、でもここまで年嵩の印象を与えてくることはついぞなく、僕は不躾ながら結構な時間と視線を彼女に与えてしまった気がする。
「成程成程。確かに阿良々木先輩、女性の年齢を服装と腰付きで判断するような、あんまり褒められないやり方をする人でしたもんね」
「いや、あくまで判断材料ってだけで。あと腰付きには言及していない。周りが勝手に言ってるだけだから」
「でも、阿良々木先輩。大人びたとか大人っぽいとか年嵩とか、割と言いたいこと言っちゃってますけど、そもそも大人ってなんだと思います? 阿良々木先輩は――じゃないか。えっと――私って大人になれると思います?」
「へ?」

「大人っていつから大人なの? ――というのは、思春期のプロである阿良々木暦ならば幾度も挑み続けてきた問だとは思いますが、しかし容易に答えを見付けることが出来た人はいないでしょうね。何故なら、これの回答には普遍性がないからです。言ってしまえば、いつだって流動性を持つことが求められ続けている――そんな問題です」
 ずい、と扇ちゃんはそのショートカットの頭を僕に近付けてきた。鈍い僕はその時やっと気付いたのだが、いつも通りだと思っていた扇ちゃんの顔は、間近で見たら全然そんなことはなかった。極めて自然で、だからこそ馴染み過ぎていて気付かなかったのだけれど、彼女の唇には綺麗に紅が引かれていた。思春期のプロとして、反射的にどぎまぎしてしまう。
「簡単に化粧をしたからと言って、大人になったとは勿論言えませんよね。ただね、お化粧をしたいという気持ちが芽生えたというのは、自分という生き物を客観視出来ている証左とも言えるでしょうし――自意識の拡張。そういう意味では、この回答だって、全部が全部間違っているとは言えないのではないでしょうか」
 扇ちゃんは滔々と持論を続ける。して、その真意がどこにあるのかを測るのが、今の僕に期待されているのだとは思うのだが、彼女の語り口は既に結構なギアの上げ方が見られるので、これは苦しい戦いになりそうだった。
「十分な責任能力を有する人間を大人と呼ぶなら、阿良々木先輩なんかは一生大人になれないんじゃないですか?」
「苦し過ぎる。いきなり当たりが強過ぎない? いやいや、僕以上に責任を取りたがる奴も中々いないぜ?」
「責任はむやみやたらに取れば良いってもんじゃありません。それよりも、最後までちゃんと果たせるかどうかを重視すべきですよ。大学の単位と同じようにね」
「痛いところ突いてくるね……」
 丁度、三度目の履修登録が迫ってくる時期を見越してなのか、扇ちゃんはまるで親のように笑った――僕の実の親は僕の修学については匙を投げて久しいので、実際にこんな顔で笑われたことはないのだけれど、しかしどこかでそういう印象を受けた。
「まあね……僕の成人までのカウントダウンも、もう秒読み段階だし。そういうことを考えるタイミングなんじゃないかって、僕を責めたくなるきみの気持ちも分からなくはない――けどさあ、もっと他にやり方ってものが」
「え。阿良々木先輩。成人年齢が十八歳まで引き下げられたこと、まさかご存じないんですか? 一体いつの時代を生きているのやら」
「きみこそ一体いつの時代に配慮した物言いなんだよ!」
「ですから、とっくのとうに大人になられていた阿良々木先輩だからこそ、ここで訊いているんですよ、私は。私って大人になれると思います?」
 僕よりも大人のような所作をしながら(きっと故意に演出しているのだろう)、扇ちゃんはまた同じことを訊いてきた。彼女の視線の先には、今にも開花しそうな桜の蕾が膨らんでいる。

「なる。きみは大人になるよ。どんな定義であれ、少なくとも僕よりも立派な大人になることが出来る」
「根拠は?」
「僕がそう思っているから」
「……それはそれは」
 ありがとうございます、と扇ちゃんはこちらに向き直り、ぺこりと頭を下げた。それは今日の中で一番、記憶通りの女子高生の後輩としての所作に近かった。
「まー、そして言外に匂わせていた通りというか、阿良々木先輩のお察し通り、私はあえて大人にならないことも可能なのですがね」
「やっぱそうなんだ……」
「ええ。全ては阿良々木先輩の望むままに――とまでは流石にいきませんけれど、私という存在に関してあなたはかなりの影響力を持っています。なんて、今更言うまでもないですかね」
 そして、扇ちゃんはくるりと踵を返し、また桜の木の方を見た。本日の彼女があまりにもエキセントリックを装うので説明しそびれていたのだが、元々、今日は桜を見ようと、僕らは待ち合わせをしていたのだった――どっちが言い出したことだったかは今となってはうろ覚えだが、それも扇ちゃんに言わせれば「そんなのどっちも大して変わらないじゃないですか」になりそうではある。
「あ。それはないです。花見の場所取りの為、三時間前から待っていた私と、散歩がてら適当にのこのこやってきた阿良々木先輩とを同列に語られるのは業腹です」
「そんなに前から待ってたの!?」
「ちょっと盛りました。本当は私も三分前くらいです」
「じゃあ全然待ってないじゃん」
 場所取りも何も、僕らしかいない寂れた場所だってのに。桜の木も寂しかろうて。
「全然だなんて。では、阿良々木先輩は三分間息を止めろと言われたら、出来ますか?」
「……出来るのかもしれないけど、苦しそうだからあんまりやりたくない」
「そうですね。この例え話は少々不適切でしたか。じゃあ、三分間私とキスしてって言われたら、どうですか?」
「長いよって思う。あ。決して嫌って訳じゃあないんだけどさ」
「最後のフォロー、要りませんよ」
 扇ちゃんは苦笑した。やや血色の強いリップが横に広がる。これも言いそびれたまま今日は終わりそうであったが、その色は彼女のショートヘアとよくマッチしていた。子供染みた感想ではあるし、扇ちゃんもそんなものは望んでないのかもしれないけれど、しかし彼女のことをよく知る僕から見て、まるで別の女性のようだと思わせられたのだから、それもひとつの成人の基準として見なせるんじゃないか、なんて。結局、如何なる方法で考えるにせよ、人は一人では大人になれないというか――大人と認める人がいて大人になれるのだ。どんなに美しく咲く桜でも、それを眺める人が一人もいなかったとしたら、それはとても寂しいと僕は思う。
 ……今回はこれで許してくれないかな?
「ねえ、阿良々木先輩。桜の木って、どこか私と似ていると思いません? ……あ。根元に死体がとか、梶井基次郎の有名な散文と、今回の話は全くなんにも関係ありません。というか、あれと私を引き合わせるの、流石にちょっと酷くないですか? 男性の精液なんて触ったこともない私なのに。引いちゃいますよ。泣いちゃいますよ。えーんえーん。……え? あ、そうそう。桜の話ですよ。はいはい。結実ではなく、接ぎ木や接ぎ木で個体を増やしていく――全てのソメイヨシノは一本の原木を始原とするクローンだってお話も、根元の死体と同様あまりにも有名で、そちらはあなたも吸血鬼の繁殖事情になぞらえてましたよね? だから私も、始原であるあなたの例え話を聞いた上で思考してみたのです。あ。聞いたとは言っても、直接壁に耳を立てていた訳ではありませんのでご安心を。突然私の頭にぽんと浮かんで来ただけですので――不肖ながら、阿良々木先輩の裏側を担っていた弊害――ならぬ後遺症ですかね。あなたが吸血鬼の残滓なら、私は網膜の裏に残る残像みたいなものです。それも見てくれる人がいるから成立するし、像を結ぶ――ま、それはそれとして。阿良々木先輩から分かれた枝が私だとしたら、まあ別の個体として成長して、大人になることもあるかもしれませんね、っと」

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