「ふっふっふっ……私には分かっておりましたとも。阿良々木先輩は、最後には私の元に戻ってくるとね」
 待ち合わせ場所で、そんな決め台詞? を決めた(色々な意味でキマっている)扇ちゃんは確かに僕の知る忍野扇だったのだけれど、なんだかいつもと様相が違っていた。違い過ぎていて、違いが分からない男として知られている僕こと阿良々木暦にも易しい、実に分かりやすい形態変化だったと言えよう。
「私の形状記憶に価値を見出しがちな阿良々木先輩の期待を裏切ってみました」
「きみはいつも嫌なところを裏切るね」
 具体的に述べれば、まず、きみはそんなかぶいた笑い方をするような子じゃなかっただろう。叔父さん由来の謎めかした笑いで場を混ぜっ返すような子だったろうに――という僕の指摘すらも「そんなのどっちも大して変わらないじゃないですか」と一笑に付されそうである。が、ここはあえて丁寧にひとつずつ違いを挙げていこうじゃあないか。
 ひとつでも見逃すと、後が怖いし。
 何が起こるか分からなくて、怖い。
 まず――扇ちゃんは、容姿が違った。顔の造りこそ僕の記憶の中の扇ちゃんそのままで、その必要な時に必要な分だけ動かす表情筋の癖も全くいつも通りではあったのだが、
「おや。真っ先に私の顔について述べるとは、阿良々木先輩も存外面食いですねえ。いやはや、私の顔が良くて良かったです。顔を良く産んでくださったお父さんに対し、感謝の念を抱かない日はありませんよ」
「僕もきみのような皮肉屋さんを産んだ親の顔は、一度じっくりと見ておきたいよ」
「手鏡お貸ししましょうか?」
「要らない」
 自分の顔をじっくり眺めるのはまたの機会にするとして、そう――表情こそ忍野扇のそれだったが、その顔を彩るヘアスタイルが変わっていた。これには僕も素直に驚いた。僕が本当に忍野扇に形状記憶を求めているのかどうかについては、しっかりと否定しておくべきだとは思うが、それを抜きにしても彼女が髪型を変えたのは意外ではあった。思わぬ死角から急所を打ち抜かれたような、ちょっと高低差の激しい驚きの気持ちがある。
「おやおや? それって、恋に落ちたって意味の比喩表現ですか? 私の新たなる可能性を垣間見て、心臓を射貫かれた的な」
「さも当たり前のように、心臓に『ハート』ってルビを振る後輩に胸を開くのは、中々度胸がいるけどな。まあ、ちょっとドキドキはしたよ」
 なんたって、扇ちゃんは僕の記憶のボブカットの後ろをばっさりと切り落としていて、なんというか、とてもスタイリッシュな雰囲気を纏わせていたのだ。細い首のシルエットがはっきりと分かるカッターシャツを着込み、まるで髪型に合わせてあつらえたかのようなパンツスーツ(カジュアルな印象を受けたから、ひょっとしたらスーツではないのかもしれない)も、これまたボーイッシュさを加速させている。まあしかし、表情の作り方こそ記憶通りの女の子なので、そのちぐはぐさで混乱する僕を楽しむ為のドレスコードなのかもしれなかった。僕が直江津高校に在学中の頃から、彼女は大人びた面と背伸びがちな面のリバーシブルを演出している節はあったけれど、でもここまで年嵩の印象を与えてくることはついぞなく、僕は不躾ながら結構な時間と視線を彼女に与えてしまった気がする。
「成程成程。確かに阿良々木先輩、女性の年齢を服装と腰付きで判断するような、あんまり褒められないやり方をする人でしたもんね」
「いや、あくまで判断材料ってだけで。あと腰付きには言及していない。周りが勝手に言ってるだけだから」
「でも、阿良々木先輩。大人びたとか大人っぽいとか年嵩とか、割と言いたいこと言っちゃってますけど、そもそも大人ってなんだと思います? 阿良々木先輩は――じゃないか。えっと――私って大人になれると思います?」
「へ?」

「大人っていつから大人なの? ――というのは、思春期のプロである阿良々木暦ならば幾度も挑み続けてきた問だとは思いますが、しかし容易に答えを見付けることが出来た人はいないでしょうね。何故なら、これの回答には普遍性がないからです。言ってしまえば、いつだって流動性を持つことが求められ続けている――そんな問題です」
 ずい、と扇ちゃんはそのショートカットの頭を僕に近付けてきた。鈍い僕はその時やっと気付いたのだが、いつも通りだと思っていた扇ちゃんの顔は、間近で見たら全然そんなことはなかった。極めて自然で、だからこそ馴染み過ぎていて気付かなかったのだけれど、彼女の唇には綺麗に紅が引かれていた。思春期のプロとして、反射的にどぎまぎしてしまう。
「簡単に化粧をしたからと言って、大人になったとは勿論言えませんよね。ただね、お化粧をしたいという気持ちが芽生えたというのは、自分という生き物を客観視出来ている証左とも言えるでしょうし――自意識の拡張。そういう意味では、この回答だって、全部が全部間違っているとは言えないのではないでしょうか」
 扇ちゃんは滔々と持論を続ける。して、その真意がどこにあるのかを測るのが、今の僕に期待されているのだとは思うのだが、彼女の語り口は既に結構なギアの上げ方が見られるので、これは苦しい戦いになりそうだった。
「十分な責任能力を有する人間を大人と呼ぶなら、阿良々木先輩なんかは一生大人になれないんじゃないですか?」
「苦し過ぎる。いきなり当たりが強過ぎない? いやいや、僕以上に責任を取りたがる奴も中々いないぜ?」
「責任はむやみやたらに取れば良いってもんじゃありません。それよりも、最後までちゃんと果たせるかどうかを重視すべきですよ。大学の単位と同じようにね」
「痛いところ突いてくるね……」
 丁度、三度目の履修登録が迫ってくる時期を見越してなのか、扇ちゃんはまるで親のように笑った――僕の実の親は僕の修学については匙を投げて久しいので、実際にこんな顔で笑われたことはないのだけれど、しかしどこかでそういう印象を受けた。
「まあね……僕の成人までのカウントダウンも、もう秒読み段階だし。そういうことを考えるタイミングなんじゃないかって、僕を責めたくなるきみの気持ちも分からなくはない――けどさあ、もっと他にやり方ってものが」
「え。阿良々木先輩。成人年齢が十八歳まで引き下げられたこと、まさかご存じないんですか? 一体いつの時代を生きているのやら」
「きみこそ一体いつの時代に配慮した物言いなんだよ!」
「ですから、とっくのとうに大人になられていた阿良々木先輩だからこそ、ここで訊いているんですよ、私は。私って大人になれると思います?」
 僕よりも大人のような所作をしながら(きっと故意に演出しているのだろう)、扇ちゃんはまた同じことを訊いてきた。彼女の視線の先には、今にも開花しそうな桜の蕾が膨らんでいる。

「なる。きみは大人になるよ。どんな定義であれ、少なくとも僕よりも立派な大人になることが出来る」
「根拠は?」
「僕がそう思っているから」
「……それはそれは」
 ありがとうございます、と扇ちゃんはこちらに向き直り、ぺこりと頭を下げた。それは今日の中で一番、記憶通りの女子高生の後輩としての所作に近かった。
「まー、そして言外に匂わせていた通りというか、阿良々木先輩のお察し通り、私はあえて大人にならないことも可能なのですがね」
「やっぱそうなんだ……」
「ええ。全ては阿良々木先輩の望むままに――とまでは流石にいきませんけれど、私という存在に関してあなたはかなりの影響力を持っています。なんて、今更言うまでもないですかね」
 そして、扇ちゃんはくるりと踵を返し、また桜の木の方を見た。本日の彼女があまりにもエキセントリックを装うので説明しそびれていたのだが、元々、今日は桜を見ようと、僕らは待ち合わせをしていたのだった――どっちが言い出したことだったかは今となってはうろ覚えだが、それも扇ちゃんに言わせれば「そんなのどっちも大して変わらないじゃないですか」になりそうではある。
「あ。それはないです。花見の場所取りの為、三時間前から待っていた私と、散歩がてら適当にのこのこやってきた阿良々木先輩とを同列に語られるのは業腹です」
「そんなに前から待ってたの!?」
「ちょっと盛りました。本当は私も三分前くらいです」
「じゃあ全然待ってないじゃん」
 場所取りも何も、僕らしかいない寂れた場所だってのに。桜の木も寂しかろうて。
「全然だなんて。では、阿良々木先輩は三分間息を止めろと言われたら、出来ますか?」
「……出来るのかもしれないけど、苦しそうだからあんまりやりたくない」
「そうですね。この例え話は少々不適切でしたか。じゃあ、三分間私とキスしてって言われたら、どうですか?」
「長いよって思う。あ。決して嫌って訳じゃあないんだけどさ」
「最後のフォロー、要りませんよ」
 扇ちゃんは苦笑した。やや血色の強いリップが横に広がる。これも言いそびれたまま今日は終わりそうであったが、その色は彼女のショートヘアとよくマッチしていた。子供染みた感想ではあるし、扇ちゃんもそんなものは望んでないのかもしれないけれど、しかし彼女のことをよく知る僕から見て、まるで別の女性のようだと思わせられたのだから、それもひとつの成人の基準として見なせるんじゃないか、なんて。結局、如何なる方法で考えるにせよ、人は一人では大人になれないというか――大人と認める人がいて大人になれるのだ。どんなに美しく咲く桜でも、それを眺める人が一人もいなかったとしたら、それはとても寂しいと僕は思う。
 ……今回はこれで許してくれないかな?
「ねえ、阿良々木先輩。桜の木って、どこか私と似ていると思いません? ……あ。根元に死体がとか、梶井基次郎の有名な散文と、今回の話は全くなんにも関係ありません。というか、あれと私を引き合わせるの、流石にちょっと酷くないですか? 男性の精液なんて触ったこともない私なのに。引いちゃいますよ。泣いちゃいますよ。えーんえーん。……え? あ、そうそう。桜の話ですよ。はいはい。結実ではなく、接ぎ木や接ぎ木で個体を増やしていく――全てのソメイヨシノは一本の原木を始原とするクローンだってお話も、根元の死体と同様あまりにも有名で、そちらはあなたも吸血鬼の繁殖事情になぞらえてましたよね? だから私も、始原であるあなたの例え話を聞いた上で思考してみたのです。あ。聞いたとは言っても、直接壁に耳を立てていた訳ではありませんのでご安心を。突然私の頭にぽんと浮かんで来ただけですので――不肖ながら、阿良々木先輩の裏側を担っていた弊害――ならぬ後遺症ですかね。あなたが吸血鬼の残滓なら、私は網膜の裏に残る残像みたいなものです。それも見てくれる人がいるから成立するし、像を結ぶ――ま、それはそれとして。阿良々木先輩から分かれた枝が私だとしたら、まあ別の個体として成長して、大人になることもあるかもしれませんね、っと」

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贅とどん底

 およそ三ヶ月振りに拝んだ沼地の面は、記憶の中のいけ好かない表情と大して変わりはなかった。
「どうせ、暇しているんじゃないかと思って」
 なんて具合に、顔を近付けてこちらを覗き込みながらやけに嫌味ったらしく笑った顔(ひょっとしたらただの主観だったかもしれないけれど)すらもいつも通りで、しかし、現在の私が置かれた状況にそぐわない訳ではないのが、より癇に障る。
 時は三月の半ば。春休み。春分の日である。学生の身分では、数ある国民の祝日のひとつでしかないかもしれないが、ここでは状況説明の為に、より今日という日付に迫ってみるとしよう。要するにお彼岸である。牡丹の花が咲く季節。一般的にはお墓参りをするのが望ましいとされており、私のおじいちゃんとおばあちゃんもその例に漏れず、数日前から本家に逗留している――その為、私はこの広い日本家屋に一人でいた。私もこの家に引き取られてもうすぐ十年程になるが、ただの一度も神原の本家に行くことは望まれたことがない為、この時期になると気忙しい祖父母とは違って気楽な身分である。今日、うち、親いないんだ。という素敵な挨拶を耳元で囁ける機会(良い機会だけど、またとない機会ではない。実は年に何度かそんなタイミングがある)だと言うのに、そんな殺し文句を使えた試しは一度もなく……なので、沼地の言い草を認めるのはつまらないけれど、身体が空いているのは事実だった。
 街を離れていた沼地が帰ってきたのはそんな折りだった。無論、長年温めておいたとっておきの殺し文句を、ここで使う気にはなれない。またぞろ彼女は『悪魔様』として荒稼ぎしてきたのだろうし。どこか顔がほころんでいる。趣味の悪い愉悦が見え隠れしている。
「それこそきみの主観じゃないの? だからさあ、『悪魔様』は稼げないんだよ。無料相談所なんだって。毎回律儀に訂正しなくちゃならない私の身にもなってくれよ……まあ、それはどうでも良いか。ねえ、神原選手。家にひとりっきりで、どうせ暇しているんだろう? 私が帰って来るまで、大学生の春休みという人生の中でも最も時間を持て余しそうな余暇の中で、何をするでもなくダラダラと過ごしていたんだろう?」
「いや、忙しい。楽しみにしていたボーイズ・ラブ小説の新刊が」
「それを消費している時間を、ダラダラしているって言うんだろ」
「楽しみにしていた新刊なんだぞ。ファンと作家さんに謝れ」
「はいはい。悪かったよ……で、まあ前振りはこんなもんで良いだろう? きみが乗り気じゃないのは、はなから予想が付いていたからね。それは私にとって大した問題じゃあないんだ」
 言って沼地は、文庫本に指を挟んでいた(楽しみにしていた新刊がちっとも進まない)私の手首をおもむろに掴んだ。
「なんだよ。金なら貸さないぞ」
「人聞きの悪い。私が今までに一度だって、きみに金の無心をしたことがあったかい?」
「ないけど……」
 まさか、言ってみたかっただけ、とは言いにくい。
 あと、嫌味たらしくも基本はゆったりとした振る舞いをする沼地が、こんな風に強引にことを進めてくるシチュエーションにあまり良い思い出がない為、話を逸らしたかったというバックグラウンドはあったかな。
 まあ、どちらの理由も開示出来る訳でもなく――ただ腕を掴まれていると、
「じゃあ、ちょっと付き合ってよ。面白い場所を見付けたんだ」
 そうやって、私は沼地に連れられて、ひとりきりの日本家屋から外へ出ることになった。

 そんなこんなで、神原駿河は馴染みのないバスルームで、沼地蠟花の頭髪を洗っている訳だが――
「随分と大胆に事情を割愛するなあ。それはちょっと良くないぜ。好ましくない。私が何よりも過程を大事にする女だってことを、神原選手だって知らない訳じゃないだろう?」
「知っているからこそ、伏せたい。あまり振り返りたくない」
 私はなるべく素っ気ない調子を作って返事をした。白い泡に包まれた茶髪に指を通しながら。沼地の髪は毛染めの影響か、少し癖が目立つものの、元が軟らかい髪質なのか、あっという間にシャンプーが馴染んだ。この、どこのメーカーとも分からない、如何にも女性受けしそうな甘やかな香りのシャンプーが。
「こういうところのは、案外馴染みのあるブランドだったりするけどね」
「ふうん」
 さっきよりも簡素な返事になったのはわざとではなく、あんまり興味がないというか、実感のわかない話だったからだ。出掛ける前の自分ではないけれど、私はあまり自分の家以外で寝起きをしないというか、外の宿泊施設を使うことが少ないので――否、友人の家に泊まりに行ったり、バスケットボール部の合宿に行ったりはあったから、この申告だと嘘になるかな?
 より率直に言えば、私はホテルに泊まるという経験をあまりしたことがない。だから、浴室の広さがどうとか、置いているアメニティの種類がどうとか、猫足バスタブなんてBL小説の挿絵の中でしか見たことがなかったけれど実際に置いているんだ……とか、そういうあれこれを測れる気がしないのだ。
 沼地は測れるのかな? ……測れるんだろうなあ。何せ、日本全国を渡り歩いている『悪魔様』なんだから。ホテルなんて飽きる程泊まっているだろう。さっきのチェックインの手際の良さだって見事だったし。
 浴室の床を滑らせるような重めのため息を吐くと、ふと、前方の鏡越しに自分達と目が合った。とても綺麗に磨かれた鏡が、全裸の女二人を映し出している。急に、妙な背徳感があった。
「……おい。ちょっと下を向け」
「ん」
 次に出た私の声は少々上擦っていたようだったが、沼地は別になんの感慨も無さそうに、目を瞑ったまま首を曲げた。髪を掻き上げると相手のうなじが出てくる。そこにもちゃんと泡が馴染むように指を動かす。他にも、耳の後ろとか、もみあげとかも洗いながら、人の頭って結構小さいんだな……なんて思った。こればっかりは、ホテルに詳しい沼地だって持たない知見の筈だ。
「これが終わったら、きみの髪も洗ってあげようか」
「いいよ。自分でやる」
「どうして。絶対気持ち良いよ」
「お前は気持ち良いのか」
「うん」
 なんとなく意外だった。これはただの偏見だけど、沼地も美容院で人に頭を預けるような行為が、苦手なタイプかと思っていたから。今日のこれも、ちょっとした私への当て付けで始めた遊びみたいなものだと捉えないとやっていられなかったので、まあ素直な返事がやって来ると身構えてしまう。
「ん? 『私は』ってことは、何? 神原選手ってもしかして――」
 妙に感の良い沼地の指摘を遮るようにして、私は泡だらけの頭にシャワーを当てた。

「私は頭皮が性感帯なんだ」
 というかなり苦しい言い訳で難を逃れ、代償として沼地からの冷ややかな視線を浴びながら、私は浴槽に浸かっていた。沼地も向かいで窮屈そうに膝を抱えている。人間が二人同時に入った所為で水位を高くしたバスタブの湯が、私達を緩やかに温めていた。風呂の縁に首を預けると、視界の端に可愛らしい猫の足が覗いていた。
「面白い場所って、ここのことか?」
 私は訊く。その質問は今更だったし、それでもやや緊張があった。本当に訊きたかったのは「ここにはよく来るのか?」だったのかもしれないが、ここぞとばかりに私のチキンハートが邪魔をしてきた。
「うん。一度入ってみたかったんだよね」
 沼地は別になんとも無さそうに答えた。反面、私が含ませていた疑問を感じ取り、自ら解消してくれたような気配もあった。嬉しくない気遣いだ。
 私は水面を叩いて、それから自分の頬を触った。
「ただの興味でこんな場所に連れ込むのは不自然だ。お前、今回の旅程で何か思い出したのか?」
「さあね。神原選手はどう思う? ここに来たのは何かを思ってのことかもしれないし、はたまた、退屈そうなきみを気遣って外へ連れ出してやったという、そんな私の優しさの結果って線もあるとは思わないのかな?」
「思わない」
「じゃあ、身体が目当てだったとか、そういうことを思うのかな」
「そっちの方がまあ納得する」
 深いため息が湯の表面を揺らした。そのまま浸かっているとのぼせてきそうな気配があったので、私は膝をバスタブの外へと追い出した。自分の腹筋の谷が、水中の屈折率でやけに幼い見た目に見える。そのままぼんやりしていると、急に沼地が浴槽内の空いた場所――私の尻の下に自分の足を差し込んで来たから、素っ頓狂な声を上げてしまった。いきなり足の甲に臀部を撫でられたら、誰だって驚く。
「やめろ。狭い」
「仮に、ただ私が幸せに浸りたくてここを選んだ、とか言ってたら、きみはどうするんだよ」
「ドン引きする」
「嘘だね。きみはあんまりそういうことが得意じゃないだろう」
 と、沼地は言ったし、実際その通りかもしれないと思った。じゃあ本当ならどうするかな……と、彼女から視線を外して天を仰ぐ。ラブホテルの浴室の天井は、その豪奢な内装の中では割とシンプルなそれだった。満月のような黄色のLEDが、湯気の向こうで揺れている気がした。半身を出した私とは対照的に、沼地は湯船に身体を沈み込ませるように姿勢を動かして、ややぬるくなってきたお湯が贅沢に逃げていく。反作用で私の身体もふわりと浮かぶ。
「あー……風呂って良いな」
「あんな立派な風呂に毎日入っているきみにそう言って貰えると、私も報われるよ」
「お前は逐一嫌味を挟まないと喜べないのか」
 相手の方に向き直りながら眉を顰めると、沼地は丁度壁のリモコンで黄色の照明を薄暗い紫色に切り替えたところだった。バスルームが夜になる。依然としてちょこちょこと尻を突き続ける彼女に辟易し、「じゃあ上がってからな」と私は降参の気持ちを覚えながら、耳の後ろに濡れた髪を流した。

2

至情には未だ遠い

08

 その日は朝から頭が痛かった。
 重い瞼を擦りながらカーテンを開けてみたが、窓の外が霧がかってどんよりした空模様だったって訳でも、俺の昨晩の良いとは言えない素行により質の悪い風邪を貰って来たような覚えも、ない。しかし、頭が痛む。正直ずっと毛布に包まっていたかったが、既にシャワーの音が小さく聞こえてくることに気が付かない俺ではなかったので、欠伸を噛み殺しながら寝床から抜け出した。顔を洗って、適当に自分の男ぶりを確認し、そのままだと額に垂れてくる前髪をゴムで括る。それにしても頭が重い。なんででしょうね――っと、朝食の準備の為にキッチンに立ちながら、スマートフォンで適当なニュースのチャンネルを流していたら、得心がいった。
「本日四月三十日は、彼のグロンダーズの会戦より■■年が経過し――」
 と、画面の中のアナウンサーが固い声で報道していたことだけは耳に入って来たのだが、丁度フライパンの上に鶏卵を落としたタイミングだったので、肝心なところを聞き逃した。ま、あの地獄が百年前だとしても千年前だとしても、今となっては誤差の範囲内だ、と俺は綺麗に焼けた目玉をプレートに移す。先生が風呂場から登場したのは丁度そのタイミングで、間の良い人ですねえ、と冷やかしてみる。赤子のような恰好で登場した先生は、どう贔屓目に見ても先生と呼んで良いような出で立ちではなかったが、現に先生だったのも百年前だか千年前だかの話だし、まあ良いか、なんて思う。俺しか知らない先生だ。先生は偶に常識が抜けている素振りを見せる。しかし、先生が赤子のように振る舞えるようになったのは、戦争が単なる過去の事象として報道出来るようになってからなのかな、なんて思うと、まあ俺の自尊心だか征服心だかに近い部分が、たぷりたぷりと満たされるような感覚があった。
「……竜が食べたかった」
 俺の肩越しに皿を覗き、先生が小さく呟いた。鶏卵の目玉焼きはお気に召さなかったらしい。ただ、俺はここ五年余り朝食のメニューを変えていないので、ひょっとするとこれは先生なりの冗談なのかもしれない。
「先生、まだ寝惚けてるんですか? 竜の卵が食えたのはもう何年も前でしょうに」
「そうだっけ」
「ええ。そりゃあ俺だって、あんたの希望はなるだけ叶えてやりたいんですけど、今の時代、勝手に食ったら捕まりますよ」
「それは困る」
 言って、先生は分かっているのかいないのか判然としない目のまま、俺の手から調味料の瓶を抜き取り、目玉に塩胡椒を振った。困るってのは、何が困るのだろう。愛護法で指定されている動物の味を忘れられないことだろうか。密漁を取り沙汰されて法の裁きを受けることがだろうか。それとも、俺がいなくなることが、だろうか。それこそ朝食のメニューを固定するずっと前から、俺は先生が困った様を見た覚えがなかった。それこそ、百年千年前ならいざ知らず。一度は世界を治めちまった先生が、法に阻まれ好きなものを好きに食べられないというのも、なんだか滑稽な気がする。生も死も凌雅してしまった先生の血も、なんだかんだ時間の流れ、時代の移り変わりには敵わないということなのかね――俺も、もう竜の乗り方を忘れちまったなあ、とまだ鈍く痛む頭で考える。

 

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わすれがたみたち

「親父が死ぬ前に、ちゃんと腹を割って話をしておくべきだったよ」
 相田先生が酒を飲む時、三度に一度はそんなことを言う。この村において酒は貴重品だし、相田先生が未成年を酒の席に招いてくれること自体が稀なことだから、僕にとっては三度に一度のことだとしても、それはごく偶に漏らされる先生の本音なんじゃないか。なんて、僕は睨んでいる。
 ま、そんなのはただのガキの想像でしかなくて、本当は生まれた時から両親が居ない僕に対し、先生がデリカシーに欠いた愚痴を仄めかすことで大人ぶっているだけなんじゃないか――なんて、邪推こそいよいよガキっぽいが、相田先生が迂闊に子供の不審を買うような人ではないことも知っているので、僕は純粋に、父親の顔を知っていることを羨ましく思っているのだと思う。今時、親の顔を知らない子供なんて珍しくもない。だけど、僕の世代よりその下、この村で生まれる赤ん坊はそんなこともない。ぽっかり空いた穴のような世代が僕達だった。まるで、この赤い大地を無理矢理切り出して作った村のように。
「じゃあ、相田先生は親父さんと何を話したかったんですか?」
「ん、……いいや。別段何か話したかったことがある訳じゃない。ただ、どんな酒が好きだったのかとか、俺の趣味の話とか、上手い釣りのやり方とか、そういう特別じゃないことを話しておくべきだったってだけさ」
 親父がどんな人間なのか知る機会があったのに、それをなかったことにしてしまったのが残念なんだ。と、先生は猪口を舐めながら、寂しそうに目を細めた。それを見て、自分は先生と同じように目を細めることは出来ないだろうな。と、知らない味が詰まった一升瓶を眺めながら、僕はぼんやりと考える。

「そう言えば、シンジの両親って生きてるの?」
 と、何気なく訊いてから、しまったって思った。あからさまに彼の表情が固くなったのが分かったからだ。
「いや、ほら。僕らの世代ってそういうの珍しくないから、気になってさ。嫌な気分にさせてたら、ごめん」
「……いや、違うんだ。僕の方こそごめん。……多分、リョウジくんが考えてるような感じじゃないんだ。僕の父さん、生きてるから。殆ど話したことないけど」
「あ、そうなんだ。他の村にいるの?」
「うん、そんなとこ。母さんは小さい頃になくなったから、あまり覚えていない」
「ニアサー?」
「じゃあないけれど……」
「そっか。なんか色々複雑そうだね」
「そんなことないよ。……いや、そうなのかな? なんだか僕にももうよく分からなくて」
「はは、なんだそれ」
 なんとかくしゃりと笑って見せると、シンジくんも笑顔になってくれた。良かった、切り替えてくれたみたいだ。
「僕も両親いないんだ」
「うん。ケンスケ――相田先生から聞いたよ」
「そうなの? ちぇっ、先生も狡いなあ。僕にはシンジのことちっとも教えてくれなかったのに」
 半分は本音、半分はパフォーマンスで口を尖らせてみせると、シンジはまた少しだけ苦しそうに笑った。
 シンジは僕と同じくらいの歳のくせに、まるで僕よりもずっと大人みたいな態度を見せる時があった。この村のことしか知らない僕とは違って、他の場所から来た所為なのだろうか。僕が生まれるより前は、この村の人数よりもずっと多くの人がいたのだと聞く。もしかすると、シンジくんはここよりももっと広くて、色んな人がいる場所から来たのかもしれない。それこそ訊いてみる気にはなれないが。
 まだ知り合って間もないけれど、でも、彼がそういう顔を見せると、何故か僕の心の奥にはぐっと寂しさが押し寄せる。だから僕は、シンジのことをもっと知りたいと思っているのだろうし、だから、さっきの質問はそういうことなんじゃないかって後付けしている自分がいた。
 左手首に付けていたアラームが鳴った。ぴりぴりぴり、と高い音を響かせて、休憩終了時間を伝えてくる。
「おっと、そろそろ時間か。行かなくちゃな」
「クレイディトの仕事?」
「うん。今日は大した作業じゃないけど、一応ラボに行っておくかな」
 抱えていた膝を解き、尻に付いた土を軽く払いながら立ち上がった。隣に座っていたシンジもそれに倣った。かと思えば、彼は自分の指に付いた土を神妙な面持ちで眺め始める。不思議だったので、何? と訊けば、なんでもないよ、と言われた。まあなんでも教えて貰えるとは端から思っていなかったけどさ。
 僕はシンジのことを何も知らない。だけど、想像することは出来る。ここはあの赤い世界から無理矢理切り出した場所だけれど、なんの匂いもしない野外ラボよりは大分マシだ、と僕も思う。
 もしかすると、僕は全く見当違いのことを考えていて、シンジはもっとずっと遠くで何かを想っているのかもしれなかったけれど、僕は僕のやり方でしか彼を捉えることが出来ないでいる。そしてそれは、僕が僕の両親のことを考える時の気持ちに似ていた。
「ねえ、リョウジくん。僕もひとつ訊いても良いかな」
「ん?」
 しばらく思い詰めたような顔をしていたと思ったら、今度は急に凜々しい顔になってシンジはこっちを向いた。……あ。こいつモテそうだな、となんだか変な直感が脳裏を通り過ぎていったが、口に出すのは止めておいた。
「リョウジくんは、どうしてクレイディトに入ったの?」
「どうしてって……考えたこともなかったなあ」
 するとやにわに想定外の質問が飛んできて、はたと一人取り残されたような気持ちになった。うーん、と腕を組みながら考えてみたけれど、すぐには出て来ない。うーんうーん、と天を仰ぎながらもっと考えてみたけれど、やっぱり出て来ない。見上げた青い空の端っこの方に、L結界浄化無効阻止装置が小さく見えた。
「……さあ、分からないや。次に会う時までに思い出しておくよ」
「そっか」
 僕のつまらない回答を、シンジは気を悪くしたような様子もなく受け入れた。それからまた寂しそうな、それでいて優しそうな色で目を細めて、じゃあ行こうか、と僕に言う。そこで遅れて、僕は嘘を吐いていたことに気が付いた。本当は、クレイディトに入った理由は、いくらでもある。仕事だから。働かなくては生きていけないから。相田先生の紹介だから。顔も知らない両親のことを知りたかったから。他にももっと、もっと、沢山ある。だけどそのどれも選ぶことが出来なかった。
 多分、僕は、早く大人になりたかったんだ。

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「突然で恐縮ですが駿河先輩、ちょっとピアスでも開けてみませんか?」
 突然も突然、突然が過ぎる。と、私の耳たぶにピアッサーを拳銃の如く突きつけてくる扇くんに、珍しく激しい抵抗を見せている私だった。
「いや、ちょっと待て。話が見えないぞ扇くん。とりあえず話してみろ。正直、積極的にきみに対する理解を深めたいとは思わないけれど、多分、話せば分かるから。とにかく、その、ピアッサーを下ろして」
 先輩を驚かせる為にわざわざ購入してきたのであろう、その穴を開ける為の工具を握る手を制止し、なんとか顔から引き離そうとしているのだが……結構力強いな、この子。ぐぐ、と力を込めて握り合った手と手は完全に拮抗していた。
「はっはー。話せば分かるって、控えめな命乞いのようでいて実は不遜な台詞ですよねえ。最終的に自分の意見を押し付けたいだけの言い訳じゃないですか。第一、僕達の間に対話は必要ありませんよ」
「必要ありまくりだよ。コミュニケーションを諦めようとするな。私は自分の意見を押し付けてでも自分の貞操を守りたい。そのくらいの権利はある筈だ」
「貞操は貞操でも耳たぶの貞操ですがね。まあ、思いの外普通の貞操観念をお持ちの駿河先輩に免じて正直にゲロっちゃいますと、僕も長くお付き合いしている先輩相手に、心を込めたプレゼントのひとつくらい用意しないと、いい加減愛想を尽かされてしまうかなー、と思いまして」
「尽かすとしたら今だよ、今!」
 私の耳元で試し打ちとばかりに針をガシャガシャやられている今!
 というか、開けるにしてもそんなにいきなり穴を開けるものなのか。冷やしたりとか消毒したりだとかするんじゃないのか? 開けようと思ったことがないから知らないけど、少なくとも心の準備くらいはさせて欲しい。
「冷やすとかえって開け辛いらしいので大変だと思いますよ」
「そんな正論っぽいこと返されても困るよ」
「えー? というか、駿河先輩なら痛いのがお好きだと思ってたのに。あなたの変態性って所詮その程度なんですね」
「そっ……!? いや、いきなり他人の耳に穴を開けようとする方が嗜好としては特殊だからな?」
「あはは。駿河先輩も中々言うようになりましたねえ――あっ」
 と、扇くんが上に覆い被さったまま、一貫してにこりともしない瞳で笑顔を作ったところで、私の巴投げが決まった。この技は安易に使いたくなかったのだが……しかし、彼は私の忠実な後輩を名乗っておきながら全く忠実な素振りを見せないので、私が有する奥義のひとつを見せるのもやむを得まい。
「あいたたた……酷いじゃないですか」
 数秒の間を挟んだ後、扇くんは部屋の隅から起き上がってきた。痛みを訴えてはいたけれど、作った笑顔は崩れていなかったので、同情の余地はないと判断する。
「そもそもどうしてピアス穴が開いていない人間にピアスを贈ろうと思ったんだ」
「ええーっと、……イヤリングだと思って購入したら、ピアスだったんですよね。返品するのも面倒だったし、だったら駿河先輩の耳にピアスホールを開けた方が手っ取り早いかと思って」
「本当の本当に私がきみに愛想を尽かすとしたら、多分今のタイミングだったな」
「ほらほら、どうせ話しても分からないでしょう?」

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