贅とどん底

 およそ三ヶ月振りに拝んだ沼地の面は、記憶の中のいけ好かない表情と大して変わりはなかった。
「どうせ、暇しているんじゃないかと思って」
 なんて具合に、顔を近付けてこちらを覗き込みながらやけに嫌味ったらしく笑った顔(ひょっとしたらただの主観だったかもしれないけれど)すらもいつも通りで、しかし、現在の私が置かれた状況にそぐわない訳ではないのが、より癇に障る。
 時は三月の半ば。春休み。春分の日である。学生の身分では、数ある国民の祝日のひとつでしかないかもしれないが、ここでは状況説明の為に、より今日という日付に迫ってみるとしよう。要するにお彼岸である。牡丹の花が咲く季節。一般的にはお墓参りをするのが望ましいとされており、私のおじいちゃんとおばあちゃんもその例に漏れず、数日前から本家に逗留している――その為、私はこの広い日本家屋に一人でいた。私もこの家に引き取られてもうすぐ十年程になるが、ただの一度も神原の本家に行くことは望まれたことがない為、この時期になると気忙しい祖父母とは違って気楽な身分である。今日、うち、親いないんだ。という素敵な挨拶を耳元で囁ける機会(良い機会だけど、またとない機会ではない。実は年に何度かそんなタイミングがある)だと言うのに、そんな殺し文句を使えた試しは一度もなく……なので、沼地の言い草を認めるのはつまらないけれど、身体が空いているのは事実だった。
 街を離れていた沼地が帰ってきたのはそんな折りだった。無論、長年温めておいたとっておきの殺し文句を、ここで使う気にはなれない。またぞろ彼女は『悪魔様』として荒稼ぎしてきたのだろうし。どこか顔がほころんでいる。趣味の悪い愉悦が見え隠れしている。
「それこそきみの主観じゃないの? だからさあ、『悪魔様』は稼げないんだよ。無料相談所なんだって。毎回律儀に訂正しなくちゃならない私の身にもなってくれよ……まあ、それはどうでも良いか。ねえ、神原選手。家にひとりっきりで、どうせ暇しているんだろう? 私が帰って来るまで、大学生の春休みという人生の中でも最も時間を持て余しそうな余暇の中で、何をするでもなくダラダラと過ごしていたんだろう?」
「いや、忙しい。楽しみにしていたボーイズ・ラブ小説の新刊が」
「それを消費している時間を、ダラダラしているって言うんだろ」
「楽しみにしていた新刊なんだぞ。ファンと作家さんに謝れ」
「はいはい。悪かったよ……で、まあ前振りはこんなもんで良いだろう? きみが乗り気じゃないのは、はなから予想が付いていたからね。それは私にとって大した問題じゃあないんだ」
 言って沼地は、文庫本に指を挟んでいた(楽しみにしていた新刊がちっとも進まない)私の手首をおもむろに掴んだ。
「なんだよ。金なら貸さないぞ」
「人聞きの悪い。私が今までに一度だって、きみに金の無心をしたことがあったかい?」
「ないけど……」
 まさか、言ってみたかっただけ、とは言いにくい。
 あと、嫌味たらしくも基本はゆったりとした振る舞いをする沼地が、こんな風に強引にことを進めてくるシチュエーションにあまり良い思い出がない為、話を逸らしたかったというバックグラウンドはあったかな。
 まあ、どちらの理由も開示出来る訳でもなく――ただ腕を掴まれていると、
「じゃあ、ちょっと付き合ってよ。面白い場所を見付けたんだ」
 そうやって、私は沼地に連れられて、ひとりきりの日本家屋から外へ出ることになった。

 そんなこんなで、神原駿河は馴染みのないバスルームで、沼地蠟花の頭髪を洗っている訳だが――
「随分と大胆に事情を割愛するなあ。それはちょっと良くないぜ。好ましくない。私が何よりも過程を大事にする女だってことを、神原選手だって知らない訳じゃないだろう?」
「知っているからこそ、伏せたい。あまり振り返りたくない」
 私はなるべく素っ気ない調子を作って返事をした。白い泡に包まれた茶髪に指を通しながら。沼地の髪は毛染めの影響か、少し癖が目立つものの、元が軟らかい髪質なのか、あっという間にシャンプーが馴染んだ。この、どこのメーカーとも分からない、如何にも女性受けしそうな甘やかな香りのシャンプーが。
「こういうところのは、案外馴染みのあるブランドだったりするけどね」
「ふうん」
 さっきよりも簡素な返事になったのはわざとではなく、あんまり興味がないというか、実感のわかない話だったからだ。出掛ける前の自分ではないけれど、私はあまり自分の家以外で寝起きをしないというか、外の宿泊施設を使うことが少ないので――否、友人の家に泊まりに行ったり、バスケットボール部の合宿に行ったりはあったから、この申告だと嘘になるかな?
 より率直に言えば、私はホテルに泊まるという経験をあまりしたことがない。だから、浴室の広さがどうとか、置いているアメニティの種類がどうとか、猫足バスタブなんてBL小説の挿絵の中でしか見たことがなかったけれど実際に置いているんだ……とか、そういうあれこれを測れる気がしないのだ。
 沼地は測れるのかな? ……測れるんだろうなあ。何せ、日本全国を渡り歩いている『悪魔様』なんだから。ホテルなんて飽きる程泊まっているだろう。さっきのチェックインの手際の良さだって見事だったし。
 浴室の床を滑らせるような重めのため息を吐くと、ふと、前方の鏡越しに自分達と目が合った。とても綺麗に磨かれた鏡が、全裸の女二人を映し出している。急に、妙な背徳感があった。
「……おい。ちょっと下を向け」
「ん」
 次に出た私の声は少々上擦っていたようだったが、沼地は別になんの感慨も無さそうに、目を瞑ったまま首を曲げた。髪を掻き上げると相手のうなじが出てくる。そこにもちゃんと泡が馴染むように指を動かす。他にも、耳の後ろとか、もみあげとかも洗いながら、人の頭って結構小さいんだな……なんて思った。こればっかりは、ホテルに詳しい沼地だって持たない知見の筈だ。
「これが終わったら、きみの髪も洗ってあげようか」
「いいよ。自分でやる」
「どうして。絶対気持ち良いよ」
「お前は気持ち良いのか」
「うん」
 なんとなく意外だった。これはただの偏見だけど、沼地も美容院で人に頭を預けるような行為が、苦手なタイプかと思っていたから。今日のこれも、ちょっとした私への当て付けで始めた遊びみたいなものだと捉えないとやっていられなかったので、まあ素直な返事がやって来ると身構えてしまう。
「ん? 『私は』ってことは、何? 神原選手ってもしかして――」
 妙に感の良い沼地の指摘を遮るようにして、私は泡だらけの頭にシャワーを当てた。

「私は頭皮が性感帯なんだ」
 というかなり苦しい言い訳で難を逃れ、代償として沼地からの冷ややかな視線を浴びながら、私は浴槽に浸かっていた。沼地も向かいで窮屈そうに膝を抱えている。人間が二人同時に入った所為で水位を高くしたバスタブの湯が、私達を緩やかに温めていた。風呂の縁に首を預けると、視界の端に可愛らしい猫の足が覗いていた。
「面白い場所って、ここのことか?」
 私は訊く。その質問は今更だったし、それでもやや緊張があった。本当に訊きたかったのは「ここにはよく来るのか?」だったのかもしれないが、ここぞとばかりに私のチキンハートが邪魔をしてきた。
「うん。一度入ってみたかったんだよね」
 沼地は別になんとも無さそうに答えた。反面、私が含ませていた疑問を感じ取り、自ら解消してくれたような気配もあった。嬉しくない気遣いだ。
 私は水面を叩いて、それから自分の頬を触った。
「ただの興味でこんな場所に連れ込むのは不自然だ。お前、今回の旅程で何か思い出したのか?」
「さあね。神原選手はどう思う? ここに来たのは何かを思ってのことかもしれないし、はたまた、退屈そうなきみを気遣って外へ連れ出してやったという、そんな私の優しさの結果って線もあるとは思わないのかな?」
「思わない」
「じゃあ、身体が目当てだったとか、そういうことを思うのかな」
「そっちの方がまあ納得する」
 深いため息が湯の表面を揺らした。そのまま浸かっているとのぼせてきそうな気配があったので、私は膝をバスタブの外へと追い出した。自分の腹筋の谷が、水中の屈折率でやけに幼い見た目に見える。そのままぼんやりしていると、急に沼地が浴槽内の空いた場所――私の尻の下に自分の足を差し込んで来たから、素っ頓狂な声を上げてしまった。いきなり足の甲に臀部を撫でられたら、誰だって驚く。
「やめろ。狭い」
「仮に、ただ私が幸せに浸りたくてここを選んだ、とか言ってたら、きみはどうするんだよ」
「ドン引きする」
「嘘だね。きみはあんまりそういうことが得意じゃないだろう」
 と、沼地は言ったし、実際その通りかもしれないと思った。じゃあ本当ならどうするかな……と、彼女から視線を外して天を仰ぐ。ラブホテルの浴室の天井は、その豪奢な内装の中では割とシンプルなそれだった。満月のような黄色のLEDが、湯気の向こうで揺れている気がした。半身を出した私とは対照的に、沼地は湯船に身体を沈み込ませるように姿勢を動かして、ややぬるくなってきたお湯が贅沢に逃げていく。反作用で私の身体もふわりと浮かぶ。
「あー……風呂って良いな」
「あんな立派な風呂に毎日入っているきみにそう言って貰えると、私も報われるよ」
「お前は逐一嫌味を挟まないと喜べないのか」
 相手の方に向き直りながら眉を顰めると、沼地は丁度壁のリモコンで黄色の照明を薄暗い紫色に切り替えたところだった。バスルームが夜になる。依然としてちょこちょこと尻を突き続ける彼女に辟易し、「じゃあ上がってからな」と私は降参の気持ちを覚えながら、耳の後ろに濡れた髪を流した。

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