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「ふうん? 昔はあんた、あたしの後ろばかりついて回っていたのにねえ」
 鼻に付くようなドヤ顔で、臥煙は可笑しそうに笑った。すると、腕に抱かれた赤ん坊も、どことなく似たような顔で笑った気がした。生まれたての赤ん坊に感情のレパートリーなど期待するべくもないのに、だ。
 この女が子を産むなんて、事実を目の当たりにしても未だに信じられない。なんともつまらん女になったものだ――もっとも俺には、信じているものなんて何ひとつありはしないのだが。
 勿論、澱のように胸中に溜まった感想を、本人に伝えてやる筈もない。俺の口が次に繋いだ言葉は、
「人聞きの悪いことを言うな」
 という、愛想のない返事だけだった。
「臥煙、俺が言いたいのは、そういうことじゃあなくてだな――」
「おや、貝木があたしに言いたいことがあるとは珍しい。日頃喋りはしても、積極的に人にものを教えたがるタイプじゃないきみから、あたしはどんな助言を受けるのかな?」
「…………」
 封殺されられたのはわざとだろう。あからさまな教え子扱いを受けた俺は、黙ることで不服を申し立てることにした。臥煙はそんな俺を見かねたように。
「ほら、貝にいちゃんに抱っこして貰いな」
 と、子供を渡してこようとした。
「遠慮させて貰う。なんだ、その悪趣味な呼び方は」
「まあ、あんたがあたしをどう思っていたのかは、なんとなく分かっちゃいたけどね」
 かように、俺が心酔していた相手は、都合の悪いタイミングで都合の悪いことを見透かしてくるような女だったので、俺はまた利にならない嘘を吐く羽目になる。

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「扇ちゃん……」
 待ったが掛かったのは、相手の制服のボタンに手を掛けたタイミングだった。
「あー……すみません。ちょっと身体を作るので待ってください」
「身体を作る?」
「なんでもありません。目を閉じて三秒待ってください。きっと良いことがありますから」
 良いことか。扇ちゃんがそう言うなら良いことなのだろう。ならば素直に目を瞑る阿良々木先輩だぜ。
 もしかするとこれは体の良い言い訳で、目を瞑っているうちに扇ちゃんが逃げてしまうんじゃないかという予感はないでもなかったが、ここは相手を信じるしかない。これは特別に意識しないと分からないことだが、視界を瞼で塞ぐと、閉塞感と孤独感がぐっと強くなった。
「いーち。にー。さん」
 扇ちゃんの声が平坦に数を数えた。合わせて小さく衣擦れの音がしたから、なんとなしに期待が高まってしまう。
「はい、もう良いですよ」
 と、相手からの許しを待って、ゆっくりと瞼を持ち上げると、先と同じ姿勢で、制服の胸元を突き出すように立つ扇ちゃんが視界の中央に映った。……三秒前と特に変わった様子は見られないのだけれど。
「……何をしたの?」
「知らなくて良いことです。阿良々木先輩に幻滅されないよう、私はこれでも努力しているのですよ」

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 なんとなくのきまぐれで、僕は放課後、体育館に足を運んだ。その時間はバスケ部が練習をしていて、ともすれば神原駿河の練習風景が見られるかもしれない、と考えたのだ。男の後輩が汗を流している姿を見て何が楽しいのかと自分でも思うのだが――要するに、その時の僕は退屈していたのだ。小人閑居して不善をなす。そんな心境に近いかもしれない。
 なるべく人気のない通路を選びながら、二階席へと移る。人目をはばかるように、端の方の手すりにもたれ掛かると、タイミングよくコートの中を駆け回っている神原の姿が見えた。今日の練習メニューが基礎トレーニングだったら見ていてもつまらないので、すぐに踵を返すところだったが、幸か不幸か、僕の目に映ったのはあいつがダンクシュートを決めたシーンだった。
 そこまでタッパはない癖に(それでも僕より背が高いので癪だ)、あいつはああも簡単そうに跳んでみせるから、対戦相手にとっちゃ厄介なんだろうな――と、対象をしげしげと眺めていたら、ふと視線があった。すると、後輩の顔はぱあっと明るくなったが、こっちは笑顔を返す気にはなれなかった。なんだかなあ。
 つーか、この距離ですぐに僕だと分かるって、一体どんな視力してんだよ。
 と、ぼやいたのは勿論心の中でだけの筈なのだが、何が伝わってしまったのだろうか。コートの中から神原がウインクを飛ばしてきたので、僕はさっと右に避けた。もしも女子だったら、あるいはあいつのファンだったら黄色い声を上げてやったのかもしれないが、悲しいかな、僕はそのどちらでもなかったので、相手が飛ばした目配せは後ろの壁に当たって落ちたと思われる。

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