「突然で恐縮ですが駿河先輩、ちょっとピアスでも開けてみませんか?」
 突然も突然、突然が過ぎる。と、私の耳たぶにピアッサーを拳銃の如く突きつけてくる扇くんに、珍しく激しい抵抗を見せている私だった。
「いや、ちょっと待て。話が見えないぞ扇くん。とりあえず話してみろ。正直、積極的にきみに対する理解を深めたいとは思わないけれど、多分、話せば分かるから。とにかく、その、ピアッサーを下ろして」
 先輩を驚かせる為にわざわざ購入してきたのであろう、その穴を開ける為の工具を握る手を制止し、なんとか顔から引き離そうとしているのだが……結構力強いな、この子。ぐぐ、と力を込めて握り合った手と手は完全に拮抗していた。
「はっはー。話せば分かるって、控えめな命乞いのようでいて実は不遜な台詞ですよねえ。最終的に自分の意見を押し付けたいだけの言い訳じゃないですか。第一、僕達の間に対話は必要ありませんよ」
「必要ありまくりだよ。コミュニケーションを諦めようとするな。私は自分の意見を押し付けてでも自分の貞操を守りたい。そのくらいの権利はある筈だ」
「貞操は貞操でも耳たぶの貞操ですがね。まあ、思いの外普通の貞操観念をお持ちの駿河先輩に免じて正直にゲロっちゃいますと、僕も長くお付き合いしている先輩相手に、心を込めたプレゼントのひとつくらい用意しないと、いい加減愛想を尽かされてしまうかなー、と思いまして」
「尽かすとしたら今だよ、今!」
 私の耳元で試し打ちとばかりに針をガシャガシャやられている今!
 というか、開けるにしてもそんなにいきなり穴を開けるものなのか。冷やしたりとか消毒したりだとかするんじゃないのか? 開けようと思ったことがないから知らないけど、少なくとも心の準備くらいはさせて欲しい。
「冷やすとかえって開け辛いらしいので大変だと思いますよ」
「そんな正論っぽいこと返されても困るよ」
「えー? というか、駿河先輩なら痛いのがお好きだと思ってたのに。あなたの変態性って所詮その程度なんですね」
「そっ……!? いや、いきなり他人の耳に穴を開けようとする方が嗜好としては特殊だからな?」
「あはは。駿河先輩も中々言うようになりましたねえ――あっ」
 と、扇くんが上に覆い被さったまま、一貫してにこりともしない瞳で笑顔を作ったところで、私の巴投げが決まった。この技は安易に使いたくなかったのだが……しかし、彼は私の忠実な後輩を名乗っておきながら全く忠実な素振りを見せないので、私が有する奥義のひとつを見せるのもやむを得まい。
「あいたたた……酷いじゃないですか」
 数秒の間を挟んだ後、扇くんは部屋の隅から起き上がってきた。痛みを訴えてはいたけれど、作った笑顔は崩れていなかったので、同情の余地はないと判断する。
「そもそもどうしてピアス穴が開いていない人間にピアスを贈ろうと思ったんだ」
「ええーっと、……イヤリングだと思って購入したら、ピアスだったんですよね。返品するのも面倒だったし、だったら駿河先輩の耳にピアスホールを開けた方が手っ取り早いかと思って」
「本当の本当に私がきみに愛想を尽かすとしたら、多分今のタイミングだったな」
「ほらほら、どうせ話しても分からないでしょう?」

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「駿河先輩って、僕のこと好きでもなんでもない癖に、どうして僕とセックスするんですか?」
「……きみ、そういう面倒くさいことを言う子だっけ?」
「どちらかと言えば。というか、そんな遊び人みたいな返しはしないでください」
 傷付いちゃうじゃないですかー、と背中の方で扇くんがじっとりと笑った気配がしたが、大したダメージも追ってなさそうだった。こういう口ばっかりのところはそれこそ、面倒くさいの筆頭なのだが。
「あーあ。憧れの先輩が性にだらしないだなんて、見損なっちゃうなー」
 シーツの上に寝そべっていた私を、半ば潰すようにのし掛かっていた扇くんは、詰るようにそう言った。元からゼロ距離だった四本の脚の位置が、絡むような配置に組み変わる。
「今、きみが言える、ような、台詞、か……?」
 彼の下半身が、立てた膝を軸に動き始める。肌と肌が擦れる感覚はするのに、耳から入ってくる音はぐちゃぐちゃと水っぽくて、何をしているかは察しがつくが、あまりフォーカスを当てたくなくて、止める。
 微睡みに落ちそうになっていた頭をゆるく持ち上げると、自分の長い髪の毛先と扇くんの掌が目に入る。伸びっぱなしの髪。手袋をしたままの手。手首までを黒いシャツが覆っているので、私はその下の肌の色を知らない。
 なのに。
「ねえ、どうして僕と、してるんですか?」
「……っ」
 腰の奥から迫り上がってくる感覚が瞼が重くしてきたので、睫で視界に薄い闇が重なる。私から見えない方の手が、私を扱く。押して、引いて、圧して、退いて、が繰り返されて、私の喉が愉悦の声を作る。だけど多分、彼はこれが聞きたいんじゃあない。
「はあ……なんか疲れちゃったなあ」
 緊張と解放を一定量繰り返すと、体勢はそのまま、体重がもろに落ちてきて、私の背骨を圧迫した。着地点には私の頭があった。扇くんはそのまま顔を覗き込んできて。
「ねえ、どうしてだと思います?」
 三度同じ事を訊いた。そうやって私を責める彼の唇の感触も、私は全く知らない。

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「はあ……最近、なんだかやる気が出ないんですよねえ」
 講義が始まる前。教室の机に片肘を付けたまま、扇くんが言った。
 なんで彼が私の通う大学の講義室にいるんだろう? という疑問もないではないが、その突っ込みを入れるのも今更というか、野暮な先輩だと思われたくはないので、ここはスルーといこう。
 代わりに、
「きみがやる気に満ち溢れている様なんて想像付かないけどな」
 と、ちょっと強めに詰ると、扇くんは肘どころか頬まで机にぺったりとくっつけてうなだれながら、
「えー? そりゃあ僕は駿河先輩のように、いつでもどこでも元気一杯、お気楽に生きているキャラじゃないですけど、多かれ少なかれアップダウンはありますよ」
 と、反論した。台詞の半分以上が失礼極まりない言動で出来ていたので、危うく私の方が会話のやる気を見失いそうになる――のをぐっと堪えて。
「ちょっと早いけど、夏バテかな?」
「夏バテってなんですか?」
「えっ知らないのか? ……えーっと、暑くて食欲がなくなったり、身体が怠くなったり、そういう疾患のことだよ」
「あー、じゃあ多分それです」
 活力に欠ける肯定の返事をしながら、扇くんは私が持参していたカフェラテをストローから啜った(勝手に飲むことを許可した覚えはない)。確かに、私を煽るように見つめて来る瞳を覗き込んでみれば、心成しか虚ろな気がする(いつもだけど)。身体のみならず気持ちまで重苦しそうだ。
「あーあ。駿河先輩なんかに心配されるなんて、僕らしくないなあ」
「きみが落ち込むのは勝手だけど、先輩を巻き込むな。心配し甲斐がなくなるだろうが」
「はっはー。人は一人で勝手に落ち込むだけってやつですか」
「叔父さんの名台詞をそう悲劇的にもじって良いものなのか?」
 しかし、扇くんも病気になるんだなあ、と。
 考えてみれば極々当たり前のことなのに、何故かとても珍しい事象に遭遇したような気持ちになりながら、中身が半分まで減ってしまったカップを傾けていると。
「うーん……ちょっと自己肯定力を高めたいので、駿河先輩。手始めに僕の好きなところを百個くらい挙げて貰えませんか?」
「私がきみの好きなところを百も言えると思っている時点で、きみの自己肯定力は問題ないよ」

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「いい加減、友達に戻るべきだと思うんですよ。僕と駿河先輩」
 いつになく浮かない顔で扇くんが言った。
「戻るべきも何も……きみと私、友達以上になった覚えがないのだが」
「あれ? そうでしたっけ?」
「そうだよ」
 昔の阿良々木先輩にもその気があったが、扇くんはどうも記憶喪失を装おうとする節がままある。かてて加えて、私同様、ない筈の記憶を捏造してふざける癖もあった。ハイブリッドなボケ方は器用だけど、先輩として流されまいと気を遣う必要があった。
 のっけから重苦しい表情をしていたからどんなシリアスな話が始まるのかと思いきや、私が突っ込むとすぐにいつもの飄々とした顔に戻ったから、まあ、例によって言ってみただけのジョークなんだろうな。
「そもそも、僕と駿河先輩ってお友達同士なんですかね?」
「友達――とはちょっと違うのかもしれないけどな。先輩と後輩だし」
「何を仰るんですか。愛さえあれば歳の差なんて」
「だからそれは友達じゃない間柄で使う台詞だろう」
 きみはどうしても一足飛びで私との距離を詰めたがるよな。
「えー? それはつまり、僕とはお友達になりたくないってことですか?」
「先輩と後輩で良いだろう。今まで通り」
「ははあ、成程。どうしても友達になりたくないというのなら、僕も駿河先輩と改めて友達以上の関係になるのは吝かではありません」
「分かった。きみとは友達で良い」
「わーい」
 と、扇くんは両手を広げて喜ぶようなポーズを取った。
 ……なんだかなあ。
 友達が欲しいんだったら、最初から素直にそう言えば良いのに。
「じゃあ、友達の駿河先輩。今度お家に遊びに行っても良いですか?」
「まあ、そのくらいなら良いよ」
「友達の駿河先輩とお泊り会がしたいなあ」
「うーん? それもアリなのかな? 私は男の子の友達がいた試しがないので、いまいち加減が分かっていないけれど、友達だったらパジャマパーティーのひとつやふたつ、やってもおかしくないもんな」
「あー、でも僕、枕が変わると眠れないんですよ。なので、寝る時は友達の駿河先輩のお胸を借りても良いですか?」
「あんまりふざけるようだと私は今すぐきみの友達をやめるぞ」
 私だって健全な女子高生だから、エロい話をする友達は少なくないけれど、きみをそういう友達としてカテゴライズするのはちょっと違う気がするんだよな。
「え? 駿河先輩ともあろうお方が、まさか友達を選り好みしているんですか?」
「また嫌な言い方をするなあ。そうじゃなくて、誰にだって話題の向き不向きがあるって話だよ」

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「珍しいですね、駿河先輩がそんなものを飲むなんて」
「うん。何故か稀に飲みたくなるんだよな」
 と、つい先程コンビニで買ったばかりの栄養剤の小瓶の封を切った。掌の中で小気味良い音が鳴る。そのまま呷るようにして褐色の瓶を傾けると、冷えた液体と一緒に独特のえぐみが自分の喉を駆け抜けていった。一気に飲み干してからふと隣を見ると、扇くんはまるで化け物でも見たかのような目を私に向けている。
「なんだ?」
「いえ、別に。ドリンクの瓶を片手で開封出来る怪力に、ちょっとびびっていただけです」
「え。瓶の蓋くらい誰でも片手で開けられるだろ」
「えー? そうですかねえ」
 如何にも納得いってなさそうな面持ちで、扇くんは自分の手元の瓶を開けにかかる。そっちこそ手袋を付けたまま蓋を回す器用さで何をか言わんや、だが。
「誰でもかどうかは分かり兼ねますが、少なくとも僕みたいな奴はそもそも片手だけで開けようって思考になりませんよ。どんな握力してるんですか」
 そんな風に、心底ひきました、というような顔で目を細める扇くんを見ていると、何かひっかかる気持ちも微かに湧いてきたから少々考え直してみるけれど……しかし、やっぱりどう考えても、彼が指摘した私の所作に特筆すべき特異性染みたものは無いように思えた。
「駿河先輩みたいなスターにとってすれば、特に顕著なあるある話だと思うんですけど。自分が出来ることって自分にとっては出来て当たり前だから、他人にまで過ぎた期待をしてしまうことってありますよね」
 唐突に、なんだか説教めいたことを言い出す扇くん。私は叱られるのがあまり得意ではなので(誰だって後輩に嫌みを言われるのは好かないだろうが)、容易く機嫌が斜めになった。
「なーんておへそを曲げつつも、駿河先輩だって本当はどこかで分かっているんじゃないですか? なんだか自分は人とは違うなーって感じたことが一度くらい……否、二度三度と言わず、あるんじゃないですか?」
「そりゃあ一度くらいはあるよ。自分と全く同じ思考をする人間なんていないし、全く同じ嗜好の人間もいないだろう」
「誤魔化し方が下手ですね。極論でしか反論出来ないなんて、興醒めです」
「瓶の開け方ひとつに厄介な議論をぶつけてくるきみに言われたくはないよ」
 と、空き瓶をゴミ箱に捨てながら、私は生意気な後輩の為に溜め息を吐いた。
 まあ、今回のオチを正直に明かすならば、私の件の握力は、何を隠そう私の腕が猿だった名残だったなのだが――しかし、私の場合、偶々母が残したアイテムが手元にあったというだけで。同じ状況に立たされれば、どんな人だって己を獣に作り替える可能性はあったんじゃないか――なんて仮定の話すら、扇くんに言わせれば過ぎた期待なのかもしれない。

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「なんだか心持ちが良くないのだ」
 と、のっけから不穏な空気を纏わせながら、神原が僕の頭頂部に顎を乗っけてきた。いや、僕はお前の顎置きじゃないし、僕の献身的な奉仕活動(清掃)をそうも簡単に邪魔出来るお前の気持ちが分からないし、それに一応、僕ってこれでもお前の先輩なんだけどな――と、つまらない恨み言の類が雨上がりの筍の如くぽこぽこと脳裏に浮かび、そしてすぐに霧散していき、結局最後には何ひとつ残らなかった。というのも、僕の首の後ろにいやに積極的に押し付けられている何やら柔らかな感触が、僕の思考を丁寧に相殺していくからである――いやいや、神原くんとの戯れもそれなりに熟れてきたつもりだったが、こうも斜め上の攻め方をしてくるとは、中々どうして侮れない。成程、阿良々木先輩が少なからず慢心していたことは認めよう。しかし、後輩のさり気ないようでいて実はあからさまな主張に対し、そう易々と屈する訳にもいかないのが先輩というものだ。僕にだってプライドがある。あるのかないのか分からない――そんなもん、寧ろ神原の部屋のゴミと一緒に潔く捨てちまった方が生きやすいんじゃないかと、よく議論の対象に挙げられるようなプライドが。オブラートの如く薄くて柔らかいプライドが。
「さて、聡明な阿良々木先輩なら、ここで私が何を言いたいか、分かってくれるのではないかと思うのだが――」
「しない」
「え?」
「しないからな」
「ま、まだ何も言っていないのだが……まさか本当に阿良々木先輩が私の心を読んでくるとは思わなかった。実は空気が読めるお人だったのだな、私の阿良々木先輩は。私はそういう方面が不得手なので、是非とも読み方を教えて欲しいものだ」
 言って、神原の顎の位置が頭部から肩に降りていく。その動作が異様にゆっくりとしたものだった所為か、図らずも己の心拍数が上昇してしまった。頭が隣り合ってすぐ、そのまま頬を猫のように擦り寄せられ、肌と肌との接触面積が増える。久方振りに自分のものではない体温に触れて、背筋にぞくりとした何かが走った。まるで身体の奥の一番柔らかい場所を優しく撫でられているかのようだ。不味い、これは不味い気がする。こんなことで白旗を挙げたくはないのだが、もう逃げ場がなくなってしまったような気持ちになる。いやさ、そもそもさ、お前が本当に空気が読めない奴なら、そんな手練れな誘い方を選ぶ筈がねえだろうが。今度こそ文句を言ってやるからな、と睨み付けてやるつもりで相手に視線をやると、丁度神原は僕に向けてウインクをひとつして見せたところだった。殆どゼロ距離に近い、超至近距離で。……如何にも冗談めいた所作だったから、本人の中で深い意味はなかったのかもしれないが、しかし、僕がなけなしの矜持で死守していた最後の一枚のオブラートが破れたのはそのタイミングだった。畜生、可愛いじゃねえか。

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「ホッピーと、鶏皮ポン酢と、あとたこわさお願いします」
「えっと……ジンジャーエール」
 耳慣れないメニューに被さった自分の声がやけに子供染みて聞こえた。そんななかったにも等しい小さな劣等感を察されたのだろうか。注文を切った店員さんが去った後で、
「神原も飲んだら?」
 と、向かいの席からあまり褒められない誘いが飛んでくる。それは本当に、深い意味は無さそうな声音だった。だけど、
「あと一年したらな」
 と、私は適当にあしらう。私は良い大人じゃないので――それこそ詐欺師でもないので未成年の前でも酒を飲みますよ、と茶目っ気と自虐が多分に含まれた友人の宣言を聞いて、羨ましいと思った気持ちが少しもなかった訳ではない。しかし、私の初めては戦場ヶ原先輩や阿良々木先輩に捧げたい、という期待を捨て切れていた訳でもなかった。あの人達は既に初めてを済ませていると聞いているが、あわよくば、二人同時のタイミングが理想だ。
「そういうこと私の前で言う?」
「いや、決してあなたが役不足だと言っている訳ではないのだ。気を悪くしたのなら謝る」
「その誤用、久しぶりに聞いたわ」
 彼女が呆れたように目を細めたタイミングで、大きなグラスが二つ、私達のテーブルにやってきた。私の前に置かれたグラスの中身は薄い琥珀色の炭酸飲料と大きな氷で満たされていた。一方、相手の前に置かれたものは透明で、量も半分程度しか入っていない。不思議に思っていると、彼女は慣れた手付きで、一緒にやってきた褐色の瓶から何かを注ぎ始めた。あっという間にビールのような見た目になったそれを、ぐるぐるとマドラーで掻き回している。
「はい。じゃあお疲れ様です」
「うん。お疲れ」
 よく分からないまま、促されるままグラスをぶつけて、二人で喉を鳴らした。私のジンジャーエールにはストローが刺さっていたけれど、相手の真似をしてグラスの縁に唇を付けてみる。勢い良く胃に落ちてくる炭酸は少しキツくて鼻の奥がツンと痛んだ。
「果たして一年後、本当に私とこうして飲んでくれるのかな。神原くんは」
 なんて、まだ始まったばかりだというのに、アルコールの味を知る彼女は随分と辛気くさいことを言う。

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「そこは戦場ヶ原さんの敏腕の振るい所というやつよ」
 と、ココア色の生地を詰めた型をオーブンに運んだ戦場ヶ原先輩はお得意の支配者のポーズでのたまったので、あとはもう、焼き上がるのを待つだけのフェーズに入っているらしかった。
 まもなくチョコレートが焼かれた時の、甘くむせ返るような香りが部屋に充満してくる。戦場ヶ原先輩は満足そうな面持ちでお湯を沸かし、休憩中に飲む為のお茶を淹れていた。
 調理作業中、私は全くといって良い程役に立たなかったので(謙遜じゃない)、せめて洗い物くらいはさせて頂こうかと一人シンクに立った。
「紅茶が冷めるわよ、神原」
「うむ。すぐに終わらせる」
 流しの中のボウルはチョコレートとバターが混ざり合った跡がある。不意に、その全てをぐちゃぐちゃにしてやりたい衝動に駆られたが、気付かなかったことにして、スポンジの上に台所用洗剤を絞った。

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 玄関のドアを閉めた時から不穏な空気は感じていた。
 投げやりにチェーンロックが閉まって、重い足音が廊下を滑る。おかえり、と敢えて明るい声を作ったのは決して嫌みではなかった筈なのだが、相手から返ってきたのは表情筋の動きを最低限に留められた故に絞られたボリュームのそれだった。
 一緒にごはんを食べなきゃ家族じゃない、なんていうのも乱暴な話だ――と、言っていたのは私の母親だけど、それはそれとして、しかし私達は夕食のタイミングを別にすることが多かった。なので私の胃は既に満たされていたのだけれど、返ってきたあいつの腹具合はそうではなさそうだったので、炊飯器の中に炊きあがって二時間は経ってしまったお米で良ければ、まだ残っている筈だと伝えたのだが、要らないとすげなく返された。保温のスイッチをオフにする私の口元が少し尖っていたとしても、それは私だけの所為ではないと主張したい。
 まあ、そこまでは良い。だけど、続いて相手が持ち帰って来たドラッグストアの袋からゼリー飲料が出てきた時は面食らった。いやいや、待て待て。流石にそれはどうかと思う。いやしかし、一緒に食卓を作る努力をしていない私がそこまで口を出すのもお節介が過ぎるのではないか? ましてや見るからに機嫌が悪そうなのに。と、一度冷静になろうと引いてしまったのが悪かった。迷っている間に、流動食を手早く腹に納めた後、バスルームへと向かう彼女の背を見送ることになってしまい、ちょっとだけ後悔が持ち上がる。どうせ考えることは向いていないのだから、さっさと動いてしまえば良かったのだ。
 シャワーが床を叩く音を聞きながら、ため息。
 手慰みに残された買い物袋の中を覗くと、中には新品のボディクリームがあった。洗面所に常備しているものと同じメーカーのそれは、もうすぐ底を突きそうだった筈だと思い出す。
「神原」
 振り向けば、タオルを頭に巻いたままの彼女が、背後に立っていた。すると我ながら単純なもので、濡れた髪と僅かに赤みが差している頬が、少しだけ私の気持ちを軽くさせた。右の手に件の、開封済みのクリームのボトルが握られていたのは正直意外だったが。なので、私は大人しく背を向ける。伸びた髪を首から横に流す。いつものルーチンに従って。
「……なあ」
「ん?」
「機嫌が悪かったんじゃないのか?」
「……まあ」
 背中越しに相手の気持ちを伺ってみたが、どうも上手く分からない。残り少ないクリームを乗せた指が、私の背を滑る。

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