でも美術室に呼び出されると行く

02

「宇髄センセには、彼女が三人いるって本当ですか」
 放課後の美術室にわざわざ赴いてやったのだ。このぐらいの報復は許されるだろう、と切り出した俺の質問は、予想以上に宇髄先生の弱点にクリティカルヒットしたらしかった。期末考査の採点をしていた先生の手から赤ペンがぽろり、と落ちるのを見て、珍しいこともあるもんだと俺は目を見開く。
 まあ確かにな、場に相応しくないことを訊いたかもしれない。「生徒の前で試験の丸ツケなんかして良いんですか?」と訊いたところ、「良いんだよ、どうせ美術のペーパーテストなんて地味なんだから」と、圧倒的作品成果主義の宇髄先生が仰ったので、俺は渋々同じ部屋で未提出課題に取り込んでいたところだった。そんな折に訊く質問ではなかったかもしれない。だけど、こっちの方まで転がってきた赤ペンを拾って差し上げる気にはなれなかった。
 椅子から立ち上がった宇髄先生は俺の足元にしゃがみ込み、まるで落とし物を拾うついでのように訊く。
「……誰から聞いた?」
「俺のカマ掛け」
「単なるカマ掛けにしちゃあ具体的過ぎるだろ。本当は誰から聞いた」
「……食堂の須磨さんとまきをさんが話してるのが聞こえた」
 放課後だったし、調理室の奥で話してたから、多分俺以外には聞こえてないと思うけど。誰を庇う訳でもなくそう注釈すると、「あいつらか……」と、宇髄先生は苦々しくため息を吐いた――のはただのパフォーマンスのようで、実際には表情筋を少し緩ませていた。要は幸せそうな顔ってやつに近い。報復出来たと思ったのは俺の勘違いだったようだ。なんだか腹立たしい。クソ、羨ましいな。なんで宇髄先生みたいなのに彼女がいるのに、どうして俺にはいないんだ。世の中狂ってるよ。宇髄先生の新作油彩画のパースの如く。
「彼女って程可愛らしいもんじゃねえよ」
「じゃあなんだよ。あんな美女三人も捕まえておいて」
「嫁だ、嫁。実は俺、所帯持ちだったんだよ」
「は? ガキ相手だからって分かりやすい嘘吐かないで貰えます?」
「嘘じゃねえよ。俺の左手見てみろ。嫁が三人いるから、結婚指輪も三つしてるし」
「いやそれはアンタの趣味だろ。指輪だけで結婚してるって言い張れるなら、俺だって明日から指輪の十や二十は嵌めてくるわ」
「お前、俺の授業だけじゃなく算数まで出来なかったのか? 自分の手指の本数ちゃんと数えてみろよ」
「いや、ものの例えですけど」
 なんで自分は冗談言う癖に、人のジョークには乗れない訳? と、分かりやすく面白くない気持ちになったが、だけど俺も馬鹿ではないので、多分こういうところが女性にとっては「面白い」ポイントなんだろうなというのは察せられる。畜生が。ちゃっかりと、「そうだ我妻。俺に嫁が三人いることは他の奴らには内緒だからな」なんて調子良く口封じしてくるところもムカつく。公になって社会的に滅びれば良いのに。俺がもっと真面目な風紀委員だったら、今頃アンタは大変なことになってるんだからな。ただ、食堂や売店に行く度に、須磨さんやまきをさんや雛鶴さんが俺の目を見て「いつもありがとう」って言ってくれるから、俺から滅ぼす気がないってだけでね、お前はその嫁とやらに救われているだけなんだからな。ああ妬ましい。俺だってそんな存在が欲しいわ。
「……どうしたら彼女って出来るんですか」
「まずその質問がえらく格好悪いって自覚はあるか?」
「んなことアンタに言われなくともこちとら分かってんだよ!」
 あんまりな物言いだったのでうっかり噛み付いてしまった。「そんな残酷な質問、教師がして良いと思ってる訳?」と憎まれ口を叩けば、「まず女にモテたいって相談を教師にする方が間違ってんだよ」と、来る。悔しいが正論っぽいな。恨めしさの純度百パーセントの視線で睨んでやると、宇髄先生は鬱陶しがるように掌を振った。そのまま手が俺の頭に乗せられ、そのままじっと見つめられる。なんのつもりだよ。確かにアンタからすれば俺はモテないし、課題を溜め込んでる不出来な生徒だけれど、かといってアンタの肘置きにして良い訳ではないんですが。
「なあ我妻、お前は自分がモテる程、価値のある人間だと思うか?」
「ぐ……」
 そのイケメン面で真面目な表情を作って一体何を訊くのかと思えば。それだって分かってんだよ。そりゃあアンタ程魅力ある人間でもねえしな、俺。テメエの弱みを握ったところで、強請れるような頭も度胸もねえよ。だけど悔しくない訳ではないので、何か言い返したい。しかし何も出てこない。自分の喉は悔しそうな音を立てただけで、なんにも言い返しちゃくれなかった。黙ったままでいると、乗せられたデカい手が俺の頭をくしゃりと掴む。なんですか。哀れみの一種ですか。
「少なくともよ、お前の価値にお前が気付かない限りはそのままだろうよ」

 

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でも美術室に呼び出されると行く

01

「さっさと課題出せや、我妻善逸」
 我が校の美術教科担当の宇髄天元先生が何か仰ったようだが、残念なことに俺の耳にはノイズキャンセリング機能が備わっているので、その発言は俺の中ではなかったことになった。なかったことにしたつもりだったが、少なくともそのご指導とやらは、絵筆に油絵の具を纏わせてキャンバスと仲良くしながら言うことではないだろ。どんな良い美大を出てんのかは知らんけど、自室ならともかく学校の美術室でやることですかね、それ。なんて、胸の中で悪態がつけてしまえたので、完全無視はし損ねているようだ。俺も甘い。
 まあでも、ここで俺が黙ったままでいれば、聞かなかったも同然だ。だから、美術室の備品の背もたれがない椅子に腰掛けて、たっぷり五分は口を閉ざしていたのだが、宇髄先生が自身で描いたド派手で極彩色の世界との睨めっこを終えたところで、「聞いてんのか?」と返事を促された。右手に握られていた筆がオイルクリーナーに突っ込まれて、じゃばじゃばと音を立てる。油の匂いに鼻の奥を焼かれたような気がした。不快感に顔を顰める。
「なんでテメェに配ったケント紙だけ綺麗に真っ白なんだよ。せめてへのへのもへじのひとつくらい描いとけよ。お前、俺の課題だけは一度も提出したことねえだろ。お前の通信簿に1を付けることは簡単だがな、ちったぁやる気がある振りくらいしろ。形だけでもやる気はありましたけど出来ませんって体の方が、こっちとしてはもう少し掛けてやれる温情も――」
 と、俺の方を振り返ったところで、宇髄先生は口を噤んだ。アンタに掛けて貰う温情なんて望んでませんが? という俺の冷たい視線を浴びて、感じるところがあったのだろう。
「……ま、お前の成績が下がることはお前の問題だからどうでも良い。だけどな、あまりにも素行不良な教え子がいると、教師側も指導不足ってことで俺の給料が下がる。そんなん、誰も幸せにならねえだろ」
 テンションと言葉をやんわりと切り替えて、そんなことを言う宇髄先生を教師と思えなんてやはり無茶があるのではないか。誰に同意を求めるでもなく心の中だけで一人ごちて、これ見よがしにはあ、とため息を吐く。
 画材を片付け終えた宇髄先生は、ボトルからガムを取り出して口に入れた。よくこんな油臭い部屋でものなんか食えますね、と思ったが、口に出す義理はないので出さない。「お前も食うか?」と差し出されたボトルガムも勿論固辞した。
「……この天元様がここまで目を掛けてやってるのに、良い態度だな、お前」
「俺、イケメンとは腹を割って話せない呪いにかかってるんで」
 すると、それまで涼しく喋っていた先生が真顔になり、その女子生徒にもてはやされそうな顔に「クソガキ」と罵る四文字がチラついた気がしたので、ほんの少しだけ俺の心はスッとした。

 

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塩漬けにした牛肉の缶詰について

 備え付けの鍵を剥がして、缶の表面から少しはみ出していたでっぱりに差し込む。そのままくるくる外周に沿って回していけば、ぴりり、と亀裂が入っていく。鍵に巻き付く金属の細い帯は、上手に剥けた果物の皮のようにも見えた。
 掌に収まる台形の缶詰を「教えろ」と差し出してきたのは伊之助で、一体何を知りたいのかと思えば、コンビーフの缶を開けて欲しいのだという。生まれて初めてその存在を知った。開けてそのまま肉が食える。美味いらしい。他所では食えない味だと聞いた。しかも肉なのに腐らない。こいつはやべえ。一緒に暮らす婆の家から発掘してきたというその缶詰は、賞味期限が丁度一年後の今日だった。コンビーフは三年くらいなら余裕で保存が効くということは、昨日の夜に流し見していたネットニュースのおかげで俺も知っていた。ということは、少なくともこいつは二年間眠っていたことになる。全く、ひささんも拾った猪を無駄にときめかすのがお上手なことで。
「……二年前の今日、何してたっけなあ」
 缶の蓋を剥きながら、誰に聞かせるでもなく呟いてみる。上蓋を取り除くと中から赤い肉が顔を覗かせた。「おお!」と、伊之助から感嘆の声が上がる。非常識的なこいつの数少ない良いところのひとつに、相手に見せるリアクションがとても素直だ、というのはあると思う。
 ある年まで雌の猪に育てられたという伊之助は、酷く世間知らずなところはあれど、人間の常識と呼ぶべき何もかもが出来ないという訳では決してない。むしろ逆で、伊之助は一人で出来ることは、何もかも一人きりですることを好む男だった。なのに、どういう風の吹き回しなのか、暇を見つけてはよく俺を頼ってくる。今日日コンビーフの缶の開け方が常識と呼べるのかどうかは知らんが。でもまあ、今の常識だって、遠いいつかには非常識になるのだから、さほど問題にはならんだろう。伊之助は伊之助の中の非常識にぶつかる度、「紋逸!」と、覚える気が全く無さそうな声音で俺の名前を呼んだ。同じ学年で同じクラスなのだから、俺ではなく炭治郎の方を頼れば良いのに、と思いながら相手をするのが常となっている。しかし、炭治郎は炭治郎でどうしたって世話焼きなところがあるから、なるだけ親分として立っていたい伊之助的に見れば、分からない境地ではない。俺の適当さ加減が、伊之助の中では丁度良いらしかった。
「ほらよ」
 もう食べるだけになった缶の中身を差し出すと、伊之助はすぐさま肉の塊にかぶり付いた。脂肪と赤身が混じり合った加工肉が、口の中でもちゃもちゃと咀嚼されていく。二年前、缶に詰められる時も同じ色をしてたのかな、この塩漬けの牛の肉は。
「しょっぱいな」
 一口二口、それから三口目で剥いた肉をあらかた腹に収めてしまった伊之助は、そんな風に今更感が残る感想を述べた。開けてやったんだから俺にもちょっとは頂戴よ、と器に残っていた肉を指ですくって舐めてみる。なんだか懐かしい味がした。そういえば、兄貴が晩飯のおかずを作る時、時たま野菜と一緒にフライパンに入れていたなと思い出す。キャベツとピーマンの緑ばかりが目立つ野菜炒めの中で、熱されて少し色が抜けた赤を見た記憶がある。すぐに思い出せたから最近の出来事だと思っていたけれど、よくよく考えてみればそれももう二年前の記憶だ。少なくとも俺は二年前と同じではいられなかった。
「うん。しょっぱい」
 相手と同じ感想を選びながら、手に残された金属の棒に巻き付けられた薄いリボンを広げてみる。深い緑と白の印刷は切り口で擦れて、裏地の金色は脂で汚れていた。それらを全て取り除くと、銀の鍵だけが残った。蛍光灯の白に照らされて、輪郭をぴかぴかに光らせている。
「それ、よこせ」
「? なんで?」
「気になる」
 言われるがまま差し出すと、伊之助は責務を全うした巻き取り鍵を、なんだか大事そうにスラックスのポケットにしまった。そこに入れられたら最後、持ち主もしくは同居人が制服をクリーニングに出すまで忘れ去られる運命にあるのだろう。そう考えると些か嘆かわしい。しかし、伊之助の表情だけは、道端で本人にしか価値が分からない宝物を見つけた小学生のようなそれだったので、咎める気にはなれなかった。

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気象病

「頭が痛ぇからもうじき雨が降るぞ」
 そんなことを伊之助が言ったので、俺は少し呆けてしまった。というのも、並べられた「頭が痛い」と「雨が降る」の二つに因果はないと思っていたからだ。その時の俺の心中は、こいつは何を言っているんだろう、という疑問が九割、だけど理由もなしにふざけたことを言うような奴じゃないよな、という経験則が一割を占めていて、結果特に何も返さずにその場は流した。だけど不思議なもので、それから半刻もしないうちに天から細い雨粒がぱらぱらと降りてきたので、伊之助の言った通りになった。どうして分かったんだよ、と訊いてみたい好奇心はあったけれど、猪頭に手を当てて不機嫌そうに空を睨んでいる伊之助を前にすると、声を掛けるのはなんだかはばかられたので、謎のままになった。
 それから度々伊之助は空模様を当てた。山で育ったこいつのことだし、野生動物特有の勘のようなものでも働いているのかと思えば、どうも違うようだ。こいつは持ち前の肌感覚の鋭さと経験則でものを言っているらしいぞと気が付いたのは、何度か任務を共にしてからだった。俺の耳の良さと同じような類だろうか。
 一緒に鬼を狩りに行く途中、にわか雨に遭った時の伊之助は大抵機嫌が悪そうにしていたけれど、かといって濡れることを疎ましく思っている訳ではないらしく、どんなに雨脚が激しくとも目的地を目指すことはやめない。もう少し雨宿りしてから行こうぜ、と愚図るのはいつも俺の方で、だけど俺の忠告なんてあいつに届く筈もなく、伊之助は返事を待たずにさっさと軒下から飛び出して行く。え、いやちょっと待ってよ。この土砂降りの中を傘も差さずにとか、正気か? 俺は慌てて広げた羽織を頭から被り、走る背中を追い掛ける。いつもこうだよ。自己中心的というか、自分の常識が他人にとっても常識である筈だと疑わないというか。だから俺、あいつとの任務はちょっと嫌なんだよな。

 実のところ、俺も雨はあまり得意ではない。特に晴れの日が長く続いた後の雨の日なんかは、耳が上手く慣れてくれない。
 伊之助と一緒に鬼を斬った翌日。その日も屋根を叩く雨粒の音を夜通し聞きながら寝た所為か、目覚めてからもしばらく頭の奥が重かった。今朝は鴉も雀も鳴かなかったのが幸いだったけれど。
 ふと隣を見れば、先に目覚めていたらしい伊之助も、布団の上でぼんやりとしていた。こいつが身動きひとつせず、じっとしているのも珍しい。昨日鬼の前で見せた威勢の良さはどこにも残っていない。
「おはよ、伊之助」
「…………」
「何してんの?」
「…………」
「伊之助?」
 返事らしい返事はなかった。被り物の下で何かもごもごと口を動かした気配はあったけれど、固まったまま動かない。大丈夫なのかな。もしや腹でも空いてるの?
「……なんだかぴりぴりするし、寒い」
 呟くようにそう言って、伊之助は布団の上に大の字になった。それだけでも普段の伊之助の態度からは考えられない奇行だったのだが、あろうことかそのままごろりと横に寝返りを打って、俺の布団の方に寄ってくる。
「なんだよ」
「……頭が痛ぇ」
 低く唸るようにそう言って、また口を噤む。相変わらず気まぐれだし、あまり言葉を尽くさない男だな、と俺の眉間には皺が寄った。一体何がしたいのか、全く読めない。
 まあ、しかし、だ。伊之助が素直に弱音を吐いたこと自体は珍しかったし、それは多分、今この場所に炭治郎が居ないからというのが理由のひとつにあるのではないか。それを俺は、時たま訪れる二人きりで任務に赴く機会の中で感じていた。気付かない方が良かったのかもしれないが、気付いてしまったので、変にかどわかされてしまった。普段は俺の言うことなんざこれっぽっちも気に留めない猪なのに、稀に二人きりになると、おもむろに腹を見せてくる。その気付きは、なんだか俺を不思議な気持ちにさせたのだ。
 何かを諦めるような心持ちで、俺は掛布団を持ち上げ、相手を招き入れる姿勢を作った。その対応は正解だったのか、伊之助は寝巻を引き摺りながら、素直に俺の布団の中に潜り込んで来る。着ていた浴衣は帯が解けていた所為で、ただ肩に羽織るだけになっていた。見てるだけでも寒そうななりだ。もしや雨に打たれて風邪でも引いたのかな、と相手の首元を触ってみたのだが、布の下の肌は妙に冷えていた。それだけじゃ分かんねえしな、と続けて被り物の猪を脱がせる。抵抗されるかと思いきや存外大人しく脱がされて、久し振りに見た素顔には重そうな瞼があった。ぱっちりしている筈の目は伏せがちだったので、長い睫毛に遮られてしまい瞳の色がよく見えない。
「やっぱり風邪引いたんじゃねえの? 白湯でも沸かして貰おうか」
「いらねえ」
 俺は強いから風邪なんか引かねえ、と伊之助はまた唸った。子供みたいな言い草に呆れたが、確かに体温は平熱だったし、喉を少し覗いてみても赤くはなかった。だけど、俺の太腿辺りに蹲って額をくっつけることをやめなかったし、丸くなったまま動かない。なので、俺はすっかり困ってしまった。
 聞こえよがしにため息を吐く。そうでもしないとこの猪は俺の心の機微が分からないだろうと踏んだのだ。
「お前さあ、何がしたいの? ちゃんと言わないと分かんないよ?」
「……別に何も」
「あっそ」
 睫毛と同じ色をした柔らかい髪に指を差し込むと、伊之助は喉を鳴らした。これでは猪ではなく猫のようだなと思ったが、響いた声は気持ち良さそうなそれではなく、嫌がってる時の音だ。神経を静かに削られているかのような音が、外の雨音の中に混じっている。
「……伊之助は、雨が嫌い?」
「天気に好きとか嫌いとかねえよ」
 触る場所を髪の生え際から耳に移す。薄くて形の良い耳はひんやりと冷たかった。また嫌がられるかと思ったが、案の定。いきなり鳩尾に頭突きを食らわされた。ぐえ、と潰された蛙のような声が自分の喉奥で鳴る。いやね、ちょっかいかけたのはこっちだけどさ、いきなり頭突きとかないでしょ!? と、俺が文句を言うより先に、伊之助の両腕が俺の腰に回った。浴衣越しに伝わってくる体温がぬくくて、ちょっとだけ気持ちが丸くなってしまう。
「俺がこうしてんのは俺の勝手だろ。別に、細やかな気遣いが欲しい訳じゃねえし」
 と、伊之助はやっぱり不機嫌そうな声で、俺の腹に向かって喋った。しかし成程。このしおらしい態度を炭治郎の前で見せなかった理由はその辺りにありそうだな、なんて邪推が働く。細やかな気遣い。それこそあいつが得意そうなものだ。
「お前、結構炭治郎のこと好きだよな」
「……なんで権八郎の話が出てくるんだよ」

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うっかり血鬼術をくらってしまった結果、俺の尻から尻尾が生えた

 任務に向かった記憶はある。確か一人で鬼を待っていた。現場に到着したのは昼だったので、鬼が出るまで、つまりは日が落ちるまで待っていた訳だが、あまりにも暇だったからちょっとぼんやりしてしまった。気付いた時には夜空に月が浮かんでいて、鬼の頚が目の前に落ちていて、俺は血塗れになっていた。えっなんで? ああ、これはもしや知らない間に腹でも切られて死にゆく途中なのではないかと慌てたが、身体はどこも痛んでいなかったし、浴びた血は全て目の前に転がっている鬼の返り血のようだった。一体どういう状況なのかと問い質したい気持ちはあったけど、鬼はこと切れてから時間が経っているのか、もう殆どが塵になっていたので諦めた。
 なんだか腑に落ちないが、チュン太郎は満足そうに鳴いているので、任務はこれでおしまいの筈だ。隊服が随分血で汚れてしまったが、命が無事なら安いものだと、よそに避けていた羽織を着込む。帰る道中から、なんだか背骨の辺りがむずむずするな、という感覚はあったけれど、さして気にしていなかった。
 仰天したのは蝶屋敷に着いて、風呂に入ろうと隊服を脱いで、自分の尻から何か長いものがにょろりと生えているのを発見してからだった。その時は風呂場から廊下、どころか屋敷全体に俺の悲鳴が響き渡った。と、俺の絶叫を耳にしてその場に駆け付けてきた炭治郎から聞いた。

 うっかり血鬼術をくらってしまった結果、俺の尻から尻尾が生えた。
 いや嘘でしょ? 嘘だよね? 誰か嘘だと言っておくれ。ひんひん泣きながら、自分の尻の割れ目の上らへんをおっかなびっくり触ってみるのだが、自分のものとは思えない尻尾が、自分の尾てい骨から伸びている。何これ現実? こんなもの俺は知らない。どんな種類の悪夢なのこれは。
「綺麗に背骨が延長しているようです。まさに尻尾としか言いようがありませんね」
 と、しのぶさんは俺の首の後ろから背中、そして裏腿までを検めて、そんな診断結果を下した。しのぶさんとお知り合いになって以来、身体の負傷で困った時にはしのぶさんの元へ駆け込むのが常となっているけれど、今回ばかりは病気や怪我とは事情が違ったので、なんだか罪悪感が湧いてくる。訳の分からないものを調べさせてしまってすみません。俺も好きで女性に尻を見せている訳じゃないんです。
 俺の言い訳がましい言い訳は結局伝えられなかったが、しのぶさんは構うことなく、俺から伸びている尻尾を綺麗な指で静かになぞった。女の人に身体をまじまじ見られるのは初めてだったので、なんだか恥ずかしくなってくる。これが血鬼術で生えた得体の知れない尻尾じゃなければな……。
「ひとまず薬は打っておきますので、あとは十分日光に当たって療養すれば消えるでしょう」
「本当に?」
「ええ。本当に」
 しのぶさんがにこやかに笑う。この人がにこやかに笑ったところ以外を見たことがないけれど、ただその言葉は俺を安心させるのには十分だった。
「薬ってなんの薬ですか?」
「解毒剤です。善逸くんが血を浴びてから発症したことから、今回の血鬼術は毒の一種と考えられます。なので、那田蜘蛛山で処方したものと同じ種類のものを出しておきますね」
 言いながら、診察台にうつ伏せに寝ていた俺の腰に、しのぶさんは注射針を刺した。ちくん、と小さな痛みが背を走り、反射的に目に涙が滲む。でもまあ、あれだ。蜘蛛になりかけて手足が短くなったことだってあるんだもの、尻尾だって生える時には生えるのかもしれない。人ならざるものになりかける機会が多くて、心がめげそう。というか、またあの苦い薬を飲む羽目になるのか。最悪だ。
 一気に悲しい気持ちになったが、でも尻を見せながら散々泣いた後だったから、しのぶさんにこれ以上の醜態を晒すのはみっともない。尻尾を生やした絵面が間抜けであることは流石の俺でも分かっていたので、遅れてやってきた羞恥心と戦っていたら。
「善逸君、そうしょんぼりしないでください。きっと、すぐによくなりますから」
「え」
 随分と優しい声が飛んできた。しのぶさんは負傷した隊士には女神のように優しいが、あからさまな慰めの声を発する人ではなかった筈だ。というより、どうして俺がしょげていると分かったんだろう。泣いて喚いた後ではあったが、俺にしては頑張っていた方で、見栄や羞恥心を抱えていたこともあって、目に涙を溜めていた訳でもなかったのに。
「どうしてって、それは――」
 言いかけて、しのぶさんはくすりと笑い、俺の後ろを覗き見るような動作をした。目線の先では、俺にくっついている尻尾が俺の心情を代弁するかのように、しょんぼりと股座に潜り込んでいた。

 正直過ぎる尻尾の所為で余計な恥をかいた。数時間付き合ってみて分かったが、生えた尻尾は俺の機嫌を的確に表現してくれるらしい。いやしなくていいよ、困るよ。俺ってただでさえ嘘が吐けない人間なのに。俺が喜べば尻尾は千切れんばかりにぱたぱたと揺れたし、悲しめばしゅんと垂れ下がる。まるで犬や猫にでもなった気分だった。
 そんな訳で心は重症だったが、袴を穿く時に邪魔という一点を除き、身体に異常はなかったので、俺はまた任務に駆り出されることになった。辛い。実際に生やしてみないと分からない話なので、誰一人として共感を得られなかったが、これを日の元に晒して街を歩くのは、中々キツいものがあるんだぞ。日光に当てなければ短くなってくれないというので、我慢してはいるけれど。
「大丈夫だ、善逸。初めて見た時は驚いたが、見慣れると愛嬌があって中々可愛いと思う」
 というのは今回一緒の任務になった炭治郎の論だったが、それはなんの慰めにもなってないからな。同じことをお前、禰豆子ちゃんにも言えるのか? 言ったら俺が怒りますがね。
 頭が固めな同期の所為で俺の心は中々晴れないままだったが、でも炭治郎は優秀な隊士だ。俺の代わりに鬼を斬ってくれたので、今日の任務も無事に終えることが出来た。良かった良かったと胸を撫で下ろすと、俺の背後では尻尾がぶんぶんと左右に振れて喜びの意を表明している。やめてくれ。なんだか恥ずかしかったのでもう服の中に隠してしまおうとしたのだが、尻尾は俺の手が届く寸でのところでするりと逃げてしまう。自分の背を追ってぐるぐる回っていたら、炭治郎が痛々しいものを見るような目でこちらを見ていた。やめろ、そんな顔をするんじゃないよ。
「その尻尾は、善逸の意思で動かせはしないのか?」
「うーん、出来るような出来ないような……」
 動かせることには動かせるけれど、手足程細かく動かせる訳じゃない。とはいえ自分の一部ではあるので、全く出来ない訳じゃないけれど。肺を膨らませようとするとか、腹筋に力を入れるとか、そういう感覚に近い。意識したら自由に出来るのかもしれないが、試してみる気は起きなかった。

 そうこうしているうちに、藤の花の家に着いた。用意された部屋に布団を敷いて早々、炭治郎が俺に組み付いてきた。珍しいこともあるものだ。そういえば、二人きりで任務に出たのは随分と久し振りだったな、と思い出す。らしくなく性急な行いに、少し照れる気持ちもなくはなかったが、決して嫌な気分ではなかったので拒まなかった。そこで察して欲しいのに、炭治郎といえば真剣な眼差しで、俺の背中を覗き込むようにして尻尾の様子を窺ってくるものだから、やりにくくって仕方がない。はいはいどうぞ、と顔では余裕ぶったとしても、尻尾は素直に俺の期待と興奮を相手に伝えている。自分のことながら憎い。
 ぎゅう、と抱き締められると身体の熱が伝わった。寝巻越しにも分かる体温の高さに、俺は動揺する。
「え、ちょっと炭治郎。お前熱があるんじゃないの?」
 と、相手の肩を押し返すようにして、背中に回されていた腕を引き剥がしながら俺が問うと、炭治郎は困ったように眉を下げた。図星だったらしい。
「風邪でも引いたの?」
「そういう訳じゃないんだが」
「じゃあ何」
「……もうずっと下がらないから平気だ」
「そんなん全然平気じゃないでしょ。めちゃくちゃ熱いよ」
「むしろ熱い方が調子が良いんだ」
「いやそれ大丈夫なの? 駄目じゃない?」
 なんて、ちょっとだけ、いやかなり頭が固いところがあるこの男と押し問答を繰り返し、結果元の体勢に戻されてしまった。布団の上に組み敷かれている。いやいやなんでよ。こんなことして大丈夫なのか、お前は。恥ずかしくないのか。ちなみに俺はとっても恥ずかしいよ。
 さっきのやりとりの間にすったもんだがあった所為で、着ていた浴衣が崩れてしまった。直そうにも、炭治郎が腕ごと俺を抱きすくめているので直せない。そして、それ以上の文句は聞きたくなかったのか、炭治郎は俺の口をぺろりと舐めた。不意を突かれた所為で、俺の口からはんぶ、と変な声が出てしまった。眉間に皺を寄せて意思表示を図ってみるが、俺の尻尾は俺の意に沿わず、炭治郎の内腿をぺしぺしと叩いている。炭治郎のことが心配なのは俺の本心の筈なのに、まるで自分からねだっているかのように相手に絡む尾の動きが、とてもあさましく思えてしまう。
「あ、だめだって、たんじろ。それ、さわっちゃ……」
 駄目、の一言に一度は手を引っ込めた炭治郎だったが、俺が強くは拒絶しないことを確認した後、再び尾てい骨に手を伸ばしてきた。馬鹿正直な奴だ。だから余計に照れくさいのだが。炭治郎の指が俺の尻尾の根元に触れる。すると、神経を直に弄くられたかのように、ぞわぞわとした快感が背を走った。食いしばった歯の隙間からふう、と息が漏れる。やっぱり恥ずかしい。しのぶさんに尻を見せた時とはまた違う種類の羞恥がある。
「本当に、犬や猫のようだ」
 いつもより低い声で囁かれた炭治郎の声は、心から感嘆していることを俺に伝えてきたが、本当にやめて欲しい。畜生と一緒にすんなよ、と俺が文句を言うより先に、炭次郎が付け根を強く引っ掻いたので、文句を言うのが遅れた。ひっ、と悲鳴とも嬌声ともつかない声が出てしまった。慌てて両手で顔を覆う。
「すまない、痛かっただろうか」
「……お前ね」
 気になる気持ちは分かるけど、そう興味本位で触るもんじゃないよ。と、今度の文句はしっかり口から押し出せた。抗議の意味を込めて相手の顔をじっと見ていたら、炭治郎はいきなり険しい表情になった。なんだなんだ。炭治郎からおかしな音がする。何かを我慢している時の音に近いけど、微妙に違う気もする。心音が妙に早いし、大きい。やはり熱があるからじゃないだろうか。

 それから一週間が経ったが、尻尾は消えなかった。任務の無い日中はなるべく日に当たるようにしているのに、中々短くなってくれない。途中で近くに寄ったからと、村田さんが見舞いに来て、そして存分に腹を抱えて帰って行った。やめてくれ。見世物じゃないよ。
「善逸君がどうしても困るというのなら、いっそ切除してしまうという手もありますよ。知り合いに、良いお医者さんがいるんです」
 これは薬を煎じながら笑顔で提案されたしのぶさんのお言葉だが、そんな怖いこと出来る訳がなかった。切除ってことはあれでしょ。無理矢理に切るってことでしょ。痛いよね? 痛いに決まっている。軽く想像してみただけで、恐怖で尻穴がきゅっと縮こまってしまう。
 屋敷の縁側で苦い薬湯を舐めながら、膝を丸めてすんすん泣いていると「日向ぼっこですか?」と女の子達にからかわれる。やっぱり彼女らにも猫か何かかと思われているのかもしれない。放っておいたらこのまま耳まで生えてきて、本当に畜生になってしまうのではないか。そしたらどうやって生きていけばいいんだ。今のうちに伊之助から山で生きる方法を教えて貰おうか。流石にそれは早計か。つーか普通に嫌だよ。
 そんなことを考える度に、尻尾はしょんぼりと丸まった。すると、どこからともなく炭治郎がやって来て、慰めの言葉らしきものを並べながら、俺の髪の間に指を差し入れる。それだけで、俺の尻尾は心の底から嬉しそうにぱたぱたと揺れてしまうので、炭治郎は満足気な顔をさせてしまうのだった。優しさが辛い。だけどその優しさだけが俺の命綱なので、もし完全に畜生に成り果ててしまったら、いっそ炭治郎に世話を頼んでみようか。そんなことを考えていたら、炭治郎の手が伸びてきて俺の首元に伸びてきて、顎をくすぐった。
「さてはお前楽しんでるな」
 恨みがましく睨んでみせると、炭治郎は気恥ずかしそうに頭を掻いた。悪気がないのが厄介なんだよな。
「そういえば、お前、熱は?」
「…………大丈夫だ」
「だったらこっち見て言ってみろよ」
 あからさまな所作で顔を背けた炭次郎は大方、件の嘘が吐けない表情をしているのだろうが、強くは追及しないことに決めた。炭治郎は真面目な奴だから、きっとその時がくれば打ち明けてくれる筈だ。触れられた掌は熱かったし、相手の腹に耳をくっつけると、また例のおかしな心音も伝わってきたから、炭治郎が何かを隠しているのは確実で、だけど信じてみることにしたのだ。
 ただ、正直過ぎる俺の尾だけは彼の腕にするりと巻き付き、心配そうに相手の肌の上を撫でていた。

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最終選別で七日ぶりに目を開けた善逸の話

 藤襲山に足を踏み入れてすぐ、七日どころか半刻も経たないうちに死んでしまうだろう、なんて絶望と一緒に膝を抱えた俺の頭上を、鬼の爪が横切った。そこまでは覚えている。そこからを覚えていない。生まれて初めて見た鬼が恐ろし過ぎて、俺はあっけなく失神した。ああこれはもう死んだな、と確信する。
 それから件の鬼の頚目掛けて抜刀した感覚がおぼろげにあったけれど、死ぬ間際に痛快な夢を見られたのはまあ良かったのかな、不幸中の幸いだな、くらいにしか思わなかった。死んでる時点で幸も不幸もないけどな。ただ、じいちゃんの教えを活かせたのが死に際の夢でしかないのは悔しかったので、心の中でごめんと謝る。いやでも、山登る前のビンタは痛かったよ。
 何故だか幸せな夢を見ることだけは昔から得意だったので、夢の中の俺は誰よりも早く鬼を斬っていく。一体、二体、三体と頚を落とし、そこから先の記憶は断続的で上手く数えられなかったが、夢とは得てしてそういうものだろう。楽しくてだけど苦しい夢は随分と長く続いた。気付けば俺は開けた場所に転がっていて、大の字で天を仰いでいた。降り注ぐ朝日だか夕日だかが目に染みる。視界がぼやけていてよく分からんが、ここは天国か? それとも地獄か?
 光がやけに眩しかったので何度か瞬いた。こんなに日が明るく感じるということは天国かもしれない。生前に善行を積んだ覚えなんて全くなかったけれど、与えられるものならなんだって欲しい。というか地獄とか怖いから勘弁して。天国であってくれ。にしては鴉や雀の鳴き声がうるさいけども。何をそんなにぎゃあぎゃあ騒いでいるんだろう。
 しばらく瞬きを繰り返し、ようやっと取り戻した視界に一番に飛び込んで来たのは、猪の鼻面だった。……猪?
 ひぎゃあ! と、悲鳴を上げたのは頭上の鴉ではなく自分の喉だ。叫んで飛び上がろうとして、だけど身体が動かない。脚が痛くて動けなかった。折れてはいないようだったけど、疲労の溜まり具合が半端じゃない。筋肉が軋む音が凄まじい。下手な動かし方をしたら千切れそうだ。なんで? というか、俺は死んだのではなかったのか?
 寝転んでいた開けた場所とは、よくよく見れば山の麓だった。あれだけいた鬼殺隊士候補はどこにもいなかった。俺と猪しかいない。しかも猪の首から下は人間の形をしていた。どういうことなの。まさか天国の住人はみんなこんな感じなの? なんて心配をしていたら、この世のものとも思えない猪は、ふん、と鼻を強く鳴らして、そのまま勢い良く山を降りて行ってしまった。こちらを見向きもしなかった。
 え。なんなの、と思う間もなく、今度は頭上から女の子が降ってきた。可愛い。いきなり木の上から飛び降りてきたのは驚かされたけれど、それを差し引いても可愛い。あまりに可愛かったから、俺は一瞬で猪のことを忘れた。寝起きの頭が見せた幻覚だったのかもしれない。だけど、その子から聞こえてくる音は吃驚するくらい静かだったから、声を掛けそびれた。ただ、腰に刀を差している様が見えてしまい、どうやら俺は最終選別で生き残ってしまったらしいぞ、という実感が遅れて湧いてくる。ふと思い至って、自分の腰を見た。失くしてしまっていないか心配になったが、じいちゃんから借りた刀はちゃんと自分の腰に収まっていた。夢では何度も抜いた覚えがある。しかし、現実に戻ってからはさっぱりだ。
 というか、生きて下山してしまったということは、俺は鬼を殺す為の隊士になってしまった訳だ。ということはだ、今生き残ったとしても近いうちに死ぬじゃん。悪夢かよ。俺は今目覚めたばかりですが。どうせ死ぬなら愉快な夢を見ながら死にたかった。いや決して望んで死にたかった訳じゃないけど、その方がマシってだけで。
 自己嫌悪と将来への憂いに勤しんでいると、後ろから怒号が聞こえた。なんだなんだ。刀がどうとか言っている。現れたのは男で、随分と人相の悪い奴だった。人相も酷いが覇気が凄い。それに微かにだけど、鬼にも似た音が聞こえる。興奮冷めやらぬって感じか。沢山倒してここに来たのかも。すごい。俺には出来ない。そもそもこの山から帰って来ているということは、ここにいる連中は皆少なからず鬼と対峙してきた筈だ。どんな幸運に恵まれたのかは知らないが、この七日間気絶していただけだった奴なんて俺くらいのものだろうし、そんな事実をありのままに伝えたら、悪感情を持たれたって不思議はない訳で。
 なんだか気まずいな、と手持ち無沙汰にしていたら、また一人やって来た。額に傷を負っている、同い年くらいの男だ。大分疲れている様子で、肩で息をしている。なんだか久し振りに人間らしい奴を見たぞ、とそいつを見て思う。
 そいつが最後の生き残りだったらしい。それから先は誰も来なかった。

 俺がここに居るのは何かの間違いで、ただずっと失神していただけなんです。と、今のうちに鬼殺隊の偉い人に打ち明けられれば良かったのだけれど、誰に伝えれば良いのか分からなかった。鬼殺隊の偉い人ってどんな人だろうか。じいちゃんは柱だって言ってたから、じいちゃんみたいに怖い人なのは違いない。だって鬼を斬るのが仕事だ。優しさなんか邪魔にしかならないじゃない。ならば俺には向いてない仕事だ。じいちゃんくらい強かったらまた別だろうけど、俺は弱いので。
 汚れた着物の裾を掴んでおたおたしていたら、程なく見覚えのある女の子が二人、どこからともなく現れた。七日前に講釈を垂れていたおかっぱの髪の双子だ。双子の一人が静かな笑顔で恭しくのたまった。
「おかえりなさいませ」
 その声を聞いて悟る。成程、俺にとって地獄というのは、現実を指していたらしいと。

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ピロートーク

 家の匂いというものを知らない。
 人にはそれぞれ匂いがある、と炭治郎は言った。同じ匂いの人は世に一人としていない。だけど、人の放つ感情の匂いというのは不思議と似通っているものだから、丁寧に辿るとその人が何を考えているかは分かる。そうして少し似ていて、だけどちょっとずつ違った人の匂いが集まると、それらは生活の匂いとなり、それらの差異を確認しあうことを、世間では人の営みと呼んでるのだと、炭治郎は幼い頃に理解したのだという。そして、その生活の匂いを更に突き詰めていくと、家の匂いになるのだそうだ。炭治郎曰く、それを吸い込むと、自分の居場所に帰りたくて堪らなくなるらしい。
 日頃は何かにつけて長男ぶった態度のお前も、たまには感傷的になることもあるんだな、と俺が茶化すと、炭治郎は照れくさそうな面で顎を触った。眉尻を困ったように下げた様は、少し愛嬌があるなと思った。
 人の匂いくらいは俺にも分かる。流石に相手が何を考えてるかまでは嗅ぎ分けられないが、人によって匂いが違うというのは理解出来る。それこそ女の子なんかは良い匂いするもんね。しかし、家に匂いがあるというのは全く分からない。
 だけど、その話をしている時に炭治郎がした瞬きの音は、とても寂しい気持ちの音だった。きっと、亡くした家族のことを思い出し、恋しくなったのだろう。良い家族だったんだな、と家族が居ない俺は思う。
「家の匂い、ね。俺にも分かる方法、なんかないかね」
「そうだなあ……」
 と、なんの気なしに尋ねた俺に、炭治郎は真剣に考え込むような素振りを見せた。俺としては、暗い話題を炭治郎から遠ざけることが出来ればなんでも良かったので、匂いの話それ自体への興味は薄かったのだが、律儀な炭治郎がどんな答えを用意してくれるのか、待ってやることにする。
「例えば布団なんかが分かりやすいな。幸せな家の布団は、良い匂いがする」
「ふうん」
 相槌を打ってはみたものの、あまりピンと来ない話だ。その理由は単純で、家族を亡くした炭治郎には帰る場所があったけれど、俺にはあったためしがないのだ。
 寝起きする布団はいつも違った匂いがして、どこで目が覚めてもそこは俺の居場所ではなかった。根無し草という言葉は俺のような奴の為にあるに違いない、と何人目かに傍に居させて貰った女の子に言われたこともある。鬼殺隊士になってからもその生活は変わらなくて、藤の家の人は見ず知らずの俺を温かく迎えてくれるけれど、それは俺が鬼狩りだからだ。その温情を受けることが出来るのも、俺が生まれるよりもずっと前、俺も知らないような鬼狩りがその家系の人を助けたからで、勿論それは俺の功績ではない。唯一、じいちゃんの元で剣を習った一年が、俺が帰る場所があった時期だったけど、藤襲山で生き残り、日輪刀を受け取ってからは、また根無し草に戻ってしまった。
 そんな取るに足らない身の上話を、俺がぽつぽつと伝えると、炭治郎は、
「じゃあ、今日から俺が善逸の帰る場所になれば良い」
 と、何故か俺の寝ていた布団に自分の布団を寄せてきたので、俺は呆けた顔になる。

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夢精

 寝ている間に寝間着を汚してしまった。
 どうして汚してしまったかと言うと、俺も年相応に健康的な十六の男だったから、としか言いようがないのだが、借り物の浴衣だったからそのままにしておく訳にもいかず、滞在していた藤の家で洗濯板とタライを借りて、夜明け前から一人でゴシゴシやっていた。着物を洗いたいから道具を貸して欲しい、と伝えると、親切な家の人はそのくらい手前どもでやりますよ、と言ってくれたけれど、流石にこれを家主の人に洗わせる訳にはいかない。いくら俺でもそのくらいの分別はつく。そもそも恥ずかしいし。
 冷たい水が手に染みる。けれど自業自得なので、誰に文句を言うことも出来ないのが虚しいね。
 石けんと仲良くし始めてしばらく経つと、足音が近付いてきた。この歩き方は聞き覚えがある。
「善逸」
 と、声を掛けてきたのは予想通りの相手だった。
「なんだ、炭治郎じゃん。任務帰り?」
「ああ。丁度さっき、鬼を切ってきたところだ」
「お疲れさん」
「善逸は何をしていたんだ? 洗濯か?」
「まあ、うん、そうね……」
 ぐっと顔を近付けて手元を覗き込んできた相手に、思わず口籠もる。よりにもよってどうしてこんな気まずい瞬間を狙って現れるんだろうね、この炭治郎は。
 別にやましいことがある訳じゃないし、野郎相手なんだから気を遣う必要もあまりない筈なんだけど、「珍しいな、善逸が家事を手伝うなんて」と、炭治郎の視線は感心したようなそれに変わってしまったので、更に居心地が悪くなった。そのまま隣に座られる。いや、別に見てても面白くないでしょ。お前も禰豆子ちゃんも疲れてるだろうし早く休んだら? とは一応言ってはみたのだが、「でも折角久しぶりに会えたんだし」と人懐っこい笑顔をもって返されたから何も言えなくなる。
 泡が混じった水を捨てて、新しい水をタライに張り、すすぐ。水を吸った浴衣は重かった。絞るのに苦心していたら、炭治郎も水切りを手伝ってくれた。手伝わなくても良いって言ったのに……お前の優しさが今は少し辛い。
「なんだか元気がないな、善逸」
 悩める俺の余所余所しい態度が伝わったのか、炭治郎の眉尻が下がった。そして、
「何か困っていることでもあるのか?」
 なんて、頼れる長男の顔をして続けた。確かに俺は元気がないかもしれない。だけど今俺が困っているのは他ならぬお前の所為だよ、とまでは流石に言わないが、心なしかしょげた同期の顔に罪悪感が持ち上がってくる。
 いっそはっきり打ち明けてしまって笑い話にしてしまった方が良いのかもしれない。炭治郎だって俺と同じくらいの年の男だ。いくら長男だからと言えど、粗相をすることくらいあるだろう。ある筈だ。……だけどどうだろう? 頭が固いこいつのことだ。そういう話をして、もし仮に、友達としてどうかと思う、なんて態度を取られたら、俺はもう悲しくなってしまう訳だよ。
「……炭治郎はさ」
「ん?」
「最近、夢とか見たりした?」
 結局迷った末に、やっと俺が訊けたのは、あまりにも遠回し過ぎる質問だった。洗い終わった寝間着の皺を伸ばしながら、さり気ない声を作って尋ねた。
「夢? いきなり何の話だ善逸」
「いや、なんとなく」
「そうなのか。夢。夢か……あ。そういえばついこの間、善逸の夢を見たぞ」
「お、俺? あ、ああ……そう……」

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(善逸が生まれる前から棲んでる鬼が弱い訳がないんだよな……)

 廃寺で時間を潰していた。そこは山の中に建てられた寺で、おそらくは俺が生まれるよりもずっと前には人が足繁く通っていたらしいのだけど、その山一帯が鬼の縄張りになって以来、境内へと続く道は獣道に成り果てた。ふもとの村で耳に入ってきた話をまとめるとそんな感じで、おかげでここまで登ってくるのに苦労した。
 しかもたった一人での山登りだったから、心細いことこの上なかった。目的地に着けば、現地で先輩隊士と合流出来るのではと期待したのだが、その期待は見事に裏切られた。なんでよ。また俺一人で任務なの? 上限の鬼の頚を、同期と一緒に切って以来、そういう機会は見事に増えた。いや待て待て。あれが出来たのは炭治郎と伊之助、あとは柱が強かったからであって、俺一人じゃなんにも出来ない訳よ。行きたくない行きたくない、と駄々をこねたが勿論聞き入れて貰えず、今日も伊之助に「うるせえぞ!」と一発ひっぱたかれて蝶屋敷を後にしてきた。上の人の采配を恨みたくもなったが、裏を返せば、俺みたいな下っ端剣士が一人でなんとか出来る程度の鬼だということなのかもしれない。そうだと思いたい。まさか一人で死んでくることが仕事ではあるまい。寺の廃墟っぷりがおどろおどろしくて、正直もう嫌になってますけどね。早く帰りたい。
 本堂の軒下をお借りして、日が沈むのを待つ。本当は鬼になんて会いたくない。なのでずっと夜が来なければ良いのにと祈っていたのだけれど、無情にも時間は過ぎていく。神も仏もないものか。廃寺だからいなくても仕方がないのかもしれない。でも俺はまだ死にたくないのに。
 まだ見ぬ鬼と対峙してしまった時の自分を想像してしまい、じわりと涙が込み上げてきた折に、頭の上でチュン、と雀が泣いた。一瞬、相棒が慰めてくれたのかと思って愛おしさが込み上げてきたのだが、どうやらそういうことではなかったらしく、俺の手の甲に優雅に舞い降りたチュン太郎はその小さな脚に手紙を括り付けていた。「お前、ちょっと薄情なところあるよな」と、こぼしながら手紙を受け取ると、手首をくちばしで突かれた。痛い。俺はこれから怖い鬼を退治しにいかなきゃなんないのに、酷い。少しは優しくして欲しい。
 手紙は蝶屋敷の女の子達からで、手紙が来たこと自体は嬉しかったのだけれど、残念ながら吉報にはならなかった。
 件の上限の鬼の頚を切って、四人で生きてる喜びを噛み締めた後、一度眠った炭治郎がそれから目を覚まさなくなった。一応同期なので、意識が戻ったら連絡して欲しいと伝えてあるのだが、良い知らせはまだ届いていない。
 このまま起きなかったらどうするんだよ。もしもそんなことになったら、生きていることを四人で喜びあったあれはなんだったんだよ。なんて、怪我人を詰れる程、俺は鬼ではないつもりだが、本人の居ないところで泣き言くらいは言いたくなる。俺は弱いし、強くない。一人で任務なんて絶対に無理。前回はたまたま上手くいっただけで、今回こそは死ぬかもしれない。でも死にたくないので、出来れば炭治郎についてきて欲しかった。最悪ついてきて貰えなくても良くって、伊之助同様「仕方がないな」と背を叩いて貰えれば、それで。たとえその場に居なくとも、明るく照らしてくれる奴が欲しいんだよ。
 だけど世の理ってやつは冷たくて、神様も仏様もいなくって、見上げた空は曇天だ。今にも雨が降り出しそう。これは鬼を探すのに苦労することになるぞ、と俺は重くため息を吐く。

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振られた話

 急に思い出したんだけどさあ、と善逸が切り出したのは、鬼狩りからの帰り道でのことだった。そこは藤の家に向かう途中で初めて立ち寄った街だったのだが、甘味処から漂う饅頭をふかす匂いや煎餅を焼く音に釣られ、二人で団子を買って店先で頬張っていた。
「昔、女の子に『ちょっと目を瞑ってて』って言われたことがあって。俺はその子のことが好きだったから、まあ期待しながら目を閉じてた訳よ。それで次に目を開けた時にはその子、もう居ないのね」
「それは少し寂しい話だが……でも、善逸は一体何を期待していたんだ?」
「そこ突っ込むところ?」
 男だったら分かるでしょうよ、とじとりと睨まれてしまったが、分からないものは分からない。俺はあまり察しが良い方ではないので、ぼやかすくらいならはっきりと教えて欲しい。しかし、結局教えては貰えず、
「でも俺、耳が良いから分かっちゃうだよな。あー……俺の前から消えるな、この子って。一応、相手の女の子も相手なりにすげえ気を遣って足音立てないようにしながら遠ざかっていくんだけど、それも気付いちゃう訳。泣いて縋って待ってとか、言ってたらまた違ったのかなとか思うんだけどさあ」
 と、どこか投げやりな態度でぼやいて、善逸は串の真ん中から団子を頬張った。
 泣いて縋って待ってと言う。それは実際にやってたことじゃないのか? と、かつて通り掛かりの女性に求婚していた姿を思い出し、そして先刻は鬼を前にして全く同じことを言っていた姿を思い出し、疑問を感じなくもなかったが、嘘を吐いている素振りもなかったので訊くのはやめた。
 俺に分かるのは話の真偽だけだ。推し量るのが難しい感情の機微も、匂いが教えてくれる。そして、俺の知る限りこの友人は一度も嘘を吐いたことがない。
 善逸はいつだって本気だった。本気で女の子に求婚しているし、本気で鬼を怖がっている。甘味を食べている時は心の底から嬉しそうな顔をする。好物である筈のみたらし団子を手にしながら今みたいな顔をしているのは、とても珍しいことだ。なので、どうしてそんな寂しい話を俺に打ち明けたのかは、やはり察することは出来なかったのだけど、なにかしら善逸の中で正直な気持ちが膨れた結果なのだと思うことにした。
 だから、深々とため息を吐いてる友人は、本気で落ち込んでいるのだろう。そんな結論に辿り着くと、いきなり胸がきりきりと痛くなってきた。
「ハア……どこかに俺のこと好いてくれる人、居ないかなあ」
「善逸」
「ん? なに?」
「俺は善逸のことが好きだからな」
「? よく分からんけど、そりゃどうも」
 俺の言葉を受けてしばらくは不思議そうな顔をしていたが、「……あ。もしかして慰めのつもり?」と、やじりながら、善逸は最後まで残していた団子を口に入れた。

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