でも美術室に呼び出されると行く

02

「宇髄センセには、彼女が三人いるって本当ですか」
 放課後の美術室にわざわざ赴いてやったのだ。このぐらいの報復は許されるだろう、と切り出した俺の質問は、予想以上に宇髄先生の弱点にクリティカルヒットしたらしかった。期末考査の採点をしていた先生の手から赤ペンがぽろり、と落ちるのを見て、珍しいこともあるもんだと俺は目を見開く。
 まあ確かにな、場に相応しくないことを訊いたかもしれない。「生徒の前で試験の丸ツケなんかして良いんですか?」と訊いたところ、「良いんだよ、どうせ美術のペーパーテストなんて地味なんだから」と、圧倒的作品成果主義の宇髄先生が仰ったので、俺は渋々同じ部屋で未提出課題に取り込んでいたところだった。そんな折に訊く質問ではなかったかもしれない。だけど、こっちの方まで転がってきた赤ペンを拾って差し上げる気にはなれなかった。
 椅子から立ち上がった宇髄先生は俺の足元にしゃがみ込み、まるで落とし物を拾うついでのように訊く。
「……誰から聞いた?」
「俺のカマ掛け」
「単なるカマ掛けにしちゃあ具体的過ぎるだろ。本当は誰から聞いた」
「……食堂の須磨さんとまきをさんが話してるのが聞こえた」
 放課後だったし、調理室の奥で話してたから、多分俺以外には聞こえてないと思うけど。誰を庇う訳でもなくそう注釈すると、「あいつらか……」と、宇髄先生は苦々しくため息を吐いた――のはただのパフォーマンスのようで、実際には表情筋を少し緩ませていた。要は幸せそうな顔ってやつに近い。報復出来たと思ったのは俺の勘違いだったようだ。なんだか腹立たしい。クソ、羨ましいな。なんで宇髄先生みたいなのに彼女がいるのに、どうして俺にはいないんだ。世の中狂ってるよ。宇髄先生の新作油彩画のパースの如く。
「彼女って程可愛らしいもんじゃねえよ」
「じゃあなんだよ。あんな美女三人も捕まえておいて」
「嫁だ、嫁。実は俺、所帯持ちだったんだよ」
「は? ガキ相手だからって分かりやすい嘘吐かないで貰えます?」
「嘘じゃねえよ。俺の左手見てみろ。嫁が三人いるから、結婚指輪も三つしてるし」
「いやそれはアンタの趣味だろ。指輪だけで結婚してるって言い張れるなら、俺だって明日から指輪の十や二十は嵌めてくるわ」
「お前、俺の授業だけじゃなく算数まで出来なかったのか? 自分の手指の本数ちゃんと数えてみろよ」
「いや、ものの例えですけど」
 なんで自分は冗談言う癖に、人のジョークには乗れない訳? と、分かりやすく面白くない気持ちになったが、だけど俺も馬鹿ではないので、多分こういうところが女性にとっては「面白い」ポイントなんだろうなというのは察せられる。畜生が。ちゃっかりと、「そうだ我妻。俺に嫁が三人いることは他の奴らには内緒だからな」なんて調子良く口封じしてくるところもムカつく。公になって社会的に滅びれば良いのに。俺がもっと真面目な風紀委員だったら、今頃アンタは大変なことになってるんだからな。ただ、食堂や売店に行く度に、須磨さんやまきをさんや雛鶴さんが俺の目を見て「いつもありがとう」って言ってくれるから、俺から滅ぼす気がないってだけでね、お前はその嫁とやらに救われているだけなんだからな。ああ妬ましい。俺だってそんな存在が欲しいわ。
「……どうしたら彼女って出来るんですか」
「まずその質問がえらく格好悪いって自覚はあるか?」
「んなことアンタに言われなくともこちとら分かってんだよ!」
 あんまりな物言いだったのでうっかり噛み付いてしまった。「そんな残酷な質問、教師がして良いと思ってる訳?」と憎まれ口を叩けば、「まず女にモテたいって相談を教師にする方が間違ってんだよ」と、来る。悔しいが正論っぽいな。恨めしさの純度百パーセントの視線で睨んでやると、宇髄先生は鬱陶しがるように掌を振った。そのまま手が俺の頭に乗せられ、そのままじっと見つめられる。なんのつもりだよ。確かにアンタからすれば俺はモテないし、課題を溜め込んでる不出来な生徒だけれど、かといってアンタの肘置きにして良い訳ではないんですが。
「なあ我妻、お前は自分がモテる程、価値のある人間だと思うか?」
「ぐ……」
 そのイケメン面で真面目な表情を作って一体何を訊くのかと思えば。それだって分かってんだよ。そりゃあアンタ程魅力ある人間でもねえしな、俺。テメエの弱みを握ったところで、強請れるような頭も度胸もねえよ。だけど悔しくない訳ではないので、何か言い返したい。しかし何も出てこない。自分の喉は悔しそうな音を立てただけで、なんにも言い返しちゃくれなかった。黙ったままでいると、乗せられたデカい手が俺の頭をくしゃりと掴む。なんですか。哀れみの一種ですか。
「少なくともよ、お前の価値にお前が気付かない限りはそのままだろうよ」

 

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でも美術室に呼び出されると行く

01

「さっさと課題出せや、我妻善逸」
 我が校の美術教科担当の宇髄天元先生が何か仰ったようだが、残念なことに俺の耳にはノイズキャンセリング機能が備わっているので、その発言は俺の中ではなかったことになった。なかったことにしたつもりだったが、少なくともそのご指導とやらは、絵筆に油絵の具を纏わせてキャンバスと仲良くしながら言うことではないだろ。どんな良い美大を出てんのかは知らんけど、自室ならともかく学校の美術室でやることですかね、それ。なんて、胸の中で悪態がつけてしまえたので、完全無視はし損ねているようだ。俺も甘い。
 まあでも、ここで俺が黙ったままでいれば、聞かなかったも同然だ。だから、美術室の備品の背もたれがない椅子に腰掛けて、たっぷり五分は口を閉ざしていたのだが、宇髄先生が自身で描いたド派手で極彩色の世界との睨めっこを終えたところで、「聞いてんのか?」と返事を促された。右手に握られていた筆がオイルクリーナーに突っ込まれて、じゃばじゃばと音を立てる。油の匂いに鼻の奥を焼かれたような気がした。不快感に顔を顰める。
「なんでテメェに配ったケント紙だけ綺麗に真っ白なんだよ。せめてへのへのもへじのひとつくらい描いとけよ。お前、俺の課題だけは一度も提出したことねえだろ。お前の通信簿に1を付けることは簡単だがな、ちったぁやる気がある振りくらいしろ。形だけでもやる気はありましたけど出来ませんって体の方が、こっちとしてはもう少し掛けてやれる温情も――」
 と、俺の方を振り返ったところで、宇髄先生は口を噤んだ。アンタに掛けて貰う温情なんて望んでませんが? という俺の冷たい視線を浴びて、感じるところがあったのだろう。
「……ま、お前の成績が下がることはお前の問題だからどうでも良い。だけどな、あまりにも素行不良な教え子がいると、教師側も指導不足ってことで俺の給料が下がる。そんなん、誰も幸せにならねえだろ」
 テンションと言葉をやんわりと切り替えて、そんなことを言う宇髄先生を教師と思えなんてやはり無茶があるのではないか。誰に同意を求めるでもなく心の中だけで一人ごちて、これ見よがしにはあ、とため息を吐く。
 画材を片付け終えた宇髄先生は、ボトルからガムを取り出して口に入れた。よくこんな油臭い部屋でものなんか食えますね、と思ったが、口に出す義理はないので出さない。「お前も食うか?」と差し出されたボトルガムも勿論固辞した。
「……この天元様がここまで目を掛けてやってるのに、良い態度だな、お前」
「俺、イケメンとは腹を割って話せない呪いにかかってるんで」
 すると、それまで涼しく喋っていた先生が真顔になり、その女子生徒にもてはやされそうな顔に「クソガキ」と罵る四文字がチラついた気がしたので、ほんの少しだけ俺の心はスッとした。

 

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塩漬けにした牛肉の缶詰について

 備え付けの鍵を剥がして、缶の表面から少しはみ出していたでっぱりに差し込む。そのままくるくる外周に沿って回していけば、ぴりり、と亀裂が入っていく。鍵に巻き付く金属の細い帯は、上手に剥けた果物の皮のようにも見えた。
 掌に収まる台形の缶詰を「教えろ」と差し出してきたのは伊之助で、一体何を知りたいのかと思えば、コンビーフの缶を開けて欲しいのだという。生まれて初めてその存在を知った。開けてそのまま肉が食える。美味いらしい。他所では食えない味だと聞いた。しかも肉なのに腐らない。こいつはやべえ。一緒に暮らす婆の家から発掘してきたというその缶詰は、賞味期限が丁度一年後の今日だった。コンビーフは三年くらいなら余裕で保存が効くということは、昨日の夜に流し見していたネットニュースのおかげで俺も知っていた。ということは、少なくともこいつは二年間眠っていたことになる。全く、ひささんも拾った猪を無駄にときめかすのがお上手なことで。
「……二年前の今日、何してたっけなあ」
 缶の蓋を剥きながら、誰に聞かせるでもなく呟いてみる。上蓋を取り除くと中から赤い肉が顔を覗かせた。「おお!」と、伊之助から感嘆の声が上がる。非常識的なこいつの数少ない良いところのひとつに、相手に見せるリアクションがとても素直だ、というのはあると思う。
 ある年まで雌の猪に育てられたという伊之助は、酷く世間知らずなところはあれど、人間の常識と呼ぶべき何もかもが出来ないという訳では決してない。むしろ逆で、伊之助は一人で出来ることは、何もかも一人きりですることを好む男だった。なのに、どういう風の吹き回しなのか、暇を見つけてはよく俺を頼ってくる。今日日コンビーフの缶の開け方が常識と呼べるのかどうかは知らんが。でもまあ、今の常識だって、遠いいつかには非常識になるのだから、さほど問題にはならんだろう。伊之助は伊之助の中の非常識にぶつかる度、「紋逸!」と、覚える気が全く無さそうな声音で俺の名前を呼んだ。同じ学年で同じクラスなのだから、俺ではなく炭治郎の方を頼れば良いのに、と思いながら相手をするのが常となっている。しかし、炭治郎は炭治郎でどうしたって世話焼きなところがあるから、なるだけ親分として立っていたい伊之助的に見れば、分からない境地ではない。俺の適当さ加減が、伊之助の中では丁度良いらしかった。
「ほらよ」
 もう食べるだけになった缶の中身を差し出すと、伊之助はすぐさま肉の塊にかぶり付いた。脂肪と赤身が混じり合った加工肉が、口の中でもちゃもちゃと咀嚼されていく。二年前、缶に詰められる時も同じ色をしてたのかな、この塩漬けの牛の肉は。
「しょっぱいな」
 一口二口、それから三口目で剥いた肉をあらかた腹に収めてしまった伊之助は、そんな風に今更感が残る感想を述べた。開けてやったんだから俺にもちょっとは頂戴よ、と器に残っていた肉を指ですくって舐めてみる。なんだか懐かしい味がした。そういえば、兄貴が晩飯のおかずを作る時、時たま野菜と一緒にフライパンに入れていたなと思い出す。キャベツとピーマンの緑ばかりが目立つ野菜炒めの中で、熱されて少し色が抜けた赤を見た記憶がある。すぐに思い出せたから最近の出来事だと思っていたけれど、よくよく考えてみればそれももう二年前の記憶だ。少なくとも俺は二年前と同じではいられなかった。
「うん。しょっぱい」
 相手と同じ感想を選びながら、手に残された金属の棒に巻き付けられた薄いリボンを広げてみる。深い緑と白の印刷は切り口で擦れて、裏地の金色は脂で汚れていた。それらを全て取り除くと、銀の鍵だけが残った。蛍光灯の白に照らされて、輪郭をぴかぴかに光らせている。
「それ、よこせ」
「? なんで?」
「気になる」
 言われるがまま差し出すと、伊之助は責務を全うした巻き取り鍵を、なんだか大事そうにスラックスのポケットにしまった。そこに入れられたら最後、持ち主もしくは同居人が制服をクリーニングに出すまで忘れ去られる運命にあるのだろう。そう考えると些か嘆かわしい。しかし、伊之助の表情だけは、道端で本人にしか価値が分からない宝物を見つけた小学生のようなそれだったので、咎める気にはなれなかった。

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気象病

「頭が痛ぇからもうじき雨が降るぞ」
 そんなことを伊之助が言ったので、俺は少し呆けてしまった。というのも、並べられた「頭が痛い」と「雨が降る」の二つに因果はないと思っていたからだ。その時の俺の心中は、こいつは何を言っているんだろう、という疑問が九割、だけど理由もなしにふざけたことを言うような奴じゃないよな、という経験則が一割を占めていて、結果特に何も返さずにその場は流した。だけど不思議なもので、それから半刻もしないうちに天から細い雨粒がぱらぱらと降りてきたので、伊之助の言った通りになった。どうして分かったんだよ、と訊いてみたい好奇心はあったけれど、猪頭に手を当てて不機嫌そうに空を睨んでいる伊之助を前にすると、声を掛けるのはなんだかはばかられたので、謎のままになった。
 それから度々伊之助は空模様を当てた。山で育ったこいつのことだし、野生動物特有の勘のようなものでも働いているのかと思えば、どうも違うようだ。こいつは持ち前の肌感覚の鋭さと経験則でものを言っているらしいぞと気が付いたのは、何度か任務を共にしてからだった。俺の耳の良さと同じような類だろうか。
 一緒に鬼を狩りに行く途中、にわか雨に遭った時の伊之助は大抵機嫌が悪そうにしていたけれど、かといって濡れることを疎ましく思っている訳ではないらしく、どんなに雨脚が激しくとも目的地を目指すことはやめない。もう少し雨宿りしてから行こうぜ、と愚図るのはいつも俺の方で、だけど俺の忠告なんてあいつに届く筈もなく、伊之助は返事を待たずにさっさと軒下から飛び出して行く。え、いやちょっと待ってよ。この土砂降りの中を傘も差さずにとか、正気か? 俺は慌てて広げた羽織を頭から被り、走る背中を追い掛ける。いつもこうだよ。自己中心的というか、自分の常識が他人にとっても常識である筈だと疑わないというか。だから俺、あいつとの任務はちょっと嫌なんだよな。

 実のところ、俺も雨はあまり得意ではない。特に晴れの日が長く続いた後の雨の日なんかは、耳が上手く慣れてくれない。
 伊之助と一緒に鬼を斬った翌日。その日も屋根を叩く雨粒の音を夜通し聞きながら寝た所為か、目覚めてからもしばらく頭の奥が重かった。今朝は鴉も雀も鳴かなかったのが幸いだったけれど。
 ふと隣を見れば、先に目覚めていたらしい伊之助も、布団の上でぼんやりとしていた。こいつが身動きひとつせず、じっとしているのも珍しい。昨日鬼の前で見せた威勢の良さはどこにも残っていない。
「おはよ、伊之助」
「…………」
「何してんの?」
「…………」
「伊之助?」
 返事らしい返事はなかった。被り物の下で何かもごもごと口を動かした気配はあったけれど、固まったまま動かない。大丈夫なのかな。もしや腹でも空いてるの?
「……なんだかぴりぴりするし、寒い」
 呟くようにそう言って、伊之助は布団の上に大の字になった。それだけでも普段の伊之助の態度からは考えられない奇行だったのだが、あろうことかそのままごろりと横に寝返りを打って、俺の布団の方に寄ってくる。
「なんだよ」
「……頭が痛ぇ」
 低く唸るようにそう言って、また口を噤む。相変わらず気まぐれだし、あまり言葉を尽くさない男だな、と俺の眉間には皺が寄った。一体何がしたいのか、全く読めない。
 まあ、しかし、だ。伊之助が素直に弱音を吐いたこと自体は珍しかったし、それは多分、今この場所に炭治郎が居ないからというのが理由のひとつにあるのではないか。それを俺は、時たま訪れる二人きりで任務に赴く機会の中で感じていた。気付かない方が良かったのかもしれないが、気付いてしまったので、変にかどわかされてしまった。普段は俺の言うことなんざこれっぽっちも気に留めない猪なのに、稀に二人きりになると、おもむろに腹を見せてくる。その気付きは、なんだか俺を不思議な気持ちにさせたのだ。
 何かを諦めるような心持ちで、俺は掛布団を持ち上げ、相手を招き入れる姿勢を作った。その対応は正解だったのか、伊之助は寝巻を引き摺りながら、素直に俺の布団の中に潜り込んで来る。着ていた浴衣は帯が解けていた所為で、ただ肩に羽織るだけになっていた。見てるだけでも寒そうななりだ。もしや雨に打たれて風邪でも引いたのかな、と相手の首元を触ってみたのだが、布の下の肌は妙に冷えていた。それだけじゃ分かんねえしな、と続けて被り物の猪を脱がせる。抵抗されるかと思いきや存外大人しく脱がされて、久し振りに見た素顔には重そうな瞼があった。ぱっちりしている筈の目は伏せがちだったので、長い睫毛に遮られてしまい瞳の色がよく見えない。
「やっぱり風邪引いたんじゃねえの? 白湯でも沸かして貰おうか」
「いらねえ」
 俺は強いから風邪なんか引かねえ、と伊之助はまた唸った。子供みたいな言い草に呆れたが、確かに体温は平熱だったし、喉を少し覗いてみても赤くはなかった。だけど、俺の太腿辺りに蹲って額をくっつけることをやめなかったし、丸くなったまま動かない。なので、俺はすっかり困ってしまった。
 聞こえよがしにため息を吐く。そうでもしないとこの猪は俺の心の機微が分からないだろうと踏んだのだ。
「お前さあ、何がしたいの? ちゃんと言わないと分かんないよ?」
「……別に何も」
「あっそ」
 睫毛と同じ色をした柔らかい髪に指を差し込むと、伊之助は喉を鳴らした。これでは猪ではなく猫のようだなと思ったが、響いた声は気持ち良さそうなそれではなく、嫌がってる時の音だ。神経を静かに削られているかのような音が、外の雨音の中に混じっている。
「……伊之助は、雨が嫌い?」
「天気に好きとか嫌いとかねえよ」
 触る場所を髪の生え際から耳に移す。薄くて形の良い耳はひんやりと冷たかった。また嫌がられるかと思ったが、案の定。いきなり鳩尾に頭突きを食らわされた。ぐえ、と潰された蛙のような声が自分の喉奥で鳴る。いやね、ちょっかいかけたのはこっちだけどさ、いきなり頭突きとかないでしょ!? と、俺が文句を言うより先に、伊之助の両腕が俺の腰に回った。浴衣越しに伝わってくる体温がぬくくて、ちょっとだけ気持ちが丸くなってしまう。
「俺がこうしてんのは俺の勝手だろ。別に、細やかな気遣いが欲しい訳じゃねえし」
 と、伊之助はやっぱり不機嫌そうな声で、俺の腹に向かって喋った。しかし成程。このしおらしい態度を炭治郎の前で見せなかった理由はその辺りにありそうだな、なんて邪推が働く。細やかな気遣い。それこそあいつが得意そうなものだ。
「お前、結構炭治郎のこと好きだよな」
「……なんで権八郎の話が出てくるんだよ」

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うっかり血鬼術をくらってしまった結果、俺の尻から尻尾が生えた

 任務に向かった記憶はある。確か一人で鬼を待っていた。現場に到着したのは昼だったので、鬼が出るまで、つまりは日が落ちるまで待っていた訳だが、あまりにも暇だったからちょっとぼんやりしてしまった。気付いた時には夜空に月が浮かんでいて、鬼の頚が目の前に落ちていて、俺は血塗れになっていた。えっなんで? ああ、これはもしや知らない間に腹でも切られて死にゆく途中なのではないかと慌てたが、身体はどこも痛んでいなかったし、浴びた血は全て目の前に転がっている鬼の返り血のようだった。一体どういう状況なのかと問い質したい気持ちはあったけど、鬼はこと切れてから時間が経っているのか、もう殆どが塵になっていたので諦めた。
 なんだか腑に落ちないが、チュン太郎は満足そうに鳴いているので、任務はこれでおしまいの筈だ。隊服が随分血で汚れてしまったが、命が無事なら安いものだと、よそに避けていた羽織を着込む。帰る道中から、なんだか背骨の辺りがむずむずするな、という感覚はあったけれど、さして気にしていなかった。
 仰天したのは蝶屋敷に着いて、風呂に入ろうと隊服を脱いで、自分の尻から何か長いものがにょろりと生えているのを発見してからだった。その時は風呂場から廊下、どころか屋敷全体に俺の悲鳴が響き渡った。と、俺の絶叫を耳にしてその場に駆け付けてきた炭治郎から聞いた。

 うっかり血鬼術をくらってしまった結果、俺の尻から尻尾が生えた。
 いや嘘でしょ? 嘘だよね? 誰か嘘だと言っておくれ。ひんひん泣きながら、自分の尻の割れ目の上らへんをおっかなびっくり触ってみるのだが、自分のものとは思えない尻尾が、自分の尾てい骨から伸びている。何これ現実? こんなもの俺は知らない。どんな種類の悪夢なのこれは。
「綺麗に背骨が延長しているようです。まさに尻尾としか言いようがありませんね」
 と、しのぶさんは俺の首の後ろから背中、そして裏腿までを検めて、そんな診断結果を下した。しのぶさんとお知り合いになって以来、身体の負傷で困った時にはしのぶさんの元へ駆け込むのが常となっているけれど、今回ばかりは病気や怪我とは事情が違ったので、なんだか罪悪感が湧いてくる。訳の分からないものを調べさせてしまってすみません。俺も好きで女性に尻を見せている訳じゃないんです。
 俺の言い訳がましい言い訳は結局伝えられなかったが、しのぶさんは構うことなく、俺から伸びている尻尾を綺麗な指で静かになぞった。女の人に身体をまじまじ見られるのは初めてだったので、なんだか恥ずかしくなってくる。これが血鬼術で生えた得体の知れない尻尾じゃなければな……。
「ひとまず薬は打っておきますので、あとは十分日光に当たって療養すれば消えるでしょう」
「本当に?」
「ええ。本当に」
 しのぶさんがにこやかに笑う。この人がにこやかに笑ったところ以外を見たことがないけれど、ただその言葉は俺を安心させるのには十分だった。
「薬ってなんの薬ですか?」
「解毒剤です。善逸くんが血を浴びてから発症したことから、今回の血鬼術は毒の一種と考えられます。なので、那田蜘蛛山で処方したものと同じ種類のものを出しておきますね」
 言いながら、診察台にうつ伏せに寝ていた俺の腰に、しのぶさんは注射針を刺した。ちくん、と小さな痛みが背を走り、反射的に目に涙が滲む。でもまあ、あれだ。蜘蛛になりかけて手足が短くなったことだってあるんだもの、尻尾だって生える時には生えるのかもしれない。人ならざるものになりかける機会が多くて、心がめげそう。というか、またあの苦い薬を飲む羽目になるのか。最悪だ。
 一気に悲しい気持ちになったが、でも尻を見せながら散々泣いた後だったから、しのぶさんにこれ以上の醜態を晒すのはみっともない。尻尾を生やした絵面が間抜けであることは流石の俺でも分かっていたので、遅れてやってきた羞恥心と戦っていたら。
「善逸君、そうしょんぼりしないでください。きっと、すぐによくなりますから」
「え」
 随分と優しい声が飛んできた。しのぶさんは負傷した隊士には女神のように優しいが、あからさまな慰めの声を発する人ではなかった筈だ。というより、どうして俺がしょげていると分かったんだろう。泣いて喚いた後ではあったが、俺にしては頑張っていた方で、見栄や羞恥心を抱えていたこともあって、目に涙を溜めていた訳でもなかったのに。
「どうしてって、それは――」
 言いかけて、しのぶさんはくすりと笑い、俺の後ろを覗き見るような動作をした。目線の先では、俺にくっついている尻尾が俺の心情を代弁するかのように、しょんぼりと股座に潜り込んでいた。

 正直過ぎる尻尾の所為で余計な恥をかいた。数時間付き合ってみて分かったが、生えた尻尾は俺の機嫌を的確に表現してくれるらしい。いやしなくていいよ、困るよ。俺ってただでさえ嘘が吐けない人間なのに。俺が喜べば尻尾は千切れんばかりにぱたぱたと揺れたし、悲しめばしゅんと垂れ下がる。まるで犬や猫にでもなった気分だった。
 そんな訳で心は重症だったが、袴を穿く時に邪魔という一点を除き、身体に異常はなかったので、俺はまた任務に駆り出されることになった。辛い。実際に生やしてみないと分からない話なので、誰一人として共感を得られなかったが、これを日の元に晒して街を歩くのは、中々キツいものがあるんだぞ。日光に当てなければ短くなってくれないというので、我慢してはいるけれど。
「大丈夫だ、善逸。初めて見た時は驚いたが、見慣れると愛嬌があって中々可愛いと思う」
 というのは今回一緒の任務になった炭治郎の論だったが、それはなんの慰めにもなってないからな。同じことをお前、禰豆子ちゃんにも言えるのか? 言ったら俺が怒りますがね。
 頭が固めな同期の所為で俺の心は中々晴れないままだったが、でも炭治郎は優秀な隊士だ。俺の代わりに鬼を斬ってくれたので、今日の任務も無事に終えることが出来た。良かった良かったと胸を撫で下ろすと、俺の背後では尻尾がぶんぶんと左右に振れて喜びの意を表明している。やめてくれ。なんだか恥ずかしかったのでもう服の中に隠してしまおうとしたのだが、尻尾は俺の手が届く寸でのところでするりと逃げてしまう。自分の背を追ってぐるぐる回っていたら、炭治郎が痛々しいものを見るような目でこちらを見ていた。やめろ、そんな顔をするんじゃないよ。
「その尻尾は、善逸の意思で動かせはしないのか?」
「うーん、出来るような出来ないような……」
 動かせることには動かせるけれど、手足程細かく動かせる訳じゃない。とはいえ自分の一部ではあるので、全く出来ない訳じゃないけれど。肺を膨らませようとするとか、腹筋に力を入れるとか、そういう感覚に近い。意識したら自由に出来るのかもしれないが、試してみる気は起きなかった。

 そうこうしているうちに、藤の花の家に着いた。用意された部屋に布団を敷いて早々、炭治郎が俺に組み付いてきた。珍しいこともあるものだ。そういえば、二人きりで任務に出たのは随分と久し振りだったな、と思い出す。らしくなく性急な行いに、少し照れる気持ちもなくはなかったが、決して嫌な気分ではなかったので拒まなかった。そこで察して欲しいのに、炭治郎といえば真剣な眼差しで、俺の背中を覗き込むようにして尻尾の様子を窺ってくるものだから、やりにくくって仕方がない。はいはいどうぞ、と顔では余裕ぶったとしても、尻尾は素直に俺の期待と興奮を相手に伝えている。自分のことながら憎い。
 ぎゅう、と抱き締められると身体の熱が伝わった。寝巻越しにも分かる体温の高さに、俺は動揺する。
「え、ちょっと炭治郎。お前熱があるんじゃないの?」
 と、相手の肩を押し返すようにして、背中に回されていた腕を引き剥がしながら俺が問うと、炭治郎は困ったように眉を下げた。図星だったらしい。
「風邪でも引いたの?」
「そういう訳じゃないんだが」
「じゃあ何」
「……もうずっと下がらないから平気だ」
「そんなん全然平気じゃないでしょ。めちゃくちゃ熱いよ」
「むしろ熱い方が調子が良いんだ」
「いやそれ大丈夫なの? 駄目じゃない?」
 なんて、ちょっとだけ、いやかなり頭が固いところがあるこの男と押し問答を繰り返し、結果元の体勢に戻されてしまった。布団の上に組み敷かれている。いやいやなんでよ。こんなことして大丈夫なのか、お前は。恥ずかしくないのか。ちなみに俺はとっても恥ずかしいよ。
 さっきのやりとりの間にすったもんだがあった所為で、着ていた浴衣が崩れてしまった。直そうにも、炭治郎が腕ごと俺を抱きすくめているので直せない。そして、それ以上の文句は聞きたくなかったのか、炭治郎は俺の口をぺろりと舐めた。不意を突かれた所為で、俺の口からはんぶ、と変な声が出てしまった。眉間に皺を寄せて意思表示を図ってみるが、俺の尻尾は俺の意に沿わず、炭治郎の内腿をぺしぺしと叩いている。炭治郎のことが心配なのは俺の本心の筈なのに、まるで自分からねだっているかのように相手に絡む尾の動きが、とてもあさましく思えてしまう。
「あ、だめだって、たんじろ。それ、さわっちゃ……」
 駄目、の一言に一度は手を引っ込めた炭治郎だったが、俺が強くは拒絶しないことを確認した後、再び尾てい骨に手を伸ばしてきた。馬鹿正直な奴だ。だから余計に照れくさいのだが。炭治郎の指が俺の尻尾の根元に触れる。すると、神経を直に弄くられたかのように、ぞわぞわとした快感が背を走った。食いしばった歯の隙間からふう、と息が漏れる。やっぱり恥ずかしい。しのぶさんに尻を見せた時とはまた違う種類の羞恥がある。
「本当に、犬や猫のようだ」
 いつもより低い声で囁かれた炭治郎の声は、心から感嘆していることを俺に伝えてきたが、本当にやめて欲しい。畜生と一緒にすんなよ、と俺が文句を言うより先に、炭次郎が付け根を強く引っ掻いたので、文句を言うのが遅れた。ひっ、と悲鳴とも嬌声ともつかない声が出てしまった。慌てて両手で顔を覆う。
「すまない、痛かっただろうか」
「……お前ね」
 気になる気持ちは分かるけど、そう興味本位で触るもんじゃないよ。と、今度の文句はしっかり口から押し出せた。抗議の意味を込めて相手の顔をじっと見ていたら、炭治郎はいきなり険しい表情になった。なんだなんだ。炭治郎からおかしな音がする。何かを我慢している時の音に近いけど、微妙に違う気もする。心音が妙に早いし、大きい。やはり熱があるからじゃないだろうか。

 それから一週間が経ったが、尻尾は消えなかった。任務の無い日中はなるべく日に当たるようにしているのに、中々短くなってくれない。途中で近くに寄ったからと、村田さんが見舞いに来て、そして存分に腹を抱えて帰って行った。やめてくれ。見世物じゃないよ。
「善逸君がどうしても困るというのなら、いっそ切除してしまうという手もありますよ。知り合いに、良いお医者さんがいるんです」
 これは薬を煎じながら笑顔で提案されたしのぶさんのお言葉だが、そんな怖いこと出来る訳がなかった。切除ってことはあれでしょ。無理矢理に切るってことでしょ。痛いよね? 痛いに決まっている。軽く想像してみただけで、恐怖で尻穴がきゅっと縮こまってしまう。
 屋敷の縁側で苦い薬湯を舐めながら、膝を丸めてすんすん泣いていると「日向ぼっこですか?」と女の子達にからかわれる。やっぱり彼女らにも猫か何かかと思われているのかもしれない。放っておいたらこのまま耳まで生えてきて、本当に畜生になってしまうのではないか。そしたらどうやって生きていけばいいんだ。今のうちに伊之助から山で生きる方法を教えて貰おうか。流石にそれは早計か。つーか普通に嫌だよ。
 そんなことを考える度に、尻尾はしょんぼりと丸まった。すると、どこからともなく炭治郎がやって来て、慰めの言葉らしきものを並べながら、俺の髪の間に指を差し入れる。それだけで、俺の尻尾は心の底から嬉しそうにぱたぱたと揺れてしまうので、炭治郎は満足気な顔をさせてしまうのだった。優しさが辛い。だけどその優しさだけが俺の命綱なので、もし完全に畜生に成り果ててしまったら、いっそ炭治郎に世話を頼んでみようか。そんなことを考えていたら、炭治郎の手が伸びてきて俺の首元に伸びてきて、顎をくすぐった。
「さてはお前楽しんでるな」
 恨みがましく睨んでみせると、炭治郎は気恥ずかしそうに頭を掻いた。悪気がないのが厄介なんだよな。
「そういえば、お前、熱は?」
「…………大丈夫だ」
「だったらこっち見て言ってみろよ」
 あからさまな所作で顔を背けた炭次郎は大方、件の嘘が吐けない表情をしているのだろうが、強くは追及しないことに決めた。炭治郎は真面目な奴だから、きっとその時がくれば打ち明けてくれる筈だ。触れられた掌は熱かったし、相手の腹に耳をくっつけると、また例のおかしな心音も伝わってきたから、炭治郎が何かを隠しているのは確実で、だけど信じてみることにしたのだ。
 ただ、正直過ぎる俺の尾だけは彼の腕にするりと巻き付き、心配そうに相手の肌の上を撫でていた。

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