02
「宇髄センセには、彼女が三人いるって本当ですか」
放課後の美術室にわざわざ赴いてやったのだ。このぐらいの報復は許されるだろう、と切り出した俺の質問は、予想以上に宇髄先生の弱点にクリティカルヒットしたらしかった。期末考査の採点をしていた先生の手から赤ペンがぽろり、と落ちるのを見て、珍しいこともあるもんだと俺は目を見開く。
まあ確かにな、場に相応しくないことを訊いたかもしれない。「生徒の前で試験の丸ツケなんかして良いんですか?」と訊いたところ、「良いんだよ、どうせ美術のペーパーテストなんて地味なんだから」と、圧倒的作品成果主義の宇髄先生が仰ったので、俺は渋々同じ部屋で未提出課題に取り込んでいたところだった。そんな折に訊く質問ではなかったかもしれない。だけど、こっちの方まで転がってきた赤ペンを拾って差し上げる気にはなれなかった。
椅子から立ち上がった宇髄先生は俺の足元にしゃがみ込み、まるで落とし物を拾うついでのように訊く。
「……誰から聞いた?」
「俺のカマ掛け」
「単なるカマ掛けにしちゃあ具体的過ぎるだろ。本当は誰から聞いた」
「……食堂の須磨さんとまきをさんが話してるのが聞こえた」
放課後だったし、調理室の奥で話してたから、多分俺以外には聞こえてないと思うけど。誰を庇う訳でもなくそう注釈すると、「あいつらか……」と、宇髄先生は苦々しくため息を吐いた――のはただのパフォーマンスのようで、実際には表情筋を少し緩ませていた。要は幸せそうな顔ってやつに近い。報復出来たと思ったのは俺の勘違いだったようだ。なんだか腹立たしい。クソ、羨ましいな。なんで宇髄先生みたいなのに彼女がいるのに、どうして俺にはいないんだ。世の中狂ってるよ。宇髄先生の新作油彩画のパースの如く。
「彼女って程可愛らしいもんじゃねえよ」
「じゃあなんだよ。あんな美女三人も捕まえておいて」
「嫁だ、嫁。実は俺、所帯持ちだったんだよ」
「は? ガキ相手だからって分かりやすい嘘吐かないで貰えます?」
「嘘じゃねえよ。俺の左手見てみろ。嫁が三人いるから、結婚指輪も三つしてるし」
「いやそれはアンタの趣味だろ。指輪だけで結婚してるって言い張れるなら、俺だって明日から指輪の十や二十は嵌めてくるわ」
「お前、俺の授業だけじゃなく算数まで出来なかったのか? 自分の手指の本数ちゃんと数えてみろよ」
「いや、ものの例えですけど」
なんで自分は冗談言う癖に、人のジョークには乗れない訳? と、分かりやすく面白くない気持ちになったが、だけど俺も馬鹿ではないので、多分こういうところが女性にとっては「面白い」ポイントなんだろうなというのは察せられる。畜生が。ちゃっかりと、「そうだ我妻。俺に嫁が三人いることは他の奴らには内緒だからな」なんて調子良く口封じしてくるところもムカつく。公になって社会的に滅びれば良いのに。俺がもっと真面目な風紀委員だったら、今頃アンタは大変なことになってるんだからな。ただ、食堂や売店に行く度に、須磨さんやまきをさんや雛鶴さんが俺の目を見て「いつもありがとう」って言ってくれるから、俺から滅ぼす気がないってだけでね、お前はその嫁とやらに救われているだけなんだからな。ああ妬ましい。俺だってそんな存在が欲しいわ。
「……どうしたら彼女って出来るんですか」
「まずその質問がえらく格好悪いって自覚はあるか?」
「んなことアンタに言われなくともこちとら分かってんだよ!」
あんまりな物言いだったのでうっかり噛み付いてしまった。「そんな残酷な質問、教師がして良いと思ってる訳?」と憎まれ口を叩けば、「まず女にモテたいって相談を教師にする方が間違ってんだよ」と、来る。悔しいが正論っぽいな。恨めしさの純度百パーセントの視線で睨んでやると、宇髄先生は鬱陶しがるように掌を振った。そのまま手が俺の頭に乗せられ、そのままじっと見つめられる。なんのつもりだよ。確かにアンタからすれば俺はモテないし、課題を溜め込んでる不出来な生徒だけれど、かといってアンタの肘置きにして良い訳ではないんですが。
「なあ我妻、お前は自分がモテる程、価値のある人間だと思うか?」
「ぐ……」
そのイケメン面で真面目な表情を作って一体何を訊くのかと思えば。それだって分かってんだよ。そりゃあアンタ程魅力ある人間でもねえしな、俺。テメエの弱みを握ったところで、強請れるような頭も度胸もねえよ。だけど悔しくない訳ではないので、何か言い返したい。しかし何も出てこない。自分の喉は悔しそうな音を立てただけで、なんにも言い返しちゃくれなかった。黙ったままでいると、乗せられたデカい手が俺の頭をくしゃりと掴む。なんですか。哀れみの一種ですか。
「少なくともよ、お前の価値にお前が気付かない限りはそのままだろうよ」