気象病

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「頭が痛ぇからもうじき雨が降るぞ」
 そんなことを伊之助が言ったので、俺は少し呆けてしまった。というのも、並べられた「頭が痛い」と「雨が降る」の二つに因果はないと思っていたからだ。その時の俺の心中は、こいつは何を言っているんだろう、という疑問が九割、だけど理由もなしにふざけたことを言うような奴じゃないよな、という経験則が一割を占めていて、結果特に何も返さずにその場は流した。だけど不思議なもので、それから半刻もしないうちに天から細い雨粒がぱらぱらと降りてきたので、伊之助の言った通りになった。どうして分かったんだよ、と訊いてみたい好奇心はあったけれど、猪頭に手を当てて不機嫌そうに空を睨んでいる伊之助を前にすると、声を掛けるのはなんだかはばかられたので、謎のままになった。
 それから度々伊之助は空模様を当てた。山で育ったこいつのことだし、野生動物特有の勘のようなものでも働いているのかと思えば、どうも違うようだ。こいつは持ち前の肌感覚の鋭さと経験則でものを言っているらしいぞと気が付いたのは、何度か任務を共にしてからだった。俺の耳の良さと同じような類だろうか。
 一緒に鬼を狩りに行く途中、にわか雨に遭った時の伊之助は大抵機嫌が悪そうにしていたけれど、かといって濡れることを疎ましく思っている訳ではないらしく、どんなに雨脚が激しくとも目的地を目指すことはやめない。もう少し雨宿りしてから行こうぜ、と愚図るのはいつも俺の方で、だけど俺の忠告なんてあいつに届く筈もなく、伊之助は返事を待たずにさっさと軒下から飛び出して行く。え、いやちょっと待ってよ。この土砂降りの中を傘も差さずにとか、正気か? 俺は慌てて広げた羽織を頭から被り、走る背中を追い掛ける。いつもこうだよ。自己中心的というか、自分の常識が他人にとっても常識である筈だと疑わないというか。だから俺、あいつとの任務はちょっと嫌なんだよな。

 実のところ、俺も雨はあまり得意ではない。特に晴れの日が長く続いた後の雨の日なんかは、耳が上手く慣れてくれない。
 伊之助と一緒に鬼を斬った翌日。その日も屋根を叩く雨粒の音を夜通し聞きながら寝た所為か、目覚めてからもしばらく頭の奥が重かった。今朝は鴉も雀も鳴かなかったのが幸いだったけれど。
 ふと隣を見れば、先に目覚めていたらしい伊之助も、布団の上でぼんやりとしていた。こいつが身動きひとつせず、じっとしているのも珍しい。昨日鬼の前で見せた威勢の良さはどこにも残っていない。
「おはよ、伊之助」
「…………」
「何してんの?」
「…………」
「伊之助?」
 返事らしい返事はなかった。被り物の下で何かもごもごと口を動かした気配はあったけれど、固まったまま動かない。大丈夫なのかな。もしや腹でも空いてるの?
「……なんだかぴりぴりするし、寒い」
 呟くようにそう言って、伊之助は布団の上に大の字になった。それだけでも普段の伊之助の態度からは考えられない奇行だったのだが、あろうことかそのままごろりと横に寝返りを打って、俺の布団の方に寄ってくる。
「なんだよ」
「……頭が痛ぇ」
 低く唸るようにそう言って、また口を噤む。相変わらず気まぐれだし、あまり言葉を尽くさない男だな、と俺の眉間には皺が寄った。一体何がしたいのか、全く読めない。
 まあ、しかし、だ。伊之助が素直に弱音を吐いたこと自体は珍しかったし、それは多分、今この場所に炭治郎が居ないからというのが理由のひとつにあるのではないか。それを俺は、時たま訪れる二人きりで任務に赴く機会の中で感じていた。気付かない方が良かったのかもしれないが、気付いてしまったので、変にかどわかされてしまった。普段は俺の言うことなんざこれっぽっちも気に留めない猪なのに、稀に二人きりになると、おもむろに腹を見せてくる。その気付きは、なんだか俺を不思議な気持ちにさせたのだ。
 何かを諦めるような心持ちで、俺は掛布団を持ち上げ、相手を招き入れる姿勢を作った。その対応は正解だったのか、伊之助は寝巻を引き摺りながら、素直に俺の布団の中に潜り込んで来る。着ていた浴衣は帯が解けていた所為で、ただ肩に羽織るだけになっていた。見てるだけでも寒そうななりだ。もしや雨に打たれて風邪でも引いたのかな、と相手の首元を触ってみたのだが、布の下の肌は妙に冷えていた。それだけじゃ分かんねえしな、と続けて被り物の猪を脱がせる。抵抗されるかと思いきや存外大人しく脱がされて、久し振りに見た素顔には重そうな瞼があった。ぱっちりしている筈の目は伏せがちだったので、長い睫毛に遮られてしまい瞳の色がよく見えない。
「やっぱり風邪引いたんじゃねえの? 白湯でも沸かして貰おうか」
「いらねえ」
 俺は強いから風邪なんか引かねえ、と伊之助はまた唸った。子供みたいな言い草に呆れたが、確かに体温は平熱だったし、喉を少し覗いてみても赤くはなかった。だけど、俺の太腿辺りに蹲って額をくっつけることをやめなかったし、丸くなったまま動かない。なので、俺はすっかり困ってしまった。
 聞こえよがしにため息を吐く。そうでもしないとこの猪は俺の心の機微が分からないだろうと踏んだのだ。
「お前さあ、何がしたいの? ちゃんと言わないと分かんないよ?」
「……別に何も」
「あっそ」
 睫毛と同じ色をした柔らかい髪に指を差し込むと、伊之助は喉を鳴らした。これでは猪ではなく猫のようだなと思ったが、響いた声は気持ち良さそうなそれではなく、嫌がってる時の音だ。神経を静かに削られているかのような音が、外の雨音の中に混じっている。
「……伊之助は、雨が嫌い?」
「天気に好きとか嫌いとかねえよ」
 触る場所を髪の生え際から耳に移す。薄くて形の良い耳はひんやりと冷たかった。また嫌がられるかと思ったが、案の定。いきなり鳩尾に頭突きを食らわされた。ぐえ、と潰された蛙のような声が自分の喉奥で鳴る。いやね、ちょっかいかけたのはこっちだけどさ、いきなり頭突きとかないでしょ!? と、俺が文句を言うより先に、伊之助の両腕が俺の腰に回った。浴衣越しに伝わってくる体温がぬくくて、ちょっとだけ気持ちが丸くなってしまう。
「俺がこうしてんのは俺の勝手だろ。別に、細やかな気遣いが欲しい訳じゃねえし」
 と、伊之助はやっぱり不機嫌そうな声で、俺の腹に向かって喋った。しかし成程。このしおらしい態度を炭治郎の前で見せなかった理由はその辺りにありそうだな、なんて邪推が働く。細やかな気遣い。それこそあいつが得意そうなものだ。
「お前、結構炭治郎のこと好きだよな」
「……なんで権八郎の話が出てくるんだよ」

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