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「なんだか心持ちが良くないのだ」
 と、のっけから不穏な空気を纏わせながら、神原が僕の頭頂部に顎を乗っけてきた。いや、僕はお前の顎置きじゃないし、僕の献身的な奉仕活動(清掃)をそうも簡単に邪魔出来るお前の気持ちが分からないし、それに一応、僕ってこれでもお前の先輩なんだけどな――と、つまらない恨み言の類が雨上がりの筍の如くぽこぽこと脳裏に浮かび、そしてすぐに霧散していき、結局最後には何ひとつ残らなかった。というのも、僕の首の後ろにいやに積極的に押し付けられている何やら柔らかな感触が、僕の思考を丁寧に相殺していくからである――いやいや、神原くんとの戯れもそれなりに熟れてきたつもりだったが、こうも斜め上の攻め方をしてくるとは、中々どうして侮れない。成程、阿良々木先輩が少なからず慢心していたことは認めよう。しかし、後輩のさり気ないようでいて実はあからさまな主張に対し、そう易々と屈する訳にもいかないのが先輩というものだ。僕にだってプライドがある。あるのかないのか分からない――そんなもん、寧ろ神原の部屋のゴミと一緒に潔く捨てちまった方が生きやすいんじゃないかと、よく議論の対象に挙げられるようなプライドが。オブラートの如く薄くて柔らかいプライドが。
「さて、聡明な阿良々木先輩なら、ここで私が何を言いたいか、分かってくれるのではないかと思うのだが――」
「しない」
「え?」
「しないからな」
「ま、まだ何も言っていないのだが……まさか本当に阿良々木先輩が私の心を読んでくるとは思わなかった。実は空気が読めるお人だったのだな、私の阿良々木先輩は。私はそういう方面が不得手なので、是非とも読み方を教えて欲しいものだ」
 言って、神原の顎の位置が頭部から肩に降りていく。その動作が異様にゆっくりとしたものだった所為か、図らずも己の心拍数が上昇してしまった。頭が隣り合ってすぐ、そのまま頬を猫のように擦り寄せられ、肌と肌との接触面積が増える。久方振りに自分のものではない体温に触れて、背筋にぞくりとした何かが走った。まるで身体の奥の一番柔らかい場所を優しく撫でられているかのようだ。不味い、これは不味い気がする。こんなことで白旗を挙げたくはないのだが、もう逃げ場がなくなってしまったような気持ちになる。いやさ、そもそもさ、お前が本当に空気が読めない奴なら、そんな手練れな誘い方を選ぶ筈がねえだろうが。今度こそ文句を言ってやるからな、と睨み付けてやるつもりで相手に視線をやると、丁度神原は僕に向けてウインクをひとつして見せたところだった。殆どゼロ距離に近い、超至近距離で。……如何にも冗談めいた所作だったから、本人の中で深い意味はなかったのかもしれないが、しかし、僕がなけなしの矜持で死守していた最後の一枚のオブラートが破れたのはそのタイミングだった。畜生、可愛いじゃねえか。

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「そこは戦場ヶ原さんの敏腕の振るい所というやつよ」
 と、ココア色の生地を詰めた型をオーブンに運んだ戦場ヶ原先輩はお得意の支配者のポーズでのたまったので、あとはもう、焼き上がるのを待つだけのフェーズに入っているらしかった。
 まもなくチョコレートが焼かれた時の、甘くむせ返るような香りが部屋に充満してくる。戦場ヶ原先輩は満足そうな面持ちでお湯を沸かし、休憩中に飲む為のお茶を淹れていた。
 調理作業中、私は全くといって良い程役に立たなかったので(謙遜じゃない)、せめて洗い物くらいはさせて頂こうかと一人シンクに立った。
「紅茶が冷めるわよ、神原」
「うむ。すぐに終わらせる」
 流しの中のボウルはチョコレートとバターが混ざり合った跡がある。不意に、その全てをぐちゃぐちゃにしてやりたい衝動に駆られたが、気付かなかったことにして、スポンジの上に台所用洗剤を絞った。

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「うっかりすっかり忘れていらっしゃるようなので、僕から言わせて頂きます。駿河先輩、僕にチョコ渡すの忘れてますよ?」
「いいや、予定にないものは忘れたりしないよ」
 五日前につつがなく終了したバレンタインデーにおいて、私は専らチョコレートを貰う側である。自分で言うのもなんだが、結構な数を貰う方かもしれない。普段使いしている登校用のメインバッグだけでは収まりきらない為、この日に限りサブバッグを用意することは忘れなかった。かように、例年通り貰う予定はあったのだけれど、渡す予定などついぞ立てたことがない。
「ええー? うっかり屋さんな駿河先輩の為にと思って、恥を忍んでわざわざ教えてさしあげたのに」
「じゃあずっと忍んでろ。催促なんかせずに」
 さも残念そうに眉尻を下げて見せる扇くんだったが、如何せんパフォーマンスだということを経験上知ってしまっているので、あまり罪悪感は湧いて来ない。
「それに、仮に私がチョコを渡す側に回ることがあったとしても、それはただ一人にだけだ」
「えー。こんなにも懐いている僕を差し置いて、それはあんまりじゃないですか?」
「今のところ、戦場ヶ原先輩以外に予定はないな」
「あ。そっちなんだ」
「そっちってなんだよ」
「いやまあ。てっきり阿良々木先輩に渡すのかと」
「? どうして私が阿良々木先輩にチョコを渡さなくてはならないんだ?」
「……それを聞かせたら流石の阿良々木先輩でも傷付くんじゃないでしょうか」

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