泡沫に泳ぐ魚

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 進展がないまま一週間が経過した。
「まもなく直江津高校でもプール開きですが、駿河先輩は水着のご用意はお済みですか?」
 わざわざ昼休みに三年生の教室を訪ねて来る程、彼は私を慮ってくれているのか、はたまた面白がられているのだろうか。きっと後者なのだろうなあ、と私は今日も忍野扇くんの顔を見ながら思う。

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泡沫に泳ぐ魚

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 沼地蠟花と私の関係を、私は上手に言い表せない。
 高校三年生の四月、およそ三年ぶりに再会した私と彼女は、友達と呼べる程穏やかな間柄ではないし、好敵手と呼ぶには時間が経ち過ぎていた。
 互いが互いのライバルだともてはやされていたのは、中学時代のコートの中での話であり、今や過去の話である――否、それでは聞こえが良過ぎるか。昔の思い出はとうに過ぎたものだからこそ、何か良い感じのニュアンスで思い出されるだけなのだろう。

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「珍しいですね、駿河先輩がそんなものを飲むなんて」
「うん。何故か稀に飲みたくなるんだよな」
 と、つい先程コンビニで買ったばかりの栄養剤の小瓶の封を切った。掌の中で小気味良い音が鳴る。そのまま呷るようにして褐色の瓶を傾けると、冷えた液体と一緒に独特のえぐみが自分の喉を駆け抜けていった。一気に飲み干してからふと隣を見ると、扇くんはまるで化け物でも見たかのような目を私に向けている。
「なんだ?」
「いえ、別に。ドリンクの瓶を片手で開封出来る怪力に、ちょっとびびっていただけです」
「え。瓶の蓋くらい誰でも片手で開けられるだろ」
「えー? そうですかねえ」
 如何にも納得いってなさそうな面持ちで、扇くんは自分の手元の瓶を開けにかかる。そっちこそ手袋を付けたまま蓋を回す器用さで何をか言わんや、だが。
「誰でもかどうかは分かり兼ねますが、少なくとも僕みたいな奴はそもそも片手だけで開けようって思考になりませんよ。どんな握力してるんですか」
 そんな風に、心底ひきました、というような顔で目を細める扇くんを見ていると、何かひっかかる気持ちも微かに湧いてきたから少々考え直してみるけれど……しかし、やっぱりどう考えても、彼が指摘した私の所作に特筆すべき特異性染みたものは無いように思えた。
「駿河先輩みたいなスターにとってすれば、特に顕著なあるある話だと思うんですけど。自分が出来ることって自分にとっては出来て当たり前だから、他人にまで過ぎた期待をしてしまうことってありますよね」
 唐突に、なんだか説教めいたことを言い出す扇くん。私は叱られるのがあまり得意ではなので(誰だって後輩に嫌みを言われるのは好かないだろうが)、容易く機嫌が斜めになった。
「なーんておへそを曲げつつも、駿河先輩だって本当はどこかで分かっているんじゃないですか? なんだか自分は人とは違うなーって感じたことが一度くらい……否、二度三度と言わず、あるんじゃないですか?」
「そりゃあ一度くらいはあるよ。自分と全く同じ思考をする人間なんていないし、全く同じ嗜好の人間もいないだろう」
「誤魔化し方が下手ですね。極論でしか反論出来ないなんて、興醒めです」
「瓶の開け方ひとつに厄介な議論をぶつけてくるきみに言われたくはないよ」
 と、空き瓶をゴミ箱に捨てながら、私は生意気な後輩の為に溜め息を吐いた。
 まあ、今回のオチを正直に明かすならば、私の件の握力は、何を隠そう私の腕が猿だった名残だったなのだが――しかし、私の場合、偶々母が残したアイテムが手元にあったというだけで。同じ状況に立たされれば、どんな人だって己を獣に作り替える可能性はあったんじゃないか――なんて仮定の話すら、扇くんに言わせれば過ぎた期待なのかもしれない。

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「なんだか心持ちが良くないのだ」
 と、のっけから不穏な空気を纏わせながら、神原が僕の頭頂部に顎を乗っけてきた。いや、僕はお前の顎置きじゃないし、僕の献身的な奉仕活動(清掃)をそうも簡単に邪魔出来るお前の気持ちが分からないし、それに一応、僕ってこれでもお前の先輩なんだけどな――と、つまらない恨み言の類が雨上がりの筍の如くぽこぽこと脳裏に浮かび、そしてすぐに霧散していき、結局最後には何ひとつ残らなかった。というのも、僕の首の後ろにいやに積極的に押し付けられている何やら柔らかな感触が、僕の思考を丁寧に相殺していくからである――いやいや、神原くんとの戯れもそれなりに熟れてきたつもりだったが、こうも斜め上の攻め方をしてくるとは、中々どうして侮れない。成程、阿良々木先輩が少なからず慢心していたことは認めよう。しかし、後輩のさり気ないようでいて実はあからさまな主張に対し、そう易々と屈する訳にもいかないのが先輩というものだ。僕にだってプライドがある。あるのかないのか分からない――そんなもん、寧ろ神原の部屋のゴミと一緒に潔く捨てちまった方が生きやすいんじゃないかと、よく議論の対象に挙げられるようなプライドが。オブラートの如く薄くて柔らかいプライドが。
「さて、聡明な阿良々木先輩なら、ここで私が何を言いたいか、分かってくれるのではないかと思うのだが――」
「しない」
「え?」
「しないからな」
「ま、まだ何も言っていないのだが……まさか本当に阿良々木先輩が私の心を読んでくるとは思わなかった。実は空気が読めるお人だったのだな、私の阿良々木先輩は。私はそういう方面が不得手なので、是非とも読み方を教えて欲しいものだ」
 言って、神原の顎の位置が頭部から肩に降りていく。その動作が異様にゆっくりとしたものだった所為か、図らずも己の心拍数が上昇してしまった。頭が隣り合ってすぐ、そのまま頬を猫のように擦り寄せられ、肌と肌との接触面積が増える。久方振りに自分のものではない体温に触れて、背筋にぞくりとした何かが走った。まるで身体の奥の一番柔らかい場所を優しく撫でられているかのようだ。不味い、これは不味い気がする。こんなことで白旗を挙げたくはないのだが、もう逃げ場がなくなってしまったような気持ちになる。いやさ、そもそもさ、お前が本当に空気が読めない奴なら、そんな手練れな誘い方を選ぶ筈がねえだろうが。今度こそ文句を言ってやるからな、と睨み付けてやるつもりで相手に視線をやると、丁度神原は僕に向けてウインクをひとつして見せたところだった。殆どゼロ距離に近い、超至近距離で。……如何にも冗談めいた所作だったから、本人の中で深い意味はなかったのかもしれないが、しかし、僕がなけなしの矜持で死守していた最後の一枚のオブラートが破れたのはそのタイミングだった。畜生、可愛いじゃねえか。

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