01
沼地蠟花と私の関係を、私は上手に言い表せない。
高校三年生の四月、およそ三年ぶりに再会した私と彼女は、友達と呼べる程穏やかな間柄ではないし、好敵手と呼ぶには時間が経ち過ぎていた。
互いが互いのライバルだともてはやされていたのは、中学時代のコートの中での話であり、今や過去の話である――否、それでは聞こえが良過ぎるか。昔の思い出はとうに過ぎたものだからこそ、何か良い感じのニュアンスで思い出されるだけなのだろう。
バスケットボールから離れた私は、かつてはライバルとすら呼ばれていた相手を忘れはしたが、沼地もまた、私を忘れていたに違いない。
元来、私が持つ悪魔のパーツを狙って蒐集家として現れた沼地の目には、私は単なる蒐集対象としか映らなかったのかもしれないし。
彼女から奪われたものは数知れない。
私の個性。
私の価値観。
私の悩みごと。
私の願いごと。
そして――私の左腕。
かつて私が己の身に宿した悪魔を、彼女は根こそぎ奪っていった。
私は私の意地で、その奪われたものを賭けて、彼女と対決したこともあったけれど。
あの日、沼地に引導を渡し切れなかった私の物語は、きっと様にならずに終わるだろう。
02
朝日と一緒に起きるのが難しくなってきた。庭の桜の木の枝葉は日に日に青さを増す一方で、季節は初夏に差し掛かっているのだと感じさせられる。
あの印象深かった新学期の出来事も、一日ずつ過去のことになっていくのだ。そろそろ左腕を隠さずに学校に行っても許されるんじゃないかな、と包帯の買い置きを止めたのは、つい先日の話である。
伸びをして左手に当たるのは、脱皮の跡の様に残された衣服の束。脱ぎ散らかしたのは他でもない私だ。『そんなんだから神原の部屋は片付かねーんだよ』と阿良々木先輩が並べるお小言の意味が分かってきたのは、実は最近のことだ。
それから、中途半端に重さの残ったペットボトル。これは私のものじゃない。少し迷ったが、寝起きでひりつく喉に耐えられそうにはなかった。
ボトルの主が部屋の襖を開けたのは、丁度飲みかけのそれに口を付けたタイミングだったので、私は危うく口に含んだ水分を吹き出してしまうところだった。
「あ、おはよう」
そんな私の動揺などつゆ知らず、彼女は――――沼地蠟花は呑気に朝の挨拶をした。
返事はしない。代わりに、口に含んだ水を嚥下してから、私は彼女の横顔を盗み見る。
水に濡れてくすんだ色になった茶髪。今にも滴が垂らしそうな毛先は、すぐに真っ白なバスタオルで包まれた。
「お風呂借りたよ」
「ん、……ああ」
事後報告で済まされてしまうのは、正直不本意ではあるのだが、今更文句を言ったとてどうしようもないことくらいは私にも分かるので、口からは曖昧な返事しか出て来なかった。
いや、事前許可制にしたところで私はきっと良い気持ちはしないのだろうが。
おじいちゃんとおばあちゃんに見つからないように配慮しつつ、こいつをこっそりうちの風呂へ案内するのは、正直なところ、気が進まない。まるで相手が罪を犯すことを知りながら悪人の手引きをしているようで、どこか心がすっきりしないのだ。私は共犯者になりたくないのに。
たかが風呂一つでそんなことを考えるくらいには、私は沼地との距離感を計りかねているのだろう。
今だって、自分の布団の上で当然の様に全裸で寝ていた私を、彼女は一瞥しただけで、呆れられることも非難されることもなかった。
……これは良くないかもしれない。
彼女がいる生活に慣れているのかもしれない。
「……私も入ろうかな」
寝起きのテンションの所為か、どこかセンチメンタルに浸ろうとする感情を、熱いシャワーでさっと流してしまうのはアリかもしれない。
一人、自分のやるべきことを確認するかのように呟いた私の言葉に、沼地もやはり、何の興味も示さないようだった。
◇
沼地蠟花が勝手に部屋に上がり込んでいる現状を、私はなんとなく受け入れている。
私から左手を奪った彼女は、何故か私の部屋に居付いてしまった。
同じ部屋で寝起きして、同じ風呂の湯に浸かり、同じ空気を吸う生活――流石に布団は同じとはいかないけれど。
一体、どうしてこんなことになってしまったのだろう。
想起すること、四月九日。
新学期。私、神原駿河が三年生になった日。
私達は再会した。
いやはや、実にセンセーショナルな邂逅だった。三年ぶりに沼地蠟花は、その風貌からも、その性格からも、その人生観からも、私に少なからずショックを与えたものだった。
彼女は不幸の蒐集と悪魔の蒐集、という悪趣味に興じる『悪魔様』として私の前に立ち、およそ一年余り私を悩ませていた悩みごとを――私が左手に宿らせていた悪魔を見事に奪っていったのだが――うん。その辺りの話はやや込み入っているので、ここでは割愛させて貰おう。
まあ、色々あったのだ。
何があれば、同い年の女の子と一つ屋根の下で暮らすことになるのか、私の方が知りたいくらいだが……。
『神原選手は良い顔しないだろうけどさ、もうちょっとこの街で、蒐集活動を続けてみたいんだよね』
みたいなことを沼地は言った……のかな?
良い顔をしないことを分かっておきながら、何も私の部屋に居座らなくとも良いのではないか、と思うことしきりだが。
かと言って、強く問い詰めるのも難しい。
私と彼女の関係は、触るとぷつん、と糸が切れ、そのまま見失ってしまいそうな危うさもある。
私の家は広い方だと思うし、(ほんのちょっぴり散らかっている私の部屋に沼地が文句をつけることを除けば)別に、彼女一人が居候するくらいは構わない。
構わないけれど、困ってはいる。
悩んでいる。
要は、私は相手との距離を計るのが苦手で、こと沼地に関しては、どうしても会話のイニシアティブを握られがちだから、どんな一面をもって接すれば良いのかが分からないのだ。
どんなキャラを演じようと、彼女は私を空々しいと嗤うのだろうし。
人間関係に名前が付いていれば、まだ分かりやすいのに。友達とか。先輩とか。後輩とか。沼地に関しては、そのどれに分類することも出来ないでいるのだ。
なんて。
そんな、もやもやした似たり寄ったりな下手な思い悩みも、熱い湯に浸かると解していくようだった。
否、それは錯覚なのだろうけれど。
目の前に丁度良い快楽があるから、それに甘んじて目を逸らし、問題を先延ばししているに過ぎない。そうしているうちに、問題は勝手に解決してしまう。どんな悩みも、いつかは時間が解決してくれる――というのは沼地の持論だ。
「…………」
自問自答から逃れるように、首が完全に埋まるまで湯船に浸かった。
熱い湯がすぐに頰を火照らせて、額に汗が浮いても構わず、ただひたすらに長湯をする。
そうすれば、部屋に戻って顔が赤いと沼地に指摘されても、風呂にゆっくり入っていた所為だと言い訳が出来るだろう――と、言い訳染みた理由付けをしていた。
その時。
見慣れた筈の浴槽に。
神原家自慢のお風呂の水面に。
何か――影のようなものを見た。
明らかに人の形ではないそれは、柔らかな尾を引くように、水の上を揺らめいて。
「ひっ!?」
反射的に水面を叩いた。
殴った、と言った方が正しい表現かもしれない。が、これは分かりやすい失敗だった。
私の掌が与えた衝撃は、当たり前の様に水面を揺らす。なだらかな水鏡の表面が波面に変わったことで、像を映さなくなってしまったからだ。
弾けるようにして湯船から這い上がってから、暫く。肩が冷えるくらいには時間を置いただろうか。
漸く落ち着きを取り戻した私は、再び凪いだ風呂の水面を覗き込む。
「…………」
しかし、そこには自分の顔しか写っていなかった。
◇
「……なあ、沼地。うちの風呂場に何かおかしなところなかったか?」
というか、何かおかしなこと、しなかったか?
浴室から出てきて開口一番、バスタオルで頭を掻きながら、私は彼女に問うてみた。
「え?」
しかし、沼地はらしからぬ顔できょとんと、何も知らないとばかりに首を傾げたものだから。
「いや、いい……なんでもない」
私は言葉を濁す以外にすることがなかったのだった。
否、彼女を問いただすより先に服を着るべきだったかと、部屋の姿見に映った裸の自分の間抜けさに、少しばかり反省はしたかもしれない。
03
「ふうん? おかしな影、なあ」
その翌日。
私の話に真剣な相槌を打っていたのは、やはり阿良々木先輩なのだった。
やはりと言うか、なんというか、相談相手に彼を選んでしまう当たり、私はまだまだ未熟な身なのだなあと感じざるを得ない。高校を卒業してから顔を合わせる機会こそ減ってはいるものの、今日もこうして私の部屋を片付けに来てくれていることも含めて。
ついでに触れておくと、沼地は外出中である。きっと今日も、悩める中高生の不幸を求め、どこかの町で絶賛蒐集活動中なのだろう。
阿良々木先輩が来る日、沼地は決まって私の部屋から出ていくので、きっと意図的に顔を合わせないようにしているのだと思われる。
だから阿良々木先輩は、私が旧知の女の子を部屋に置いている事実を知らないし、説明するのもなんだか厄介な気がして、黙っている。
黙ってはいるのだけれど……はて。
どうして、厄介だと思うのだろう。
尊敬する先輩相手に隠し事をしているようで、少々心が痛い。それも私が彼女に対し、歯痒い思いを抱いている原因の一つだろうか。
そもそも阿良々木先輩に沼地が見えるのかどうかさえも、私には分からない話なのだが……。
それはさておき。
閑話休題。
私は簡単に、昨日風呂場で経験した出来事について阿良々木先輩に話したのだった。本日の彼の訪問は、あくまで私の部屋の清掃活動が目的であり、件の話は所謂雑談の類として持ち出したつもりだったのだが。
「まあ、気になるってなら調べてみようぜ」
と、どんなに些細な話にもしっかりと耳を傾けてくれるのが阿良々木先輩だった。
「とは言っても、お前のうちの水道トラブルに対して、僕が出来ることってあんまりなさそうだけどな」
「いや。それはそれで『何もなかった』と改めて他人の口から言って貰えれば、私も安心出来ると思うし」
それこそ水道トラブルだったとでも言って貰えれば、理由が付いたことで私は納得出来るだろうから。どこか茶目っ気ある表現を選んだのは、私を不安にさせない為だろう。だからこの先輩には頭が上がらないのだ。
脱衣所と浴室を隔てる戸を開けて、二人で乾いた檜の床を踏む。そして浴槽を覗き込んではみたのだが。
うーん……。
なんというか。
空っぽの風呂の底をただただ眺めているだけというのも、中々シュールな絵面だな、と鏡に映った阿良々木先輩と自分の姿を見て、その程度の感想しか浮かばない。
さもありなん。
「……水面となると、やはり、お湯を張ってみた方が良いのだろうか?」
◇
思い立ったが吉日――ではないが、思い付いた案は実行するに限るだろうということで、その日、神原家の浴槽には早めに湯が張られることとなった。
自慢の井戸水を沸かすのに一時間程掛けた後。
沸きたての風呂の水面に先輩は顔を近付けて。
「んー……特に変わったところは見られないけれど」
「そうか? ついでに水面に私の顔が映っていたりはしないか?」
「ついでとばかりに、僕と将来結ばれたがらないでください。ちゃんと自分の顔が映ってるよ」
「それは残念だが、私の話はちゃんと覚えていてくれたようで嬉しいぞ」
私も彼の肩越しに湯船を覗き込んでみたが、『将来結ばれる相手が映る』といういわく付きの水面には、私と阿良々木先輩の顔がそのまま並んでいるだけだった。
阿良々木先輩の指先が湯の表面を突いてみても、波紋に合わせて二人分の像が震えるのみ。そこには不自然さも、運命の相手の顔も、不穏で怪しげな影も、何もない。
目の前のそれは、ただの澄んだ水鏡でしかないようだった。
それでも先輩は、それこそ穴が空きそうなくらい念入りに、うちの浴槽を暫く眺めてから。
「うーん……とりあえずは、気の所為だったってことで今回の話は終わりかな」
と、そんな結論を出したようだった。
妥当なところだろう。
「お前にとってはすっきりしないだろうけれど、現状、これ以上どうすることも出来ないしな……」
「いや、そんなことはないぞ。やはり人の口から否定して貰えた方が納得しやすい面もあるし。それに何より私は、阿良々木先輩の目を信じているからな」
だからあなたの判断に従おう、と明るく笑って見せると、彼は居心地が悪そうに首の後ろを掻いた。
「まあ、でも、差し当たっての結論だから、もしまた何か変なことがあればちゃんと言えよ?」
「うん」
しかし実際、阿良々木先輩の口で結論付けられてしまうと、その調査結果はすんなりと飲み込めてしまえるのだった。抱えていた煩慮の気持ちが簡単に解してしまう。我ながら現金なものだ。
「そうだ、阿良々木先輩。調査の為とはいえ、折角湯を張ったのだ。阿良々木先輩も入浴してから帰ったらどうだ?」
「え? いや、人の家の風呂をそう何度も使うのも心苦しいというか、なあ……」
「阿良々木先輩は謙虚な方だからな。遠慮されるとは思っていたが……しかし、そうも言っていられなくなったぞ」
「え?」
「おばあちゃんはもう、今晩先輩はうちで夕食を食べていくものだと思っているみたいだな」
「あー……」
◇
おばあちゃんの厚意に根負けした阿良々木先輩は、ついでに私の熱意にも折れてくれたようで、最終的には、お風呂そして夕食を頂いてからの帰宅を選んでくれた様だった。
バスタオルを渡して脱衣所に押し込むと、やけに早く済ませて出てきたものだから(以前にも他人の家の風呂は落ち着かないと言っていたからそれが理由かな?)、阿良々木先輩に次いで、私も夕食前に入浴を済ませてしまうことにした。『ならば一緒に入っても良かったんじゃないか!』と一度息巻いたが、その案は先輩の方から辞されてしまった。
あんなに丁寧にお断りしなくったって良いのに。というか、入っている最中だって、脱衣所に鍵なんて掛けなくても良いのに……信頼されていない様で、正直少しばかり寂しい。
だからという訳ではないけれど、私は断固として鍵を掛けずに入った。とは言うものの、私は日頃脱衣所の戸まで開け放したまま入ることも少なくないので、これはいつも通りと言えよう。
髪を洗う。身体を洗う。
自慢の湯船にざぶりと浸かって、どのくらい経っていたのだろう。正確な時間は分からないけれど、『上がれば阿良々木先輩との夕食が待っている』と楽しい気持ちになっていた私がそこまでの長湯をしていたとも思えないのだが。
ふと下を見れば。
脚が。
爪先が。踵が。足の甲が。踝が。脹脛が。脛が。膝が。太腿が。そして付け根に至るまでが。
私を支え、己の唯一の誇りであり、自分の拠り所としている、当たり前のようにそこにある筈の脚が。
溶けていた。
……いや、もう。
いきなり突飛な表現を選んでしまうのはとても心苦しいのだが、本当に、自分の身体が水に『溶けていた』と言い表す他ない。
身体そのものが融解していくのではなく、固体が液体に溶け出していくような感じ。
それこそ塩が水に溶けていくかのように。
――あ、まずい。
とりあえずお湯から上がらなくてはならないのだろうが、上がるための足がない――あ、あ――!
「阿良々木先輩っ!」
状況を飲み込めないまま、気付けば半ば反射で叫んでいた。私の悲鳴というSOSコールはなんとか彼に届いたようで(うちの家の広さを考えるとちょっとした奇跡と言っても良いくらいだ)、浴室と脱衣所を隔てていた扉がガラリと開き、すぐに阿良々木先輩が飛び込んで来る。
彼からすれば、私が風呂で倒れて助けを呼んだとでも思ったのかもしれない。しかし、一見すれば呑気に湯に浸かっているだけの私を見て、彼が湛えていた焦りが一度消える。まあ、事実はもっと切羽詰まっていたのだけど。大方、私がまだ『阿良々木先輩とお風呂に入りたい』と主張しているとでも思われた、というところか。
「大きな声がしたから何かと思えば……お前、風呂くらい一人で入れるだろ? 一度収めたネタを引っ張り続けるなんて、お前らしくないぞ」
「いや、後輩に対してそのように期待をかけてくれるのは嬉しいし、先輩と湯船を共にしたいという気持ちにも偽りはないのだが……いや、今はそれどころじゃなくて――」
長い前口上が出てくる辺り、私も多少は混乱していたのだろうか。
とにかく。
「今すぐ私を風呂から上げてくれ!」
と、言い終える前に、私の並々ならぬ危機感は伝わったのか、途中で阿良々木先輩の表情が真剣なものに変わった。よってそれ以上の悪ふざけは続かず。
文字通り足を失った私を、彼がすぐに浴槽から引き上げる。次に私の下半身を見咎めて――そして絶叫した。
「っ……うわあああああぁぁ!?」
不思議なことに、他人が乱心している様を前にすると、存外自分の方は冷静になれてしまえるもので。
「阿良々木先輩、しー。おじいちゃんとおばあちゃんがびっくりするから」
私は人差し指を自分の唇に当てた。
図らずも、彼にお姫様抱っこをされながらの行為だった。
「お、おう……?」
とりあえずは静かになって貰えたが、『そんなこと言ってる場合じゃないだろう』というツッコミは頂けなかったことから鑑みても、先輩はまだ混乱しているようだった。しかし、私にとって、一つ屋根の下で暮らしている祖父母に超常現象的なものを見られてしまうのは、何としても避けたい事態だったから。
そして、唇から離した自分の指を見つめた後、気付く。
脚だけではない。指先や、その関節――つまりは身体の至るところが水に溶け出していた名残があった。
◇
それから『阿良々木先輩がいきなりうちのお風呂場に飛び込んだ』という事実が私のおばあちゃんに伝わったタイミングでやや一悶着あったのだが、ひとまずは『孫娘が風呂でのぼせたところを先輩がいち早く駆けつけて、救出してくれた』という体で収めることに成功した。
この言い訳は大したもので、『のぼせた私を介抱する』という体で、必然的に夕食の時間も後に延ばされることとなった。下半身が溶けた状態で食卓に着く訳にはいかなかったので、これは本当に助かった。
片付けて貰ったばかりの自室に横たわる。バスタオルに包まった私の隣に、阿良々木先輩も腰を下ろした。
溶けたというものの、感覚的に変わった感じはしなかった。
だから初めは普通に足を動かして座ろうとしたのだが、そこに動かすものがないことに気付いて、『あ、ないんだ』と認識する、といった具合で。だからこう、自分の中で今ひとつ危機感に欠けていることを自覚はしていた。
今や懐かしき『猿の手』がくっついていた時の方が、まだ存在感があったくらいだ。
とりあえず、水から離れれば進行は止まるらしい。その事実から鑑みるに、やはり『私が自ら溶解している』のではなく、『液体に触れることで、その水を溶媒として溶けている』という認識が正しいのではなかろうか。
はたまた、さっきは塩が水に溶けていく様だと感じたが、水性のインクが水と混じり合っていく様な感じにも近い気がする。何分私の身体そのものは固体として形あるものなので、真っ先に浮かべたのは前者のイメージだった訳だけれど。
「ふむ。エロスを追求する妖精になりたいとは思っていたけども、まさか水の妖精みたいなことになるとはな。つまりは水溶性の神原駿河か……」
「そこはかとなくファンシーなことを言ってる場合か? 上手いことも言えてないし」
今度はきちんとツッコミを頂けたので、阿良々木先輩もある程度は落ち着いてくれたのだと思う。おどける私を嗜めるような、少し柔らかな口調だったが。
しかし実際、溶けた身体を見ると、足首から先なんかは酷いもので殆ど残っていない。
でも。
少しずつだけど、回復してはいる、のかな?
あまり湯に浸けていなかった手の指先なんかは見た感じ、もう元の通りみたいだし。
「痛いか?」
「いや、痛みは全くない。寧ろその所為で気付くのが遅れたくらいだ」
「そうか……」
それでも不安そうな面持ちで、阿良々木先輩も私の掌を触診し、次いで私の足があったであろう場所を眺め。
「うーん……」
と、少し熟考するような素振りを見せた。
「身体が水に溶けたっていうのは分かりやすく非日常的な超常現象だから、何らかの怪異現象であることは確かなんだろうけれど」
「まあ、そうなんだろうなあ……」
怪異。
怪しくて異なる、現象。
私もそれなりだが、私以上に怪異に関わってきたこの人が言うのだから、きっとそうなのだろうなあ。
「それ以外で今、分かることと言えば――僕は問題なく風呂に入れていたから、風呂そのものより神原の方に原因があるって感じなことくらいか。お前を引き上げる時に湯に触っても、なんともなかったし……それも推論の域を出ないけど……」
言いながら、阿良々木先輩は漸く形になってきた私の足首を触る。おっかなびっくりの手つきだったので、踝を撫でる指の腹の感触が、少しくすぐったい。しかし、それはつまり失くした足の触覚を取り戻しつつあるということなので、素直に安心の気持ちも覚えるのだった。
「しかし、昨日の話を聞いてから、これだからな。やっぱり神原が水面で見た影とやらが、直接の原因と考える方が自然なんだろうな」
「んー……、やはりそうなるか」
しかし、私をお湯から引き上げてから再度、阿良々木先輩は風呂場を確認しにいったらしいが、やはり変化は見られなかったらしい。
「どうせなら、服だけ都合よく溶ける怪異とかだったら面白かったのに……」
「そんな状況を面白がれるのはお前くらいだ。まったく……思っていたよりは落ち込んでなさそうで安心したよ」
「ん? 阿良々木先輩は私の身を案じてくれているのか?」
「当たり前だろ」
思いの外真剣な調子で頭を撫でられてしまったので、私はほんのちょっぴり面はゆい気持ちになった。
湿ったままの私の髪をかき分けて、阿良々木先輩の掌が額を触る。抑制していた心細さが滲んだのは、きっとそのタイミングだっただろう。
「……心配をかけてしまってすまないな」
「気にすんなよ。今に始まったことでもねーだろ? 原因については、夜を待ってから忍にも聞いてみるし。まあ、その……あんまり気を落とすなよ」
「わかった」
私の気休めのような謝罪に、阿良々木先輩からもまた気休めのような慰めを頂いてしまったが、ここは互いの為に笑っておくことにしよう。
それに、考察を進めているうちに、なんとか溶けた身体は全て元通りになりそうな気配だった。
心の底から安堵する。と共に、そこで余裕が出てきたのか、心配そうに私の下半身を見つめ続けている先輩の真剣な視線に気付く。
そういえば、風呂から上がってそのままだったので、無論その場所には何も身に着けていない。
「……阿良々木先輩」
「ん?」
「その、あまりまじまじ見られると、恥ずかしいのだが……場所が場所だし」
「あっ、いや、ごめん」
言ったが早く、下半身に集中して注がれていた視線がぱっと離れた。
「そろそろ服を着たいから、何か取ってくれるかな」
「お、おう」
「あ、下着は取ってくれなくても構わない。そこは阿良々木先輩の好みに合わせたい」
「僕にそんな趣味はない」
冷静なツッコミを入れながら、阿良々木先輩は私の部屋の衣類入れ(私の部屋には服を入れる収納という概念が無かったので、これは本日の清掃活動で先輩が用意してくれたものだ)に向かう。
見繕って貰った下着に、元の形に戻ったばかりの足を通しながら。
「あ、そうだ。阿良々木先輩」
「ん?」
「少し申し上げにくいのだが……このことは、戦場ヶ原先輩には秘密にしておいて貰えるかな?」
余計な心配をかけたくはないから――と、言っても、阿良々木先輩には現時点でかなり頼ってしまっているので今更かもしれないが。
そんな私に、彼は少し訝しむような、はたまた憂心を抱くような表情が浮かべたが、すぐに。
「……ああ、わかった。でも、何かあったらちゃんと言えよ? 戦場ヶ原でも、僕にでも良いから」
「うん」
そして、延ばされた夕ごはんを頂きに居間へ向かう頃にはもう、溶けた私は何事もなくいつも通りの私に戻っていたのだった。
04
「おはようございます、駿河先輩」
と、扇くんが朝早く(午前五時台という恐ろしく早い時間帯だったが、しかし私が毎朝十キロ×2のジョギングを日課としていることを、彼は知っているらしかったので、ギリギリ良識的な時間といえよう)に訪ねて来たのは、阿良々木先輩に裸を見られたその翌日のことである。
起き抜けの、寝癖が付いた髪で彼の前に立ったのは、先輩(しかも異性の)として情けない姿だったと承知の上ではあるのだが、朝一番にきみの顔を見ようとする気になっただけでもありがたいと思って欲しい。
「えー? 冷たいですねえ。後輩をそんなにラフな格好で出迎えておいて、あなたも完全にウェルカムの姿勢に見えますよ? 成程、今日の下着は薄浅葱色ですか」
「適当なことを言うんじゃないよ」
着ているのはランニングウェアだ。確かに身体のラインが出る服ではあるが、決してラフな格好ではない。しかし下着の色は何故か当たりだったので、後でこっそり違うものに替えておくことにしよう。
心の中だけで嘆息しつつ、私はスニーカーを履こうとしていた手を止める。我が家の玄関先で鉢合わせてしまった手前、後輩を置いて走りに行くのもなんだか気持ちが良くないので、今日のジョギングは見送ることになりそうだった。
「さて、それで『駿河先輩の溶解問題』についてなんですけども」
「その言い方は何か引っかかるな……自分が妖怪か何かのように言われているようで」
昨夜は自分で妖精と称した辺りも、そんな表現をされては今になって恥ずかしくなってくる。
「いや……その件に関してはもう阿良々木先輩が調べてくれるって言っていたし……」
「おやおや? 先輩の身を案じてわざわざ駆けつけてきた後輩の厚意に対し、情に厚い駿河先輩らしくない発言ですねえ?」
「うっ……」
そんな風に言われてしまうと、まるで自分の方が非情な奴の様に思えてくるのだが。
そもそも、きみに人を慕う情とかあるのか?
「酷いことを仰いますね。これでも僕なりに奇策を練ってきたんですよ」
奇策?
あからさまに眉を顰めたであろう私。自分を慮ってくれた相手に対し、この反応は良くなかったかもしれないが、扇くんは気分を害した様にも見えなかった。
「というか、きみはその話をどこから聞いてきたんだ?」
「阿良々木先輩から聞きました」
ん……?
どこからしくなさを感じる。
あの人に限って、身近な人が直面している危機的状況について、そう易々と第三者に話したりするかな?
「それもそうですね。じゃあ、えっと……――いやだなあ、駿河先輩の方から僕に声を掛けてきたんじゃないですか。『ちょっと困っているから相談に乗ってくれないか』って」
「ん? そんなこと言ったっけ?」
「言いました言いました。昨晩の、おやすみ前の日課である僕へのラブコールで仰ってました」
「いつ言ったかは覚えていないが、そんな電話は絶対にかけていないことは分かる」
「まあ良いじゃないですか、もう駆け付けてしまった訳ですし。大事なのは不肖の身であれど、駿河先輩の後輩である僕が、ピンチに窮するあなたを助けに来た、という事実です」
緩く口角を持ち上げながら甘言を吐く後輩。
彼の発言を正面から受け取るのは些か危険であると、私は経験から知っている。しかし、『助けに来た』と言うのなら、ここで無情に追い返すのも悪いような気もしてしまうのだった。
「じゃあなんだっけ。とりあえず、きみの奇策とやらを聞かせて貰おうか」
立ち話も何だし、幸い部屋は片付いているから上がって貰って――
と、言おうとして振り向いた瞬間。
扇くんが私の右肩に噛み付いた。
「……っ!?」
いきなり突飛な展開過ぎて、私もすぐには理解が追いつかなかったが、言葉の通り。
音もなく飛び付いて来た忍野扇が、神原駿河の肩口に食らい付いている。
「いっ……たいっ!!」
痛い、痛い、マジで痛い!
皮膚の上を走る激痛、歯列が肌に沈む感覚。
中々に波乱万丈の人生を送ってきたんじゃないかと自負する私だが、流石に人間に噛み付かれた経験はなかったので、これ以上なく驚いた。否、経験があったとしても驚いただろうけれど。そもそも経験せずに人生を終えたかったけれど。
私の腕にがっぷり組み付いた――もとい食い付いた扇くんを、それこそ突き飛ばすかのような勢いで引き剥がして。
「なんだ奇策って! いきなり先輩に噛み付くことが、きみの考えた奇策なのか!?」
だとしたらデンジャラス過ぎる。
奇策じゃなくて奇行だ。
ずきりと痛む右の肩を押さえながら後輩を一喝する。
一方、私に手加減なしで突き飛ばされた扇くんは、どうやら怪我はしなかったらしく、ついでに私の叱責にもノーダメージのようだった。
「はっはー、ちょっと刺激的過ぎたというか、荒療治だったことは認めますが、何も殴ることはないじゃないですか」
そしてこの後輩、この期に及んで遠慮というものを知らないのか、ずかずかと家に上がり込んでくる。何故か私の手を引いて。
「えっ、お、扇くん!?」
「じっとしててください」
どこか強制力のある台詞に、私はそのまま右腕を引き摺られ――
「すぐに終わらせますから」
そしてもっと恐ろしいことに、その腕を洗面台に突っ込まれた。
なんて残酷なことをするんだ、この後輩!
ざあっと大きな音を立てながら蛇口から流れる水が、私の肩から指先にかけて――右腕全体に勢い良く降りかかった。
傷口に水がしみて、痛い、と思った矢先、それもすぐに感じなくなる。
それは傷が塞がったからでも、痛みに慣れたからでもない。
水に浸かった私の右腕が、扇くんの歯型ごと、根こそぎ流水に持っていかれた所為だった。
◇
「では、腕が回復するまでの時間を解説に当てさせて頂きますね」
私の腕を飛ばしてしまった報いを、残っていた左手で与えた後だというのに、扇くんは気にも留めず、冷静に語り始めた。いや……驚きのあまり合計二発も殴ってしまったことに関しては、私もちょっと悪かったとは思うけれど。それでも、事の重大性をもう少し気にして欲しいと願うのは、私の我儘だろうか。
「簡単に言えば、『駿河先輩の溶けた身体は、元の形で再生するのかどうか』を調べたかったんです」
「はあ……」
真剣に話している口振りを見ると、どうもふざけている訳でもないらしい。まあ、彼ってふざけている時とふざけていない時の違いが分かりにくいのだけど。
「いや、話を聞いたなら知ってると思うけど、それはちゃんと回復するよ。脚だってこの通り、元通りになったんだし――」
「本当にそうだと言えますか?」
強い口調で遮られた。細めた瞳から放たれる彼の真っ黒な眼光が、少し鋭くなったのが分かる。
「よくよく考えてみてください。駿河先輩が擦り傷を作ってかさぶたが出来た時、その下で形成されるのは新しい皮膚ではありませんか? トカゲが天敵から逃げる為に自分の尻尾を切った時、新しく生えてくる尻尾は元のものと全く一緒のものではありませんよね? それは果たして、本当に、元通りになったと言えるのでしょうか?」
「トカゲの自切と並べて語られるのはなんとなく嫌だけれど……確かに、どちらも新しいものが再生するという意味では、完全に元の通りとは言えないかもしれないな」
「でしょう? だから僕としては『駿河先輩の新しい腕には僕の歯型が残っているのか』を調べたかった訳ですよ。自切と同じ類のメカニズムであれば、あなたの新しい左腕に、痕は残っていない筈ですからね」
「意図は理解したが……」
そういうことならきみが手ずから噛まずとも、他にも色々調べようがあっただろうに。
「キスマークの方がお好みでしたか?」
「全くお好みじゃない。それを聞くと、歯型の方がまだマシな気がしなくもないな……」
「でしょう? 僕なりに気を遣ったんですよ、これでも。なのに察しの悪い駿河先輩ときたら、僕の気持ちが全く汲み取れていないようで非常に残念です」
「残念がってないで、きみもちょっとは反省しろ」
なんて会話をした十数分後。
程なくして再生した私の腕を見れば、そこには痛々しい歯列の痕が、きっちりと残っていたのだった。
「ははあ。これは中々興味深い結果ですね」
満足そうに傷口があった場所を覗き込む後輩。その顔が思いの外近くにあったので、私は逃げるように右腕を抱え込む。
まだ良からぬことを企んでいるかもしれない。
これ以上、被害を被って堪るものか。
「では続いて、『下半身だけを残して溶かした場合、駿河先輩は復活出来るのかどうか』でも調べてみましょうか」
「いやいや、ちょっと待て。いきなり危ない実験コーナーを始めようとするな。復活出来なかった時って、それ私が消滅しちゃってるだろ」
「どうなんでしょう? この場合『完全溶解』と『人間としての死』がイコールで結ばれているとも限りませんし。その辺りも含めて調査してみてはどうですか?」
「私も大概馬鹿だけれど、それは『どうですか?』って軽いノリで提案して良いものじゃないことくらいは分かるぞ。一歩間違えば自殺行為じゃないか!」
「でも、上半身を残して溶かした時は元に戻ったんですよね?」
「まあ、そうだけど」
それは阿良々木先輩の前で実証済みである。
昨日、腰から下が溶けてしまった私の身体は、時間を置いたらしっかりと元の形に戻ったのだ。自慢のプロポーションをそっくりそのまま取り戻せたのは、幸いだったと言うべきだろうか。
「どの程度の損失にまで耐えられるか、というのはかなり重要なポイントですよ」
と、思いの外、真剣な面持ちで扇くんは言う。
「例えば、駿河先輩が左腕だけを残して全部溶けてしまったとしましょう」
「そんな恐ろしい仮定はしたくないし、実験は全面的に禁止だからな?」
「あくまでも例えですよ、例え。えっと――果たしてその時、左腕から駿河先輩は全身分復活するのか、というのは十分議論の対象になるかと」
「……ふむ」
「さっきの下半身の話にも言えるんですけどね。僕が付けた歯型まで駿河先輩が再生したところを見ると、肉体の再生に関して言えば、これは駿河先輩の意識的なものと関係しているのではないかと思うんですよね」
「ふーん……?」
扇くんには悪いが、さっきから曖昧に相槌を打つくらいしか出来ない。それは彼も承知の様で。
「今ひとつ実感が湧かないあなたの為に、ネタばらしをしましょうか。駿河先輩、僕があなたに噛み付いたのと同時に、腕に落書きしたことって気付いてました?」
「えっ!?」
「駿河先輩の美味しそうな肌を噛むのと同時に、ちょっとばかしマーカーで印を付けさせて頂いたんですよ」
言って、懐から油性マジックを取り出す扇くん。
「親愛を込めて『忍野扇』と書かせて頂きました」
「嘘を吐け。きみが私を噛んだのは一瞬なのに。そんな暇なかっただろう」
「まあ、名前を書いたのは嘘ですけれど、印を付けたのは本当です。で、油性ペンでマーカーしたのは二の腕辺りなんですが、そっちの跡は残ってますか?」
言われて、私は自分の腕を確かめてみる。場所が場所なので、肌を摘んで腕周りを確かめるのにやや時間が掛かったが。
残っていない。
そこにあるのは何の痕跡もなく、ただの私の二の腕である。そのちょっと上――私の肩には歯型がきっちりと残っているのに。
「だから、これは憶測なんですけど、『再生はその部位を失う前の駿河先輩の意識に依存している』のではないでしょうか。言い換えれば、『意識していなかったものは再生されない』とか」
「ふむ」
中々まともなことを言っているような気がする。
これでは自分の持ち物に記名するかの様な気安さで、先輩にマジックペンを突き立てたことについて叱ることは出来なさそうだ。意図を聞いてみれば、私の意識を外す為、あえていきなり歯を立てることを選んだとも言えるのだろうし……言えるよね?
「書いたのは確かなんだよな? きみが嘘を吐いているという可能性を、私はどうしたって否定しきれないのだが」
「酷いですねえ、もう少し、この可愛い後輩を信用してくださいよ」
頬を膨らませて拗ねる様な仕草を見せる扇くん。これまでの外れた言動と行動さえなければ、この子も素直に可愛い後輩と思えるのかもしれないが……うん、現状では無理そうだ。
あ、そういえば。と頭を上げた本人も、これ以上可愛い子ぶるつもりはないらしく。
「話は変わりますが、駿河先輩、朝ごはんはもう食べました?」
「いや、まだだけど……」
私はジョギング後に朝食をとることにしているのだが、今日に限ってはその前に扇くんと顔を合わせていたから、走ることも食べることも中途半端のままだった。
指摘されることで意識に上ったのか、自分の胃が控えめに空腹を訴え始める。
「折角だし、扇くんも一緒に食べるか? 私が言うのもなんだが、我が家の朝ごはんはかなり美味いぞ?」
自分で用意している訳でもないのに無責任な提案をする私。しかし、昨夜、阿良々木先輩を食卓に上げたのも突発的な流れだった筈だ。扇くんをおばあちゃんに紹介しなければならないのは多少頭が痛くなるが……まあ、朝ごはん一人分くらい増えたところでどうにかなるだろう。
「他でもない駿河先輩からのお誘いですし、神原家のダイニングでご相伴に与ることになるのも悪くはないんですが……いえね、もう一つ懸念がありまして」
「なんだ? 私はこれ以上何を心配しなきゃならないんだ?」
より正確に心配事を言うなら『きみが何をしでかすのか』なのだが。そんな私の憂いはつゆ知らず。
まあ、質問から察しがついている通り『食事』に関する話なのですが――なんて、扇くんは前置きして。
「駿河先輩の身体が、液体の『水』のみならず『水分』に反応するとなると、非常にまずいことになるかと思いまして」
「ん? ……『水』と『水分』って違うのか?」
なんだか小学生の理科の勉強みたいな話になってきたが、意外とその頃学習した知識ってもはや常識に近いところもあるからか、改めて問われてみると定義が難しかったりするんだよな……。
「理数系が苦手な駿河先輩もご存知かとは思いますが、人間の約六十五パーセントは水分です。なので水を摂らなくては文字通り、生きていけません」
「まあ、そうだな」
「なので、駿河先輩が水を飲んだら内臓から溶けていく、なんてことになったら大変です。生命活動に支障をきたすどころじゃありません。内側から溶けてなくなってしまいます」
なんて、扇くんは物騒な物言いをしたが、それは存外的確な指摘だっただろう。
「そして、さっきの僕の仮説が正しかったとするならば、溶かした五臓六腑を復元出来るとも限りません。内臓なんて、普通に生活する分には意識していないものですからね」
言われて、ひゅっと、空いていた筈のお腹が縮こまるような気配がした。どうしてこうも次から次へと恐ろしい可能性を提示出来るんだろう、この子は。
「飲料に限りませんよ? 食品にだって多かれ少なかれ、水分が含まれていないものの方が珍しいですし」
「え、えっと、それは大丈夫だと思う」
多分。
「い、いや……内臓が溶けているかどうかなんて、どうやっても確かめようがないから分からないけれど。少なくとも昨日から普通に食事はしているし、水も気にせず飲んでいた」
それがまずかったのだとしたら、迂闊な自分は扇くんに責められて然るべきだろうが。しかし、
「ならば大丈夫そうですね。『個体が液体に溶け出すようだった』という駿河先輩の認識は恐らく正しいのでしょう。多量の水というか、ここは『水溜まりに弱い』とでも言いましょうか」
彼は私の軽率な行動を気にした様子もなく、そんな風にあっけらかんと結論をまとめたのだった。
私の旺盛な食欲は見事に失せてしまったけれど。
「水だって所謂分子の集合体なので、どこから水溜まりというのか今ひとつ基準が曖昧で、すっきりしませんがね。流水にだって溶けてしまいましたし。シャワーを長時間浴びるのも、あまり良くないのかもしれませんね」
流水に溶かしたのは他ならぬきみの所為だがな。と、文句を言いたい気持ちはあったけれど、いい加減根に持つ先輩だと思われても面白くないので、ここは口を閉ざしておくことにしよう。
「溶けている間は、失った箇所の感覚はないんですか?」
「んー……傷の痛みとか、そういうはっきりしたものの有無を見ると、感覚も一緒に失ってるような気もするな。しかし、不思議と自分の身体のパーツがなくなった、という感じはしないんだよな……」
流されてからこっち、いじらしく再生し続けている自分の腕を見る。今も、右手の指先を動かそうとすれば動かせそうな気はするけど、肝心の指がない、という印象だ。
内臓の有無なんて、尚更分からない。
しかし、お腹が空いて胃が鳴ったということは、あるんじゃないかな?
多分、ある。
「……でも」
身体が溶け始めてから、阿良々木先輩には絶叫され、扇くんには色々遊ばれて――もとい、思案されているけれど。
「そんなに大変なことかな? 要は水辺に気を付けていれば、そうそう身体を溶かすこともないだろう? 仮に溶けても時間を置けば、一応は元の形に戻ることだし。ひとまず日常生活は問題なく送っていけそうだぞ……きみのような子がいきなり水を浴びせてこない限りは」
「大変ですよ。由々しき事態です。本当に『意識していなかったものは再生されない』説が正しかったとしたら、いつ元に戻れなくなるとも限りませんしね。どこからが自分で、どこからが自分じゃないのか。自我の境界があやふやであるということは、とても危険ですよ」
なんて、私の嫌味を華麗にスルーして、やけに哲学的なことを言う扇くん。しかしそれは私にとって、当たらずといえども遠からずなアドバイスである気もした。
私は他人から影響を受けやすいところがある、と自覚してはいるのだ。一応。
自我の境界。
どこからが自分で、どこからが自分じゃないのか。
人の意見に流されやすく、簡単に感情移入してしまいがちな私の性格を、扇くんは見抜いているのだろう。
しかし、およそ一年の間左腕を隠し通してきた私のことだ。異常な状況に対して耐性が付いてしまっているのかもしれないが、正直な話、自分の置かれた立場についての危うさには、今ひとつピンと来ていない。
「んー、まあ、ちょっと難儀なのはお風呂とかかな。それこそシャワーを騙し騙し浴びるくらいならなんとかなりそうだが、湯船にゆっくり浸かるのは避けた方が良さそうだし」
「うーん、そういうことを心配してるんじゃないんですけどね……僕で良ければ、介助者として付き添いますが」
「きみじゃ良くないからお願いしないよ」
きみ、男の子だろう。
さらっと混浴を提案しないで。
「それから、今回の件も内輪の話に留めておく方が無難でしょうね。駿河先輩は水に触れない、なんて知れたらあなたの一ファンである僕同様、きっと学校のお友達も心配しますよ」
「それは……うん。なんとかばれないようにするよ。嘘を吐くのは得意だし」
「褒められる特技じゃありませんね。使えるスキルではありますが」
辛口の評価を下しながら、私の部屋を一瞥する扇くん。
彼の視線が止まった先。寝床の近くに転がっていた包帯の束と、置きっぱなしの松葉杖を目敏く見咎めて。
「それに――今や一緒に暮らしている沼地さんだって、例外ではないでしょう?」
「いや、あいつは……そこまで他人のことを気にするような奴じゃないし」
他人というか、私というか。
実際、『ふうん? それは大変だね』の一言で片付けられて、それで終わりだった。
原因が分からない以上、その先はどうしようもないから、ともとれる反応だが、『悪魔様』が欲する悩みごとの相談は、話の経緯や経歴を重要視する傾向があるから、何の前触れもなく起きた私のそれは、彼女の興味の対象外なのだろう、きっと。
そうでなくとも、彼女は怪異を知ってはいるが、専門家ではないし。寧ろ、行き遭った怪異の数だけ見れば、私より素人に近い。あまり突っ込んだことは聞かれなかった。
およそ二年前、私が戦場ヶ原先輩の『病気』について知った時、変に『なんとかしよう』として失敗した私とは違って、沼地は冷静だった。
それはそれで、ありがたいことなのかもしれない。少なくとも、下手に気を遣われるよりはよっぽど気が楽だ。
「でも、お友達なんですよね?」
「沼地は友達じゃないよ」
「……そうですか」
その辺り、僕のような奴にはちょっと分からない話なんですよねえ、と扇くんは不思議そうにぼやいたが、それは相応な意見だろう。
だって、私だって分からなくて、悩んでいるのだから。
そして結局、その日は扇くんに付き合わされ、私は右腕のみならず上半身と左半身を溶かすことになったのだが、いずれもちゃんと元には戻れたということを報告しておこう。
05
「神原選手、肩」
「あ」
相手の視線に合わせて自分の左肩を見ると、雨に打たれた私の肉は静かに水と化していた。
これ以上滴が身体に跳ねないように、傘を差す角度を改める。まったく、自覚症状がないというのは厄介なものだ。
濡れた制服の生地の下。溶かしてしまった左肩に衣服が不自然に張り付いているが……まあ、大丈夫だろう。この雨の中、相手の傘の中まで覗き込んでくる人もそういるまい。
隣を歩いているこいつを除いて。
「この時期に雨具を忘れる方がおかしいんだって。今朝も天気予報で言ってたぜ? 午後から降るから傘を持って出るようにって」
「それでも走って帰るから問題ないと思ったのだが……」
それも、体調の変化が――怪異現象が起こる前の話か。
「折角迎えに来たのに、随分な態度だね」
「頼んだ覚えはない」
「この雨じゃあ、どうせ一人で帰れなかっただろう。私が来なかったらどうするつもりだったんだよ」
「う……」
分かりやすく言葉を詰まらせた私だったが、それ以上沼地から詰られることもなかった。
気持ちに合わせて視線を下げると、相手の傘の下では、松葉杖をつくのに合わせて濡れた地面が波紋を描いている。
……雨、か。
なんだか昔から、私と相性が悪い相手である。
三年通って見慣れた通学路も、濡れた景観ではどこか重苦しいものに感じられてしまうのは、気の持ちように過ぎないだろうか。
溶けた肩を隠して歩くには、雨傘は心許ない防御壁なのだと知ることになった。
◇
阿良々木先輩と調査をしてから十日。
扇くんと実験をしてから九日。
それから先は特に大きな変化はなく、日々は平穏に過ぎていった。
時たま、今みたいにうっかり指先を溶かしたり、知らぬ間に足先を溶かしたり、と言うようなことはあったけれど。一応は、人間としての形は保ったまま過ごしていた。
液体を避け続ける生活も、慣れてしまえば問題ない。
慣れさえすれば。
異常も日常、異常こそ日常。
如何に非現実的で悲劇的な状況に置かれようと、人間、案外生きていけるものなのだ。
生きていける筈だ。
生きていかねばならない。
問題を強いて挙げるとすれば、毎日の様に阿良々木先輩から届くメールの、現象解明の成果が上がらない旨とそれ故の彼の落ち込みぶりが伺える文面に対し、慰めやら励ましやらの言葉を選ぶのが大変なことと、
「濡れた手できみのおっぱいを触ったらどうなるんだろうねえ」
「洒落にならないから止めろ」
こういう具合に、私をからかうような沼地の発言を、扱いあぐねていることぐらいか。
前科一犯。
胸のサイズには困っていないから、勘弁して欲しい。
近づいて来た嫌味ったらしい笑顔に、分かりやすく煙たがってみせると、彼女は特に未練もなさそうに退くのだった。
「それで、何を思い悩んでいたのかな?」
「え」
開いた私と沼地との間、前触れなく投げられた質問に、思わず歩みを止めてしまった。それがいけなかった。
分かりやすい反応を返すことはすなわち、彼女の指摘が正しいものだったと認めてしまうことになったからだ。
やっぱりね、と沼地が目を細める。
「肩をそんなに濡らすくらいだ。考えごとでもしていたんだろう?」
「私がものを考え込むようなタイプに見えるか?」
「以前の私なら否定してあげたかもしれないけれど……そうだな。どちらかと言えば、きみは気持ちを溜め込むタイプだろうね」
「…………」
彼女の観察眼は侮れない。
それは互いがコートの中にいた時から経験則で知っている。
「はは、これでもカウンセラーの真似事をしていたからね――完全に独学だけれど。悩んでる人間が、どんな顔をしているかくらいなら知っているよ? 今のきみが浮かべている表情は、典型的なそれだ」
ゆったりとした口調で自分の論を語られてしまうと、まるで沼地の言うことが真であるような――自分の気持ちを言い当てられたかのような気持ちになってしまうのは、流されやすい私の悪い癖だろう。
所詮、雰囲気に飲まれているに過ぎないのに。
「身体が溶けてもめげないきみが、そう落ち込むとは珍しい」
「別に、落ち込んでなんか……」
「ないって、言える?」
「…………」
押し切られた私は沈黙に逃げたが、私のリアクションは『悪魔様』が自分の見立てを確信するに十分だったらしい。
相手の不幸話の尻尾を掴んだ彼女は、頬が緩むのを抑えきれない様だった。
「さて、受験生の神原駿河さんは、どんな悩みごとを抱えているのかな?」
◇
今年の夏こそ海に行こう、と誘って来たのは日傘の方だった。
「受験生なのにか?」
「受験生だからこそよ。一日くらい息抜きしないとね」
と、日傘は自分の机にスケジュール帳を広げた。一緒に海に行くクラスメイトの名前を、指折り数えて列挙しながら。
「ほら、るがーは去年、行かなかったじゃない? 折角左手も治ったんだし」
「ああ、……そうだったな」
実は、私は去年も彼女の誘いを断っていた。一年前の夏――その頃の私の左腕にはまだ猿の手がくっついていて、水着になる訳にいかなかったから、という理由で。
だから、折角声を掛けてくれた日傘の気持ちを続けて無下にするようで、少し心苦しい気持ちはある。
しかし、私は今回も、その誘いを断らなければならなかった。またしても、本当の事情を伏せたまま。
まさか『海に入ったら身体が溶けてしまうから』なんて言える訳もない。怪異絡みの理由だから、何も知らない日傘に正直に話す訳にはいかないだろう、と自分を宥めてはみたのだが、こちらを慮って提案してくれたであろう友達の気持ちを思うと、自分の胸は痛むのだった。
「そっか。用事があるんだったら、仕方ないね」
と、彼女の掌の中で、ぱたん、と手帳が畳まれる。その音がやや物悲しく聞こえるのは、自分が抱える後ろめたい気持ちの所為か。
嘘を吐くことに罪悪感は覚えない。
ただ、ちょっと贅沢な悩みを吐露すれば、目の前の友達が笑って許してくれることが、今は少しつらいかな。
日傘は日傘で、そんな私を見て、何か思うところがあったらしく。
「もう、るがーってば……なーんか最近、付き合い悪くない?」
「すまん。また――」
来年誘ってくれ、と言いかけて、それはもう訪れない機会なのだと思い直す。
私達は受験生。すなわち、高校三年生。
高校生活最後の夏、私はもう日傘と海に行くことはないだろう。
◇
「やれ、神原選手もえらく寂しい立場になったじゃないか」
と、語り終えた話に対し、そんな感想をこぼす沼地。
他人事だと思って随分と冷嘲的な言葉を選んでくれるな、と私が嫌な気持ちになったのは確実だったが、しかし、下手な同情や慰めを貰うよりは、かえって良かったのかもしれない。
寧ろ責めて欲しかったくらいだ。
友達を思いやれない私を責めてくれれば良かった。
沼地も。そして日傘も。
「そう気にすることもないんじゃない? 奇々怪々な現実だって、存外受け入れて貰えるかもしれないぜ? 友達なんだし」
「……友達だからこそ、だよ」
友達だからこそ、言いたくない。
特に日傘は怪異関係者じゃない。
怪異に関われば、怪異にひかれやすくなる。
それは私自身にも、そして沼地にも言えることなのだが。
私の左腕にくっついていた猿の悪魔は、今や沼地の手中にある。全身のあちこちに悪魔を宿している彼女だが、元々は故障した左足の代わりを得たことが、悪魔の蒐集という悪趣味を始める引き金となった筈だ。
初めのきっかけこそ私にないが、悪魔の左足と、悪魔の左手が私達を引き合わせたことは、その法則を裏付けする事実だろう。
後ろ向きで――後ろ暗い事実だ。
だから私は、同い年の女の子にしては起伏に富んだ人生を歩んでいるであろう沼地から、そんな浅薄な言葉をかけて欲しい訳ではなかった。
やっぱり言うべきじゃなかった、と後悔しても、今更だった。
沼地の――ひいては『悪魔様』の言葉はその場限りの気休めだと分かっていながら、不思議と口を軽くしてしまうのはどうしてなのだろう。
「じゃあ、私のことは?」
「え?」
「神原選手は、私のことはどう思っているのかな?」
相手の意図を読み取れず、間抜けな声を漏らした私に、同じ質問を繰り返す沼地。
話の流れで場に出たに過ぎない、何のことはない問い掛けの筈なのに、私の心臓はどきり、と跳ねた。
深紅の傘の下、鋭さを増した沼地の眼光が露わになる。
私の不幸話を聞きながら浮かべていたおいしそうな表情は、もうどこにも残っていない。
「きみの身に起こった怪異現象を、私は当然のように教えて貰った訳だけど、それは一体どうしてなのか。そういうことを私は訊いているんだよ」
「どうしてって、それは――」
今更気を遣うような間柄ではないから。
怪異の存在を知っているから。
お前は友達じゃあないから。
と、真っ先に浮かんだ冷たい言い訳の数々は、私の口から出かかったものの、最後まで喉を通り抜けることはしなかった。
沼地蠟花は友達じゃない。
扇くんに言ったその言葉は、真実である。
しかし、友達じゃなければ一体、何だと言うのだろう。
分かりやすく言葉を詰まらせた私は、相手に訝し気な顔をさせてしまうだけだった。
そんな私を見兼ねてなのか、沼地は自分の傘を閉じて、私の隣に立つ。
小柄な彼女一人が入っただけで、私の差していた防御壁は狭くなる。柄から落ちた雨垂れが、私の頬を濡らした。
狭い雨傘の中に、逃げ場はない。
「ん……」
これは春先から分かっていたことなのだが、神原駿河を困らせると、沼地蠟花の心は慰められるらしい。
なんて悪趣味なのだろう。
そして最近分かったことは、彼女は私を困らせる為の方法を熟知しているということだ。
まるで、敵に弱点を握られているかのような感覚――それがとても悔しくて歯がゆい。
「終わってから嫌な顔をするくらいなら、始めから逃げれば良かったのに」
「…………」
「嘘だよ。からかっただけだって。きみが私のことを快く思っていないことも、私はちゃんと分かっているさ」
と、一度だけ触れた感触に、沼地は自嘲的な感想を述べたが、私は何も言えなかった。
場に持ち出された誤魔化しの方法が、いやに優しくて、ただ泣きたくなっただけだった。
……そういえば、泣いたらどうなるのかな。
私の涙は、私の頬を溶かしてしまうのだろうか。
手の甲で乱暴に口元を拭う。懸念も感傷もまとめて。
沼地蠟花は友達じゃない――ましてや、気軽にキスを交わして良い間柄でもない。
だけど。
私と沼地の関係がなんでもないものだとしたら、今しがた捧げられたファーストキスは、何の意味もないものになるのだろうか。