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「なんだか心持ちが良くないのだ」
 と、のっけから不穏な空気を纏わせながら、神原が僕の頭頂部に顎を乗っけてきた。いや、僕はお前の顎置きじゃないし、僕の献身的な奉仕活動(清掃)をそうも簡単に邪魔出来るお前の気持ちが分からないし、それに一応、僕ってこれでもお前の先輩なんだけどな――と、つまらない恨み言の類が雨上がりの筍の如くぽこぽこと脳裏に浮かび、そしてすぐに霧散していき、結局最後には何ひとつ残らなかった。というのも、僕の首の後ろにいやに積極的に押し付けられている何やら柔らかな感触が、僕の思考を丁寧に相殺していくからである――いやいや、神原くんとの戯れもそれなりに熟れてきたつもりだったが、こうも斜め上の攻め方をしてくるとは、中々どうして侮れない。成程、阿良々木先輩が少なからず慢心していたことは認めよう。しかし、後輩のさり気ないようでいて実はあからさまな主張に対し、そう易々と屈する訳にもいかないのが先輩というものだ。僕にだってプライドがある。あるのかないのか分からない――そんなもん、寧ろ神原の部屋のゴミと一緒に潔く捨てちまった方が生きやすいんじゃないかと、よく議論の対象に挙げられるようなプライドが。オブラートの如く薄くて柔らかいプライドが。
「さて、聡明な阿良々木先輩なら、ここで私が何を言いたいか、分かってくれるのではないかと思うのだが――」
「しない」
「え?」
「しないからな」
「ま、まだ何も言っていないのだが……まさか本当に阿良々木先輩が私の心を読んでくるとは思わなかった。実は空気が読めるお人だったのだな、私の阿良々木先輩は。私はそういう方面が不得手なので、是非とも読み方を教えて欲しいものだ」
 言って、神原の顎の位置が頭部から肩に降りていく。その動作が異様にゆっくりとしたものだった所為か、図らずも己の心拍数が上昇してしまった。頭が隣り合ってすぐ、そのまま頬を猫のように擦り寄せられ、肌と肌との接触面積が増える。久方振りに自分のものではない体温に触れて、背筋にぞくりとした何かが走った。まるで身体の奥の一番柔らかい場所を優しく撫でられているかのようだ。不味い、これは不味い気がする。こんなことで白旗を挙げたくはないのだが、もう逃げ場がなくなってしまったような気持ちになる。いやさ、そもそもさ、お前が本当に空気が読めない奴なら、そんな手練れな誘い方を選ぶ筈がねえだろうが。今度こそ文句を言ってやるからな、と睨み付けてやるつもりで相手に視線をやると、丁度神原は僕に向けてウインクをひとつして見せたところだった。殆どゼロ距離に近い、超至近距離で。……如何にも冗談めいた所作だったから、本人の中で深い意味はなかったのかもしれないが、しかし、僕がなけなしの矜持で死守していた最後の一枚のオブラートが破れたのはそのタイミングだった。畜生、可愛いじゃねえか。

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至情には未だ遠い #6

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 新しい辺境伯の放蕩癖は折り紙付きだ。そんな噂話が耳を掠めたことだって一度や二度じゃないし、事実、家を継いで暫く経つが、己の女癖の悪さは当面鳴りを潜めることはなさそうだ、なんて他人事のように思っていた最中。戦火が収まり、実家に戻って、平和と女遊びを存分に享受していた俺の元に先生が訪ねて来たのはまさに晴天の霹靂だった。思えば学生時代からそうだった。この人はいつだって唐突に現れ、停滞していた周りの時を動かしていくのだ。

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ビターチョコレート

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 最寄駅とは反対方向にある菓子屋のケーキと数字を象ったカラフルな蝋燭を引っさげた先生は、約束してきた時間をとうに過ぎた頃に俺のマンションのチャイムを鳴らした。一体どこで油を売っていたのかと思えば。今日はもう来ないのかと思った。てっきり忘れちまったのかと。せめて連絡のひとつくらい入れてくださいよ。だけど覚えていてくれて、うれしい。ひとりきりだった間、心に溜めていた文言はそれなりにあった筈なのに、望んでいなかったサプライズを前にしたら、どれもこれも口から出る前に失せてしまった。靴紐を解く背中に向かってただ嘆息する。しかし、幸か不幸か、俺の複雑な想いを乗せた溜め息は先生には届かなかったようで。
「誕生日おめでとう」
 俺が何か言うより先に、静かでだけど芯のある声がシンプルに胸を突いてきた。

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至情には未だ遠い #5

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 駄目で元々、気付かれなかったらその時はその時。なんて具合に、なるべく控えめに戸を叩いたというのに、先生は動じることなく俺を出迎えて、当たり前のように部屋に招き入れた。勿論、真夜中の逢瀬の約束なんてしていなかったので、寧ろ訪ねてきた俺の方が面食らってしまった。先生があまりにも涼しい顔をしていたから、都合良く勘違いしてしまいそうになったが、腰を下ろした寝具にはまだ温もりがあった。俺が通りがかった時に偶然起きていた、という訳ではないらしい。
「突然すみません、迷惑でした?」

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至情には未だ遠い #4

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 先生が新しい王様になるってんで、偶には恭しく花でも贈って差し上げようかと考えて、止めた。今でこそフォドラを救った英雄だとかで持ち上げられているが、あの人がそんなことを望んでいるとは露程も思えなかったので、生花の代わりに馴染みの茶葉と菓子を携えて、部屋の戸を叩く。ベルガモットティーが詰まった缶を前に顔をほころばせる先生を見て、俺の観察眼も捨てたもんじゃないな、と少しばかり誇らしくなった。

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