ビターチョコレート

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 最寄駅とは反対方向にある菓子屋のケーキと数字を象ったカラフルな蝋燭を引っさげた先生は、約束してきた時間をとうに過ぎた頃に俺のマンションのチャイムを鳴らした。一体どこで油を売っていたのかと思えば。今日はもう来ないのかと思った。てっきり忘れちまったのかと。せめて連絡のひとつくらい入れてくださいよ。だけど覚えていてくれて、うれしい。ひとりきりだった間、心に溜めていた文言はそれなりにあった筈なのに、望んでいなかったサプライズを前にしたら、どれもこれも口から出る前に失せてしまった。靴紐を解く背中に向かってただ嘆息する。しかし、幸か不幸か、俺の複雑な想いを乗せた溜め息は先生には届かなかったようで。
「誕生日おめでとう」
 俺が何か言うより先に、静かでだけど芯のある声がシンプルに胸を突いてきた。声だけでなく手もこちらへ伸びてきて、そのままくしゃりと髪を掻き分けてくる。するといよいよ自分が幼い子供にでもなったような気がして、どうしたら良いか分からなくなってしまった。そうして流されるままに二人きりの誕生会が始まる。ダイニングのテーブルには俺の好きな紅茶が並んだ。それからケーキ。チョコレートに酒精が混じったそれは大人の為に作られたような味だった。俺はすっかり子供の気持ちでいた所為か、食べ始めてすぐに頰が熱くなった。甘い。美味い。でも甘い。一年ぶりのホールケーキは二人がかりでも半分消費するのがやっとで、残りの半分はラップをかけて冷蔵庫にしまい込んだ。皿とティーカップを流しに片付けてしまうと、俺の誕生日はあっという間に終わってしまった。跡には蝋燭の芯が燃えた匂いが少し残っているだけ。だけど未練がましい気持ちを抱えているのは俺だけのようで、先生はもうシンクで泡立てたスポンジを握り締めている。
「せんせ、」
 そんなのあとでで良いですよ。と、相手の腕を引っ張ってベッドに誘う。仰向けに寝た自分の胸に、先生は抵抗なく埋まった。若草にも似た翡翠色の髪を撫でる。本当はケーキなんかどうでもよくって、先生さえいてくれれば、俺は他に何も要らない。そんな本音をぶちまけてしまいたい気持ちと、だけど言ったら先生は悲しむだろうかという気持ちが腹の奥でないまぜになる。だから俺はしょっちゅう言葉の加減を間違える。この人のことは未だによく分からないけれど、とにかく手放したくなかった。この若草の髪をずっと撫でていたい。俺だけが。ずっと。多分、これも言わない方が良い。だけど、いつにも増して頰が熱い。
「ねえ、先生。ずっとここにいてくれませんか?」
 自分の口から漏れた声があまりにも芯のない声だったので驚いた。が、先生は気にした様子もなく。
「いいよ」
 と、言う。こともなげに。
「明日も?」
「うん」
「明後日も?」
「明後日は講義だから。講義が終わったらここに来るよ」
「約束ですよ?」
「うん」
「とか言いながら、今日みたいに遅刻してくるんでしょう?」
「……善処はする」
 自分のどうしようもない我儘に、胸元で馬鹿みたいに真面目に頷いた気配があって、俺の機嫌は少しだけ上を向いた。先生の前では、俺は子供のようになんでも尋ねたくなった。先生は自分からものを語ることは少なかったが、訊いたことはちゃんと答えてくれる。だからこの人は俺にとっていつまでも先生だった。
「先生は、どうして俺に優しくしてくれるんですか?」
「一生を懸けて幸せにすると決めているから」
「俺を?」
「うん」
「どうして?」
「ずっと昔にそう決めた」
「ずっと昔?」
「うん」
 それに、先生はちょっと変わった人だったから、偶に変わったことを喋る。俺はそのちょっと変わった話を聞くのが好きだった。ほんの一時でも、先生と一緒に浮世を離れたような気持ちになれるから。ずっとむかし。と、俺はまた小さな子供のように、先生の呟きを口の中で真似てみる。どこか舌足らずな自分の声が耳の奥でぐるぐると回る。
「例の如くというか、いつものあれですか。前世ってやつ?」
「そんなところかな」
「ふうん」
 だとしたら、そのずっと昔の俺って奴は、よっぽど良い男だったんですねえ。茶目っ気たっぷりにぼやくと、先生の視線は否定的になったので、どうもそういう訳でもないらしい。湖の水のように綺麗な色の瞳が怪訝そうに歪む。だけど、どこか満更でもなさそうな調子だ。多くを語らない先生は自分の気持ちを教えてくれることも少なかったが、それでも俺を好いていてくれるようだった。自分の胃の中に収めたケーキも、冷蔵庫の中で眠っているもう半分も、それを肯定してくれている。
「ね、先生。俺は今、幸せですよ」
 相手の頰を両手で包んで覗き込む。いつもは凪いだままの先生の瞳が、アルコールの所為か蕩けて見えた。先生。ねえ、先生。俺、幸せですよ。だから……、だから。掌を取って、下腹に導く。先生は優しいので、そのまま優しく俺を撫でてくれた。掌の温かさに力が抜けていく。気持ち良い。ずっとこうしていたい。だけど俺、知ってるんですよ。本当は、先生の言うずっと昔の俺とやらが先生に親切にしていたから、俺はそのおこぼれに与れているだけで、ずっと昔の俺じゃない今の俺は、あんたにとってなんの価値もない奴だってこと。先生が気付いていないだけで。だからずっと、気付かないままでいてくれれば良いのにな。

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