新しい辺境伯の放蕩癖は折り紙付きだ。そんな噂話が耳を掠めたことだって一度や二度じゃないし、事実、家を継いで暫く経つが、己の女癖の悪さは当面鳴りを潜めることはなさそうだ、なんて他人事のように思っていた最中。戦火が収まり、実家に戻って、平和と女遊びを存分に享受していた俺の元に先生が訪ねて来たのはまさに晴天の霹靂だった。思えば学生時代からそうだった。この人はいつだって唐突に現れ、停滞していた周りの時を動かしていくのだ。
直近で最後に寝た女の面影が部屋から、そして俺の記憶から消え去りつつあった頃。白んでいく窓の外を寝台の中から眺めながら、部屋の戸が叩かれる音を半分寝ぼけた頭で聞いていたのだが――大司教猊下がお見えです。という、文言が耳に届いた途端、俺の脳はばちりと目が覚めた。扉越しに伝えられた従者の声には分かりやすく困惑が滲んでいたが、俺だって驚いた。だって、そんな話、聞いていない。寝起きですっかり渇いていた喉を水差しの水で潤して、跳ねっぱなしの髪をばりばりと掻く。本音を言えば湯浴みの時間が欲しかったのだが、セイロス教の最高責任者が事前の書簡も無しに訪ねて来た時点で徒事じゃない。暢気に待たせておく訳にもいかないだろう。と、そのまま羽織を肩に引っ掛けて部屋を出た。全く、数年越しの再会だってのに、ちっとも様にならない。
「お久しぶりです、先生。すみませんね、こんな格好で」
しかし俺も諦めが悪いので、なけなしの矜持で甘い声を作りながら、恩師の前で恭しく礼をした。大修道院で別れたあの日あの時以来の先生が、久しぶりだね、と返してくれる。人目を惹き付ける明るい髪は少し伸びたようで、先代の大司教を彷彿とさせた。表情筋の鈍さは健在で、だけど澄んだ声は嬉しそうで、俺も懐かしさに心を砕いてしまいそうになるが、そう悠長に構えてもいられない。よくよく見ると、纏っていた黒い外套は所々に粉雪が降り積もっている。如何にもそのまま身一つでここに来ました、といった出で立ちだ。
「聞いてはいたのだが、やはりこっちは寒いね」
「そりゃこの季節に馬を走らせたらそうなるでしょうね」
「瞼が凍るかと思った」
「遭難しなくて良かったですよ。いや、真面目に」
そんな適当な挨拶をおざなりに交わして。さて、どうして前触れなく俺の元を訪ねて来たのか。まさか元教え子の寝起きの顔を拝みたくなった訳でもあるまいし、と俺が首を傾げてみせたところ、
「偶々通り掛かったから」
と、きたもんだ。
「偶々通り掛かりますかね? こんな辺鄙な土地を」
呆れと安堵を丁度半分ずつ交ぜた溜め息をこれ見よがしに吐いてみせたが、先生は平然としている。どころか、
「シルヴァンに会いたくなったから」
なんて殺し文句を投げてくるのだから、堪ったものではない。先生の冗談の感性はどこかズレていることは、教え子の間でもそれなりに知られていた話だった。
「……ああ、はい、分かりました、分かりましたよ。折角偶々会えたんだ。とりあえずお茶でも飲んでってください」
言って、俺は大司教猊下に椅子を勧めて、部屋に茶器を一式持ってこさせるよう家の者に命じた。そして薄々予感はしていたのだが、先生は従者の一人も付けていなかった。なんてこった。相手の身の重さを知る貴族なら、そこで苦言のひとつでも言うべきなのだろうが、生憎、俺は真面目な領主じゃなかったから、吹雪に叩かれた所為で赤くなっていたであろう頬にキスを落とすだけに留めた。先生も先生で自由な感性を持つ人なので、そりゃセテス殿も頭を抱えたくなるよな――なんて、どこかで聞いた風の噂を思い出しながら。
至情には未だ遠い #6
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