Vampirism

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08

「これはこれは阿良々木先輩、ご機嫌如何ですか? お一人で過ごされているお昼休み、そろそろお腹が一杯で眠くなっちゃう頃合いですか?」
 藪から棒に、僕の友達の少なさを嘆くような言い草を交えながら、そんな質問をくべてきそうな知人を、僕は一人しか思い付かない。
 弁当箱を片付け終えたばかりの僕の机に影を落としたのは、予想に違わず、忍野扇ちゃんだった。
 今日の彼女から、僕はどんな答えを期待されているのか。なんとなく察しがつかない訳じゃあなかったけれど、あえて自分から核心に触れるのは止しておこうとは思ったのだった。
「いえいえ、大したことじゃありませんよ。こうして一年生が三年生の教室を遥々訪ねてきたことに、大した理由はございません。ただ先程、神原先輩が珍しく青い顔をして歩いておりまして、これは阿良々木先輩が一枚噛んでいるのではないかなー? なんて思ったものですから」
「予想を外すとはきみらしくないね」
 否、きっとわざと外したのだろう。扇ちゃんの物言いはいつも通り飄々としたものだったが、言葉のニュアンスは確実に僕を刺そうとするそれだった。
 神原が目に見えて不調という情報をスルーする僕ではなかったが、しかし、幸か不幸か。
「僕が原因じゃないよ。今回は――」
「あなたが血を吸ったからじゃないと。ふーん? 私の早とちりでしたか。疑ってすみませんでした」
 と、扇ちゃんは捲し立てるように謝罪の言葉を述べて(やや形式的な感じは否めなかったが)、ぺこりと頭を下げた。
「じゃあ生理ですかね?」
「あのさ、僕って一応男だから。もうちょっとオブラートに包んで……」
「おっと、こちらはビンゴですか? はっはー、一月に一度の割合で調子が悪くなる辺り、阿良々木先輩とお揃いですね」
「きみだって女の子なんだから、そう不謹慎なことは言うもんじゃないよ」
 実はちょっと気にしていた――というのは秘密だが。概ね当たりである。
 ええと、月の満ち欠けの周期が二十九日くらいで、女性の生理周期が二十八日くらいなんだっけ? 自分の付け焼き刃的な知識を辿ってみると、まあ、そんな印象を持たれても仕方ないのかもしれない。
「見るに、阿良々木先輩も随分とお辛い時期のように思えますが――はて、今宵は満月でしたっけ?」
 言って、過剰に身を乗り出してくる扇ちゃん。大方、僕の八重歯の様子を観察しようという腹積もりなのだろう。
 困った。歯医者さんごっこは嫌いじゃないけれど、今ここで素直に彼女の仮説を真と認めるのは良くない気がする。
 自分の口元を掌で覆ってやっと、扇ちゃんは覗き込むのを止めてくれた。尤も、僕の吸血鬼的コンディションを計るには、その反応だけで十分だったのだろう。
 ははあ、成る程。と、彼女は一歩引いて。
「『特別』に具合が悪い神原先輩と『特別』に具合が悪い阿良々木先輩がブッキングするというのは、なんとも相性が良いというか――この場合は相性が良すぎるとでも言いましょうかね」
 そんな評価を下したのだった。
「しかし、相手はあの神原先輩でしょう? 自分の体調不良を理由に、あなたに理不尽な断食を強要させるようには思えませんが」
「……まあな」
 実際、その通りだから苦労させられる。

 流石の僕でも、月経の諸症状は聞きかじっているので(妹達を見て少なからず学ばせて貰った)、そんな状態の神原からどうしても血を吸いたいとは思えないのだけれど、それはあくまで理性的な頭で得ている見解であることは否定出来ない。
「だから、我慢などしなくて良いと言っているではないか。私の身体のことなど、阿良々木先輩が気にすることではない」
 なんて、神原は鷹揚に言いのけるけれど、それは僕には聞けない相談だった。
 これから先の未来にだって、僕の周期と彼女の周期が重なる日だってあるだろう。だからこれは、今後の課題でもあった。向き合うべき問題だ。今後の人生――いや、吸血鬼生に関わってくる難題だ。
「ふむ。阿良々木先輩は女子に優し過ぎる傾向があるな。彼女としてそれは嬉しい長所ではあるが、もう少しこのエロ奴隷を信用して欲しいものだな」
 と、口を尖らせる神原。その顔は健康的なスポーツ少女に似合わず、幾分か血の気が薄い様に見えた。……見ようによってはというか、あくまで些細な、ほんの僅かな変化なんだけど。
「だろう? それに、少なくとも酷い方ではないと思うし。私の周りの女子を見ている限りでは」
 と、当事者は言うものの。
 勿論、彼女を心配する気持ちはあるのだが、意地も張り続けてここまでくると、もはや僕のプライドの問題なのである。当の神原からはそんなものさっさと捨ててしまえと言われかねないので、黙ってはおくが。
 問題をすり替えることで、あたかも正当化した気になっているなんて、決して褒められた行いじゃない――と、扇ちゃん辺りにはこんな風に詰られそうだ。
 ならば、あんまり気は進まないが。
「折衷案といこうぜ」
「折衷案?」
 神原は首を傾げた。
 見れば、彼女はもう制服の前を開けていたが、その前準備は不要なものになるので、僕はボタンを掛け直そうと手を伸ばす。
「なんだかよく分からないが、阿良々木先輩の言うことに間違いはなかろう。阿良々木先輩がどんなに前衛的なプレイを選んだとて、私に拒否する理由はないのだ。早速その案に乗ろうではないか」
 と、胸を張った。
 ……制服を正す僕の目前でいきなり胸を張られたから、視界がやや刺激的なことになったが、黙しておく。発言から彼女の懐の大きさを感じ取りはしたが、弾みに横に引き伸ばされたボタンホールからおっぱいの大きさを感じ取るべきではない。
「前々から思っていたけどさあ……お前、僕のこと信用し過ぎじゃない?」
 今だって邪な思いを抱いたばかりだというのに。
 こんな僕を先輩として尊敬してくれることに、そして恋人として慕ってくれていることに僕は救われもしてきたが、何故だろう。過剰な信頼はどこか危険な気がする――その漠然とした不安が何を指していたのかを知るのは、もう少し先の話なのだが。
「じゃあ……ちょっと目、瞑って」
「どうして?」
 不思議そうに首を傾げる神原だったが、その質問は愚問だろう。
 そんなの、恥ずかしいからに決まっているじゃないか。

 貪るようにキスをする、とはよく言ったもので。
 誤解を恐れずに言えば、彼女とキスをするのは初めてではないのだが、どうしたって恋人という立場を利用して相手に付け込んでいる感覚は否定出来なかった。目的意識が違えば、捉え方も違う。
 彼女の唾液を摂取する為。という名目で、僕が神原と唇を合わせたのは初めてのことだった。
 吸血鬼にとって、必ずしも血液だけが命を繋ぐものではないのだ。それに気付いたのは、彼女と僕の関係が、以前より前に進んだからこそなのだろうが――
 表面に一度だけ舌を当てると、それで察してくれたのか、張りつめていた唇の感触が柔らかく変わった。合わせ目を割るようにして中に潜り込ませ、舌に触れる。その瞬間、びり、と電流でも走ったかのようだった。それは快楽中枢への刺激が、一瞬で閾値を超えた時の閃き。欲が満たされてしまった時の中毒性たるや。ちょっとだけ、と口にしてしまったのが悪かった。文字通り味を占めてしまったのだ。味蕾を構成する細胞の全てが彼女を求め始める。
 ああ、もっと欲しい。もっと飲みたい。
 夢中だ。中毒だ。
 彼女の口の中はどうしてこんなに『美味しい』んだろう――そんな思考で頭を一杯にしてしまう自分が、化物染みていて嫌いだった。
 熱っぽく、とろけるような感触を追いかける。自ずと肩に手を回していたのは、粘膜を突く度に背を震わせる相手が可愛らしかったからというのもあるけれど、もっとシンプルに逃げられたくなかったからだ。ただ、熱い口内に反するように、彼女の肌は少し冷たかった。やはり本調子ではないのかもしれない。皮膚の下で巡る血液の流れを、どこか心許なく思ってしまう。本人の言う通り、きっと、杞憂なのだろうけれど。
 そして、小さな舌の裏を執拗に責めると――流石に許容範囲を超えたのか。神原がもう限界とばかりに僕の胸を押し返した。
 熱くなった身体の内側が名残惜しさに震えたが、それも理性で捩じ伏せる。離れた唇が糸を引き、それを恥ずかしそうに拭った神原のリアクションは正直意外だったし、そして勿体無いと思ってしまった。
「あ、阿良々木先輩、ちょっと……長いぞ」
「えー? 良いところだったのに」
 僕にとっては瞬く間の出来事だったのに。
 しかし、神原の訴え通りに腕時計を確認すれば、たっぷり七分程は唇を合わせていたらしい。時間を忘れるとはこのことか――と、納得した気持ちはさて置いて、懲りずに僕は唇を追う。
「れろれろ」
「ま、待って、くすぐったいから……あっ!」
 息継ぎの合間に漏れた可愛らしい抵抗は、所詮形だけのもので、僕の食欲を抑制するには至らなかった。

「運動した後はご飯が美味しいな」
「…………」
「知っているか、阿良々木先輩。キスって、案外カロリーを消費する行為なのだぞ」
 神原からはそんな一言を頂戴したが、先とは一転して冷静な頭になった僕には、どこか恨み言めいたものに聞こえてしまうのだった。
 あるいは、普段の彼女に比べれば、やや力強さに欠ける物言いだったからかもしれない。本人はああ言っていたが、やはり消耗はしていたのだろう。身体に負担を掛けない方法を選んだのは正解だったのではないかと、僕は自分勝手にそんなことを思う。
 ともあれ、僕の吸血欲をその場凌ぎではあれど満たした後、今度は彼女の食欲を満たす為、僕達は二人で仲良くご飯を食べることに相成っていたのだが。
「……お前は、嫌じゃないのか?」
「ん? 何がだ?」
 オムライスを運ぶ為に大きく開けていた口が、不思議そうに閉じられる。
「なんというか……そういう行為で僕の吸血鬼的な欲求を満たすのは、まるで恋人関係を利用しているようで、あまり良い気持ちがしないことも本音なんだよな」
「そういう行為って?」
「だ、だから、キスとか……」
 言わせんなよ。と、見れば、神原はスプーンを握ったまま表情筋を緩ませていた。
 くそう、確信犯か。
 しかし、そうなのだ。たとえ彼女の味にどんなに溺れそうになっていても、この懸念だけは――
「全然気にしなくて良いぞ」
 なんて、僕がどう頑張っても拭いきれなかったものを、神原はいとも簡単にはね除けてしまった。その男前な笑顔は、果たして信じて良いものなのか。
「い、嫌じゃないのか? 僕のこと嫌いになったりしない?」
「嫌いになるとすればその発言の方だとは思うが」
 と、彼女はぞっとしない前置きをした後。
「愛情を確認する行為にそれ以上の意味を見出すことが出来るというのは、なんだか特別なことのようで興奮するじゃないか」
「興奮はしなくて良いと思うが……」
『特別』、ねえ。
 どこかで聞いた覚えのある単語だった。
 神原の主張は飲み込めなくもなかったが、彼女の皿の上のチキンライスの赤い色は、ほんの少し、僕の罪悪感を助長させる。
「あなたのその吸血鬼体質のおかげで、あなたと神原先輩と付き合っているというのに――全く、皮肉なものですねえ」
 何故だろう。頭のどこかで扇ちゃんが、そんなことを言って笑ったような気がした。

 

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