Vampirism

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09

 据え膳食わぬはなんとやら。そんな恥ずかしい言い訳が頭に浮かぶ明け方だった。
 いつの間に僕の布団に潜り込んだのだろう。目が覚めると、神原駿河(着衣。珍しい)の寝顔が、すぐ隣にあった。
 ……うーむ。
 まるでこちらがパーソナルスペースを犯された体で語ったが、ここは神原邸の一室で、僕が寝ていた布団は神原家からお借りしたものだから、知らないうちに彼女が紛れ込んでいてもここは大きな心で見るべきだろうか。
 いや、ない。
 神原の部屋を泊りがけで片付ける。そんな暴挙が許されているのは、そのくらい彼女の部屋が手に負えないレベルの散らかりぶりだから、という側面もあるのだろうが、それでも主たる理由は僕がお前のおじいちゃんとおばあちゃんに信頼されているからこそだというのに。一番信頼してはいけないのが当の孫娘だとは……。二人の心境を思うと何ともやりきれない。
 それでも、ここまでは僕が口を噤んでいれば問題にならない話だ。
 本題は、ここから。
 僕が神原の無防備な寝顔を見て、『お腹が空いた』と感じてしまったことだ。
 時期が悪かった。そもそもの話、寝起きが決して良いとは言えない僕が彼女より早く目が覚めたのは、空腹が原因だった。そして、この場合の空腹とは言わずもがな吸血欲のことで。
 健やかな寝息を立てている胸元。そこに前触れなく噛み付いたとしても、彼女はきっと笑って許してくれるだろう。
 でもさ。寝ている女子を襲うみたいで、何というか、趣味じゃないんだよなあ……。
 なんて、贅沢な我儘がちらりと胸を過ぎる。『いただきます』も『ごちそうさま』もそこそこに、僕は彼女に口を付けた――ところまでは覚えているのだが。記憶はそこで途切れている。自分の欲を満たした僕は、また睡魔に誘われて意識を手放したのだろう。
 なんて身勝手なんだ。

 後悔と一緒に眠りに就いた所為か、懐かしい夢を見た気がする。
「それは感心しない行いだなあ、阿良々木くん。
「彼女が可愛くて食べたくて堪らないだなんて、思春期真っ只中の高校生男子に相応しい悩みだね。はっはー。それも若さってやつかな?
「しかし、大人として――そして専門家としては、一度忠告を挟んでおきたいところだ。
「良いかい?
「常に人間でありたいと思い続けること。それが百合っ子ちゃんを食べる上での責任ってもんだよ。
「百合っ子ちゃんにとっては、確かにきみは恩人かもしれない。だけどそれが、百合っ子ちゃんをドナーとして良い理由では勿論ない――なんてことは、阿良々木くんに今更説明するまでもないかな。
「彼女がきみに身を差し出し、きみが彼女から血を吸う。栄養供給ならば結構だ。ただし、そこに食事以上の意味を見出し、恩の着せ替えをするのはね、バランスが良くないんだよ。それが僕にとっては好ましくない。だから感心しないと言ったんだ。
「人は一人で勝手に助かるだけ。
「なんてね。僕が言いたいのは結局これだけさ。きみ達が大人になってくれるのを、僕は友人として、心から望んでいるよ」
 全く、お前はいつだって僕に余計なお節介を焼いてくれるよなあ。

「暦お兄ちゃん」
「んー……?」
「暦お兄ちゃん、朝だぞ! いい加減に起きないと駄目だぞ!」
「妹なのか幼馴染なのかはっきりしてくれ……」
 茶目っ気たっぷりで起こされた。
 でも、寝ぼけた頭で聞くと中々の破壊力だな。悪くない。
 重い瞼をなんとか持ち上げて神原を視界に入れると、すでに彼女はスポーツウェア姿だった。今度はいつの間に布団を抜け出したのか。僕の記憶は定かではないけれど、既に日課のジョギングを終えた後らしかった。シャワーを浴びる前に、まだ惰眠を貪っていた暦お兄ちゃんに声を掛けたと言ったところか。
 しかし、呑気に構えていられたのはそこまでだった。
「おい、ちょっと待て」
「ん?」
 布団から離れようとした彼女を手首を掴んで引き止める。目敏く見つけることが出来たのは、皮肉にも、僕が腹を満たすことで吸血鬼性を回復させた所為だろう。
「お前、今日も二十キロ走って来たのか?」
「……いいや、今日はちょっと減らした」
 神原は少しだけ言い淀んだが、それでも正直に答えてくれた。それは素直にほっとした。と思う。
 ランニングウェアであるタンクトップの下。彼女の鎖骨上の皮膚にはくっきりと跡が付いていたのだった。歯型、というより薄い瘡蓋に近い傷痕。よっぽど余裕が無かったかのように食い散らかされた痕跡。
 他でもない自分の過失だというのに、僕は数時間前の僕が恨めしくなった。
 一方で、神原は困ったように眉を下げている。それは僕の自己中心的な考えを責めている訳ではなく、非随意的に手首を握っていた右手に力が入ってしまったかららしい。
「阿良々木先輩。私はシャワーに行きたいのだが」
「暦お兄ちゃんじゃないのか?」
「気に入り過ぎだろう、暦お兄ちゃん。シャワーに行きたいから手を離して欲しい」
「まあ待て。先にこれを治しちゃうからさ」
「その気遣いは嬉しいが……ほら、私は走った後だし、汗を掻いているから」
「そんなの気にしないって、ほら」
「だ、……嫌だ」
 遅かった。そのまま強引に手を引いてしまい、神原が体勢を崩す。
 布団に倒れた弾みで、ポニーテイルの尾がふわりと弧を描いた。毛先と一緒に降りて来た拒絶の言葉が、僕の前頭葉に届いたのは、その後。遅い到着だった。
 い、嫌? 嫌だって言ったか、今!?
「傷が残っていることが、私は嬉しいんだ」
「…………」
「いや、この言い方だと語弊があるな……阿良々木先輩はいつも傷を治してくれるが、本当に何も無かったかのように、私の肌をいやらしく舐めて丁寧に消してくれるが」
「余計な形容詞を挟むな」
「今日はちゃんと向き合って欲しい。無かったことしないでくれ」
「いや、いつも無かったことにしているつもりは……」
 ない、と言い切れるだろうか。
 晒された傷口に触れると、神原は僅かに肩を震わせたが、それでも発言は撤回しなかった。
「暦お兄ちゃんは、今朝私にしたことをちゃんと自覚するべきだ」
 その呼称の所為もあって、色んな意味で耳が痛くなりもしたが。今になって、すとん、と胸に落ちた気持ちがある。
 そうか。
 僕はきっと誰かに叱られたかったのだ。あるいは、責任を取れと責められたかった。大人として。
 ……滑稽だ。その甘えこそが何より子供染みている。何より、半吸血鬼の僕が大人になれる保証なんて、誰もしてくれないのに?
「決して、汗を掻いた身体を舐められたら私の変態性が揺らぎそうだったから、という理由で断った訳ではないのだ」
「ほう? 自ら弱点を披露するとは神原くんも甘いな」
「そろそろ怒るぞ、阿良々木先輩」
「あ。それはちょっと嬉しいかも」
「なっ……!」
 据え膳食わぬは男の恥。否、ここは大人の恥とでも言うべきか。
 今はそういうことにしておこう。

 

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