Vampirism

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06

 あーもう駄目だ。我慢出来ない。
 そう思った時にはもう、僕は神原の手首を掴んだまま、早足で自宅の玄関の戸をくぐっていた。
「私の知る限り最高の人格者である阿良々木先輩も、いざ女の子を前にすると自らの欲を抑え切れずにがっつくことになるのだな。やはりあなたも一人の人間だったということか」
 そんなこと言われても、僕に過剰な期待をかけられても困るし、とにかく今はお腹が空いてお腹が空いて仕方がないのだ。
 どんな生き物だって、食欲には耐えられない――否、正確には食欲じゃないし、自分が真っ当な人間かどうかを問われれば、これまたちょっと微妙なところなのだが。
「私はいつでも阿良々木先輩に身体を委ねる覚悟は出来ているぞ。さあ、早く私を『召し上がれ♪』」
「それ引用するの止めろ! 可愛いけれど!」
 ボーイズラブの台詞でさえなければな!
 ああ、もう、もどかしい。靴を脱ぐことさえもどかしい。
 とりあえずなるべく早急に、僕の部屋で頼む、と神原に頭を下げたところまでは良かったのだが、どうやら場所のチョイスを誤ってしまったらしい。
「あっ、駿河さんだ。いらっしゃーい」
 と、突然掛けられたその声に。
 見えないところで繋いでいた手が、ぱっと離れる。
 そういうところ――思いの外強く引かれていた線引きに、なんか意外だな、と思いつつ振り返れば。
「……火憐ちゃん」
「おかえりー、兄ちゃん。お役目ご苦労であった」
「お役目?」
「命じてない筈の役目まで果たしてくれるだなんて、優しい兄ちゃんがいてあたしは幸せ者だなあ」
「……?」
 分かりやすく疑問符を浮かべてやったというのに、目の前の巨大な妹は対照的に満足そうな笑みで強く頷くのみだ。
 会話が噛み合っていないように感じるのは、空腹で頭が上手く回っていない所為だろうか。
 いや、僕が今噛みたいのは妹じゃなくて彼女だし、こいつとの噛み合わせの悪さは今に始まったことじゃあないけれど。
 見れば、僕の後ろで神原もきょとんとしている。上の妹とも親交を深めているらしい彼女ならこの状況について何か知っているのかと思いきや、僕と同じ様にクエスチョンマークを浮かべているだけだった。
「良いか? 火憐ちゃん、難しいことは要求しない。要求しないから、今お前が認識している状況を、僕に説明してみてくれ」
「兄ちゃんがあたしの為に駿河さんをうちに連れ込んだ」
「表現方法はともかく、『兄ちゃんが駿河さんをうちに連れ込んだ』のは、まあ合ってることにしよう」
「半分合ってたらもう全部合ってるようなもんだろ?」
「いや待て待て。一番大事なところが違う。『あたしの為に』って、火憐ちゃんは一体何を言ってるんだ?」
「兄ちゃんこそ何言ってんだ? 今日、駿河さんはあたしに用事があって来たんだぜ? あたしが目的で阿良々木家の敷居を跨いだと言っても過言じゃないんだぜ? そうだよな、駿河さん?」
「ん? まあ……そういう見方もあるかもしれないな」
 いやいや、ないない。
 彼女は僕に血を吸わせる為に来たのだから。僕の空きっ腹を満たすことが目的なのだ。僕が頭を下げなきゃ、神原はうちの敷居を跨いではいなかっただろう。決して火憐ちゃんと和やかに遊ぶ為に門をくぐったのではない。
 なんて、何も知らない妹に、正直に言える筈もないので。
「おい、ちょっと待て。話が見えないままノリで話を合わせるな。今日先にお願いしたのは僕だろ。でっかい妹の相手をして貰えるのはありがたいが、せめて僕に血を吸わせてからにしてくれ」
「あ、ああ。そうだな」
 彼女に耳打ちして話を合わせると、流されそうになっていた神原を引き留めることには、なんとか成功したようだった。
「火憐ちゃん。悪いんだけど、今日は阿良々木先輩と先に約束していたから……」
「え……」
 落胆の声を上げる火憐ちゃん。
 あっという間に表情が曇り、眉が八の字に下がる。
「駿河さんは、あたしとの約束より兄ちゃんとの約束を選ぶのか?」
「約束?」
「前からずっと、『今度はうちに遊びに来る』って約束をしてたじゃん……」
「……そうなのか?」
 果たして僕の妹の発言は真実なのか? と、やはり彼女の耳元で、こっそり真偽を尋ねてみれば、
「あー……なんか前にそんなことを言ったような気もするな」
 なんて、またしても、やけにぼんやりとしたことを神原は言うのだった。
 僕みたいな非社交的な人間からすれば、そんなアバウトさで友達の家に上がる約束を結んでしまうなんて、到底想像がつかない境地なのだが……。これがうちの学校のスターと、教室にいるかいないか分からないとか言われちゃう僕との違いというものか?
「あたしなんて、駿河さんの『いつか遊びに行くからな』の一言を信じて毎日待っていたんだからな!」
「いや、今回は社交辞令を簡単に信じ込んでるお前の方に問題があるようだな」
「兄ちゃんは分かってないなー、駿河さんが社交辞令なんか言うわけないじゃん。……まあ、人間誰しもうっかりすることはあるだろうし、駿河さんが約束を忘れていたとしても、あたしが責めることは出来ねーだろうけどよ」
 隣を見ると、バツが悪そうに笑う神原。
 見るに、これは本当に神原の方が約束を忘れていたっぽいな……。
「だからこれは、願ってもないチャンスなんだぜ!? お願いだ、兄ちゃん! あたしに駿河さんを譲ってくれ!」
「願ってなかったんなら僕に譲れ」
「へ? ……願ってたのに願ってもないってよく考えたらおかしいよな? いやでも、あたしは願ってたんだよ。この機会を待ってたんだ。がちゃがちゃ難しいこと言って横取りするのは止めてくれよ」
「ちっ、騙されなかったか」
「妹を騙そうだなんてなんて卑劣な兄ちゃんなんだ! 駿河さんもこんな兄ちゃんなんかよりあたしと遊んだ方が絶対楽しいって!」
「評価の上げ下げが激しいな……」
「ほら、駿河さん」
 呆れる僕をよそに、あまり気の長くない妹は痺れを切らしたようで、やや強引に神原の腕を引いた。
「さあさあ、何をする? 何をする? トランプにオセロに花札、人生ゲームだってリビングに待機中だぜ?」
「二人でか?」
「二人だから良いんじゃん。人生を共に歩んでいくには、二人くらいで十分だって」
 なんだか彼女に言うべき大事な台詞を妹に先に言われたような気もするが、嬉々として手を引く火憐ちゃんと、呆気なく連行されて行く神原を前にして、僕は既に諦めの姿勢なのだった。

「……腹が減った」
 自室で一人呟いた僕の訴えは、やけに物悲しく響くのだった。
 ああ、事に至る場所に自宅を選んでいなければ、こんなひもじい思いをすることもなく今頃は……。なんて考えても虚しいだけである。
 急いて事を仕損じた。
 悔し紛れに、自分の八重歯を舌でなぞる。鬼のように尖っていて、余計に恋しい気持ちが募ってしまった。
「空腹を満たしたい、と言うのであれば、何もあの娘に拘らずとも良いではないか」
 そんな僕を見兼ねてなのか、まだ昼過ぎだというのに、足元の影が揺らめいた。
 金髪幼女の降臨である。
「吸血行為なぞ、吸血鬼にとっては単なる食事。眷属作りでもあるまいに。それに、お前様はどう頑張って吸血したところで眷属を作れる程の能力はないから、何か間違いが起きることもなかろう?」
「いや……それでも、やっぱり誰彼構わずっていうのは抵抗あるって。あんまり意地悪なことを言うなよ」
「意地悪を言っているのではない。事実を言ったのじゃ。やれ、美食家というか……食に対する拘りが強い輩は大変じゃのう」
 何を思ってなのか、どこかシニカルに笑う忍だが、お前のドーナツ好きだってもう偏食の域だろうよ、と僕は心の中だけでツッコミを入れる。
「まあ、儂もお前様と一心同体みたいなものじゃから、その欲は満たされるに越したことはないがの」
 一心同体。
 そうなると、僕の空腹イコール忍の空腹にも繋がるから、それは心苦しい気持ちもあるな。
 まあ、吸血欲に関して言えば、忍は僕の血を定期的に吸っているから、忍的にはそこまで切羽詰まった状況ではないのだろうが。
 そういえば、神原も言っていたな。
『私の中に流れる血を阿良々木先輩が吸い、そして阿良々木先輩に流れる血を忍ちゃんが吸う……これは間接的にだが、私が忍ちゃんに血を与えていると言っても過言ではないのでは? あの愛らしい金髪の女の子の存在を私が支えていると思うととても誇らしい……!』
 とかなんとか。
「あまり思い出したくないことを言うでない。この儂の存在があの娘に委ねられているかと思うとぞっとするわ。……別に、儂があの娘以外から血を吸うことをお前様に勧めているのは、それが理由ではないがの」
 とは言うものの、苛立ち交じりに爪を噛んだ仕草を見ると、どうやらその事実はあながち間違いでもないようで、それが本気で気に入らないらしい。
 金髪幼女も腹を空かせているぞと伝えたら、今はリビングで妹に捕まりっぱなしの神原もマッハスピードで飛んできてくれるのではなかろうかとも思ったが、この案は破棄することにしよう。
「にしても……腹が減ったなあ……」
「ぶっちゃけ、今のお前様は吸血鬼もどきであって吸血鬼そのものではないんじゃから、吸血行為の他に普通に食事も出来るんじゃし、普通の人間のようにものを食べれば良かろう?」
「その筈なんだがなあ……」
 忍の言う通りだ。僕が感じている吸血鬼の吸血欲は、本来ならば人間の食欲とは別に生じる筈の欲である。満月が近しい日、吸血鬼性の高まっている僕がその欲を『腹が減った』と捉えている時点で、元来おかしな話なのだ。
 しかし。
 ならば、今抱えているこの満たされない気持ちは一体何なのだろう。
「なあ忍。なんか、空腹を紛らわせる方法ってないのか?」
「さあ? 儂が人間として暮らしていた頃なんて昔過ぎて忘れたし、参考にならんじゃろ」
「いやそうじゃなくて――吸血鬼的な、血を吸わずにこの場を凌ぐ術とかねえのかなって」
「考えたこともなかったが……精々気を紛らわすくらいしか思いつかんな」
「結局人間と同じようなもんか……」
「ふむ……。では、退屈凌ぎに――否、空腹凌ぎに何か面白い話でもしてやろうかの」
 と、藁にも縋る思いで幼女に縋り付いた僕に、思いの外好意的な態度を見せた忍野忍は、静かに語り始めたのだった。

「さて、お前様。『吸血鬼は恋をしたら死ぬ』という話は知っておるか?
「ん? いや、吸血鬼は不死身だから吸血鬼なんじゃろうし、不死身の吸血鬼がそんなロマンチックな死因で死んで良いものなのか? というお前様の疑問も分かるがの。それは卵が先か鶏が先か、みたいな話じゃな。
「いやいや、単純にそういう説もあるぞというだけの話じゃ。現に儂には弱点なぞない。
「んー、それこそあの恋愛脳の後輩が好きそうな話じゃから、儂はあまり積極的に勧めたくはないんじゃが……まあ、一説として聞いておくのも良かろう。腹の足しにはならんじゃろうがな。
「まず『吸血鬼は恋をすると、その相手の血しか飲めなくなる』という説がある。深く恋をすると、その吸血衝動もより強く現れる、とも言われておるな。
「じゃから、その衝動のまま血を吸い続ければ――終いには相手の血を吸い尽くしてしまい、殺してしまう。当たり前のような話じゃがな。
「それでも吸血衝動が消える訳ではないし、相手の血しか飲めない身体は変わらない。
「獲物を失った吸血鬼は、果たしてどうなるじゃろう?
「……そう。『餓死』じゃな。
「儂は例外にしても、案外、吸血鬼の死因って多いのかもしれんのう。どんな生き物だって、食欲には耐えられない――不死身の鬼ですら例外ではない。飢えて死ぬ。
「はたまた、相手の血を吸わないという選択をしたところで、待ち受けるのも、また同じ結末じゃな。
「相手を生かし続けることは出来るが、自分が死ぬことには変わらんからな。耐え難い欲求を堪えながら悶え死ぬ……それこそ、語り方によっては中々にロマンチックな話になったり、惨たらしい話になったりと様々じゃが。
「吸血鬼と人間。
「仮に――言えばお前様の今の状況と似ておるが――相手を殺めることなく、自分も飢えない程度にバランス良く血を吸い続けることが出来たところで、人間の方の寿命が来てしまえば、吸血鬼の方も遅かれ早かれ死が近くなるじゃろうし。
「つまるところ、『吸血鬼は恋に不向き』という説があるんじゃ。
「吸血鬼の眷属作りと人間の生殖行為が違う理由は、ひょっとするとこの辺りにあるのかもしれんな」

「…………」
「どうじゃ? 今のお前様にとって、知っておいて損はない話ではないか?」
 と、軽く話を締めてから。
 自分の小さな八重歯を覗かせて笑う忍の笑顔からは、悪意とまではいかなくとも、やはりどこか意地悪めいたものが感じられた。
 否、これも意地悪ではなく、事実――
 ……なのか?
「まあ、半信半疑で聴いているくらいで丁度良い話じゃ。尤も、吸血鬼の間にあるのは主従関係であって、好き不好きではないがのう」
「……僕と神原の間にあるのは主従関係じゃねーよ」
「おや、エロ奴隷ではなかったのか?」
「そっちか」

 そして。後日談というか、今回のオチ。
「すまん! 本当にすまない! 決して、阿良々木先輩のことを忘れていたとか、そういうことではないのだ!」
 結局、あれから神原が僕の部屋にやって来たのは、玄関の戸をくぐってから数時間後のことだった。
「なるべく早々に切り上げて、すぐに阿良々木先輩の元へ赴くつもりでいたのだ。それが……いつの間にかすっかりゲームに夢中になってしまって……本当に申し訳ない!」
 ちょっとだけのつもりだった、と神原は言うが、聞くに、どうやらかなりの勝負数を重ねて、結局最後は火憐ちゃんに追い出されるようにして僕の部屋に来たらしい。
『お願いだ、兄ちゃん! 駿河さんを貰ってくれ!』
 と、僕から奪っていった時とは全く逆の台詞を妹から聞かされた。
 そうそう。
 こいつ、運が絡む勝負事には滅法弱くて、そのくせ人一倍負けず嫌いなんだよな……。勝つまで続ける、とか、そういう面倒くさいタイプ。
「一度たりとも勝てなかったというのに、火憐ちゃんに『もう勘弁してくれ!』と言われてしまった」
「あの火憐ちゃんにそこまで言わせるとは、お前も酷だな……」
 まあ、あいつも基本的に頭で勝負するタイプじゃないからな。ボードゲームを誘ったことがもう珍しかったくらいだし。
「阿良々木先輩を空腹のまま待たせてしまった非礼は詫びるから。どうか、私の身体を良いようにして欲しい」
「良いのか?」
「言っただろう。覚悟は出来ている」
「……じゃあ、遠慮なく」
 ここではっきりさせておくが、僕は決してさっきの忍の話を間に受けた訳ではない。
 ただ、今は。
「……阿良々木先輩?」
「ん?」
「その……しないのか?」
「ま、偶にはこういうのも良いだろ」
 と、僕が僕の恋人をぎゅっと抱き締めて、柄にもなく格好付けたタイミングで。空気の読めない自分の腹がぐうと鳴った。腕の中、密着している神原には勿論バレバレだったことだろう。やれ、見え見えの見栄なんて張るもんじゃないな。
「だから、好きにして良いと言ったのに」
 そんな僕に呆れたような、しかし愛おしさも感じられる柔らかな神原の笑顔を見て、僕の喉が素直に鳴る。
 あーもう駄目だ。我慢出来ない。
「じゃあ、……いただきます」
「『召し上がれ♪』」
「……そのネタ、やっぱり止めてくれない?」
 恋に落ちた吸血鬼の末路は絶対的に悲劇へと繋がるのだろうか。それこそ語り方によって意見が分かれる話かもしれない。
 ただ、吸血鬼もどきの僕は、生きていく為に、僕の彼女の血を吸おう。
 彼女と明日を生きていく為に。

 

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