03
待ち合わせ場所に走って来る姿を見ることが出来るのではないか。
その期待が外れなかった日は未だにないが、戦場ヶ原先輩との待ち合わせの際、私は絶対相手より先に指定された場所で待っているようにしている。当の先輩はいつも時間ぴったりにやって来る。無論、走ってではなく、歩いてだ。美しい走り姿を久しく見ていないことにどこか寂しさを覚えることもあるが、目上の人を急かすのもどうかと思うので、私が密かに抱いている淡い期待を伝える日はきっと永遠に来ないだろう。
「予言するわ」
「うん?」
最寄りのミスタードーナツの店舗の角の席だった。
突然の宣告だった。
伸ばした背筋と、こちらをまっすぐ見据える瞳。なんとなく空気を読まなければいけない気がして、私は手にしていたドーナツを一度皿の上に戻す。
戦場ヶ原先輩はいつから予言者になったのだろう。なんて疑問も覚えたが、それはフレンチクルーラーの代わりに飲み込んでしまおう。
「一ヶ月よ」
「一ヶ月」
「ええ。一ヶ月もてば立派ね。あなたと、阿良々木くん」
「私と、阿良々木先輩」
言われた単語を口の中で静かに反芻してみる。
戦場ヶ原先輩が発した言葉は自分の立場からしてみれば、かなり残酷な予言だったのだろうけど、当の私は何の違和感もさしたる衝撃もなく自然に受け取った。後から思い返せば、それは少なからず自分で感じていた予感と一致していて、まさに予感が確証になりえた瞬間だったのだと思う。
「今どれくらいだっけ?」
「二週間だ」
「二週間、ね。それだけあれば、それなりにあの男の人となりが分かってきたんじゃない?」
「そうだな……いや、二週間も要らなかった気がする」
「そう。なんとなく分かる気はする」
それだけ言って、自分のオレンジジュースに口を付ける戦場ヶ原先輩。私も安心してかじりかけのドーナツに手を伸ばそうとしたところで。
「いえね、私が心配する義理はこれっぽっちもないのだろうけども」
まだ話は終わってないとばかりに言葉が飛んできたから、念の為、伸ばした手を引っ込める。
「もしも、もしも、もしも、彼と付き合ってたのがあなたじゃなくて私だったら、きっと我慢出来ないでしょうから」
「……それは私が敬愛する先輩の意見でもちょっと肯定しかねるな」
だって、戦場ヶ原先輩と阿良々木先輩の関係があってこそ、私は彼と付き合う前に結構なことをしでかしたのだから――
「神原」
「!」
ぴしっと、小気味良い音が立ちそうな勢いで戦場ヶ原先輩の人差し指が私を指す。その指先はもう文房具を握ってはいないのだが、私は自ずと居住まいを正す。
「そもそも、あなたはどうして私と遊んでるのよ。どうして阿良々木くんじゃなくて私と待ち合わせしているのよ」
「え?」
「私だったら刺してるわ。その場では無理だったとしても、相手の顔を二度見る前にはきっと刺している」
机の上のグラスが、まるで自分の代わりに肯定の相槌を打ったかのように、カランと軽い音を立てた。
浮かぶ氷を見つめる先に、誰を思い描いているのだろう。
どう言い訳するか考えがまとまるより先に、戦場ヶ原先輩が口を開く。
「自分をふった相手なんて、本来憎んだって然るべきなのよ」
そこでやっと理解が追いつく。
戦場ヶ原先輩は、私と戦場ヶ原先輩のことを指して言っているのだ。一年前に拒絶され、二週間前にきっちりふられたことを指して言っているのだ。
刺して、ではなく、指して。
「えー、だって、今でも好きだし」
と、思ったことを素直に言えば、戦場ヶ原先輩はその綺麗な眉間に少し皺を寄せた。目上の人からの含蓄あるお言葉はもっと丁寧に受け取るべきだっただろうか。
でも、訂正する気も起きないのだった。加えて、手指を組んでため息をひとつ漏らした戦場ヶ原先輩はやはり絵になるなあ、なんて思いの方が先行したので、本人に知られたら怒られるかもしれない。相も変わらず私は馬鹿だ。
「阿良々木くんの苦労が伺えるわ。尤も、今まで腐心してきたのは私なのだから、バトンタッチされたと思って頑張って欲しいものね」
でも戦場ヶ原先輩は変わったのだろう。それ、思っていても本人の前では言わないんじゃないのかな? と思わなくもないことまで私に話してくれるようになった。例の予言もそうだけど。
元陸上部だけに、バトンタッチね。
なんて、決して上手いとは言い難い一言を添えるところも。中学時代の先輩キャラにはそんな味はなかったが。しかし、今は今の関係も好ましく思える。のは、喉元を過ぎて熱さを忘れただけであって、我ながら現金なものだ。
「勘違いしないでね」
「ん? 何をだ?」
「あなたをふったことを悪かったとか反省しているとか、私がそういう殊勝なことを思っていないのは確かよ」
「……新手のツンデレか?」
「違います」
否定された。ですます調で。
「いえ、違うわ。そうじゃなくて……ツンデレ認定を否定したことを違うと言ったのではなくて、なんというか……」
まどろっこしく歯切れの悪い物言いをする戦場ヶ原先輩。元来の言葉の切れ味の良さを身をもって知った後では、おおよそ珍しいことだ。少しだけ伏せた顔、揃った前髪の隙間から再び瞳の色を窺えば、彼女は本当にその場で言葉を選んでいるようだった。
自分の言葉を自分で選ぶ。私の欲しい言葉を欲しい時にくれた完璧な先輩は、もういないのだろう。
しかし、その声が私の耳に届くこと。それがとても嬉しい事実は今でも変わらない。
「あなたがふられるところを、私はもう見たくはないというか――いえ、これも違う、ええと……また私にお鉢が回ってくることになったら、今度こそ神原、あなたが困ることになるでしょう?」
私が上手く受け取ることが出来ていたならば、それは今日戦場ヶ原先輩から貰ったものの中で一番、強い力を持つ言葉だった気がする。胸の奥をぎゅっと掴まれたかのような。
「そういうことを言いたいのよ、私は」
なんだか可愛らしい物言いで収められ思わずはにかんでしまいそうになるが、やはり不謹慎だと叱られてしまうような気がしたし、私も真面目に話をしたい気分だったのでこの場では止めておく。
「私はそれでも良いんだけどな」
返事は素直に口から出た。自然に零れ落ちる水のように。その際で、自分がどんな顔をしていたか見ていなかったので分からないけれど、決してはにかんではいないが、穏やかな表情であったと願いたい。
「私は戦場ヶ原先輩よりも阿良々木先輩のことが好きだと思うし、阿良々木先輩よりも戦場ヶ原先輩が好きだと思うぞ。きっと」
きっと。
いや、もう断言してしまって良いんじゃないだろうか。
断言してしまいたい。
そうありたい。
だから何のてらいもなく言葉を押し出した。
「お二人のことを一番に好きなのは私だぞ」
「……あなたのそういうところ――」
否応なしに期待が膨らむような言い出しに、はっと顔を上げると、期待を裏切るように随分と厳しい顔をした戦場ヶ原先輩がそこにいて。
「――昔から悪い癖よね」
切って捨てるように言って、目の前のオレンジジュースをまた喉に流し込むのだった。
一度膨らんだ気持ちがしゅん、と萎む。
それでも、静かに白い喉を鳴らすあなたを眺めていると、やはり私は綺麗だと思うのだ。
「一ヶ月経って、もしもあなたが阿良々木くんにふられたら、またこうして一緒にドーナツくらい食べてあげるわよ。昔ほどのキャラは作れないけれど、そのくらいには後輩に優しい女よ。今の私でも」
「それは果たして素直に心躍らせて良い話なのかどうか、私にとっては難しい話だな」
そこでようやく戦場ヶ原先輩は顔をほころばせてくれたので、私はやっと心置きなくドーナツに手を伸ばせるようになった。