もしも、もしも、もしもの話

Reader


04

「阿良々木先輩を抱かせて欲しい」
 と、自室の畳の上に三つ指付いて懇願する(それが出来るようになったのも、たった半月でまたも混沌と化していたこの空間を、僕が遮二無二清掃活動を行った末、なんとか床を掘り起こすことに成功した為であることを忘れないで欲しい)神原駿河を目の前にして、僕はどんな顔をしていたのだろうか。きっと締まりのない顔をしていたに違いない。とは言っても、それは僕自身が恋人であるところの彼女から好き勝手どうこうされることへの期待からくる表情なんてものからはほど遠く、単に呆気にとられてしまった故の表情だ。
 彼女がおかしなことを言いだすのは珍しくない。やや偏った趣味を持つ彼女の嗜好を、僕はこの一年あまりである程度は理解してきた筈だ。理解してきた筈だった。しかし、悲しいかな。今ここで彼女の趣味は僕の理解の範疇を越えていたと言わざるを得ないし、一方で神原は僕がどんな心境でどんな顔をしているか、理解に努める気はあまり無いらしい。
 一年。
 切りそろえられたショートカットが(何を隠そうハサミを入れたのはこの僕だ)いつの間にかボブの長さに差し掛かりつつあるのを見て、時の流れの速さに感じ入りそうにもなるが、今はよそう。
「では早速」
 完全に置いてけぼりの僕をよそに、神原はいそいそと万年床の布団を敷き直し始めた(既に敷いてあったそれを外にも干すでもなく、本当にただ敷き直すだけのその行動にどんな意味があるのかは僕には理解できない)からだ。
 そして、勢い良く着ていたタンクトップを捲り上げると、下から白くて形の良い二つのふくらみが顔を出して、それがどんなに温かくて柔らかくて触り心地が良いものであるか、僕は知っているのだけど。
 彼女の放り投げた衣服が弧を描き、自室に面した縁側の先、地面へと到達したところまで見届けてから。
「いやいやいや。待て。ちょっと待て」
 ここでようやくフリーズ状態から脱した僕は、彼女に声を掛けることが出来た。

「私にあるのは知識だけだからな」
 なんて、今はいじましく消極的なことを言っているが、まるで火のついた様に行為に至ろうと急かす彼女を宥め、僕の前に大人しく座らせるまでにはそれなりに時間を要した。
 上半身が裸のままではあんまりなので――またいつ神原が拙速なことを言いだすか分からなかったし、自分の理性についてもあまり信頼が置けなかったので――僕の着ていたパーカーを上に羽織らせる(僕の涙ぐましい清掃活動の結果、先程神原が庭に向かって投げ捨てたものを除く衣類の全ては洗濯機にくべられていて、今は揃って物干し竿に並んでいた故の判断だ)。
 なんか前にもあったな、こんなシチュエーション。肌の上に直接僕のパーカーを羽織る彼女にどこか既視感を覚える。当時はここまで馬鹿な話はしていなかった気がするが。正直自信は無い。
「しかし、嫌な顔一つせず阿良々木先輩に指を入れることが出来る女の子は、中々貴重だと思わないか?」
 僕の貞操を守り切れる自信も無い。
 最近になってやや改善の兆しが見えるかと思えた神原の自己評価の低さだが、改善された結果が先の提案となるのならあまりに突飛過ぎるだろう。この娘は。
「私はそっちの行為に対して造詣が深い。確かに実技においてはまだまだかもしれないが、座学ならば人一倍は備えているつもりだ」
「今までもこれからも僕が女子に対してそんな技量や希少価値を求めることはねえよ」
「女子に対してということは、男の方には求めているということか?」
「そこはかとなく目を輝かせているけども神原くん、自分の彼氏が男に寝取られても良いんですか?」
「んー…………」
「すぐに否定してくれないの!?」
「まあまあ。これから先どういう結果になろうと、せめて初めては私の手で」
 何が「まあまあ」だ。それとなく今後の可能性を示唆するようなまとめ方をするな。
 しかし、力強く左手を握りしめてガッツポーズを決めて見せた神原を正直なところ可愛いと思ってしまう辺りが、僕の甘いところなのである。ただし、その屈託のない笑顔に癒されている余裕はなかった。
 ちょっと気を抜くとこれだ。すぐに会話のボルテージが上がる。ここで楽しく乗ってしてしまう辺りも次いで僕の悪い癖だということは、勿論理解しているつもりだ。
「っ!? おい、かんば……っ!」
 反省するより先に目に入ったのは部屋の天井だった。
 力尽くで押し倒されたのだ。異性と言えど彼女はトップアスリートだ。鍛えられた腕力に敵う筈もなく、僕は簡単にひっくり返る。
「大丈夫だ、痛いのは最初だけだ! すぐに気持ちよくなる!」
「きゃーっ!」
「案ずるな。私がそうだった!」
「反論しにくい!」
 最初だけとは言え痛い思いをさせてしまったことを、こっちは未だに気にしていたというのに!
 しかし、一年付き合ったと言えど――こういう具合の軽いじゃれあいやアンダーグラウンドな会話は交えつつも――実際にそういうことをするに至るまでは長かったような(一般的な基準が分からないのであくまで僕の主観だが)気もするし、高校三年生の僕の無茶ぶりはとてつもないものだったので、彼女に寂しい思いをさせることも多かったように思える。
 だから、とは言わないが。
 彼女は性行為を覚えてから少し調子に乗っているのかもしれない。
 ……お前は猿か。
 僕を押し倒して上に跨る神原の、頬を上気させた満足そうな顔を見ていると、それは僕の思い過ごしであってくれと願わんばかりだが。
「そもそも、私が先輩を貫くこと自体は、別に初めてではないだろう」
 突然として声のトーンが変わった。
 ちり、と身を焦がすような言葉を投げられる。彼女の言葉にしては抑揚のない平坦な響きで作られたものだったが、どこか痛みを伴っていた。
「それは……」
「私の思い違いであったとは言え、悪いことをしたとは思っているのだ」
 未だに気にしていたのは僕ではなく、神原の方だったというのだろうか。今、僕を取り押さえる左手も、人の形に戻って数ヶ月だというのに。
 ……否、時間じゃないのか。
 まだ一年なのかもう一年なのか、まだ数ヶ月なのかもう数ヶ月なのか。僕が決めることではあるまい。
「だから、阿良々木先輩」
 見下ろす視線が真剣な色を帯びる。
 その顔には弱かった。
「大丈夫。触るだけだから」
「え」
 ズボンの中にするりと手が回って、尻の間を無遠慮にもぞもぞを動き回り始める。
「っ!」
 感傷に浸っている場合ではない。
 畜生! 騙された!
 彼女を慮ってパーカーを羽織らせた引き換えに僕が半裸状態になってたことさえ仇となったか!
「おいちょっと待て、かんば、る……!」
「ん……おかしいな。もうちょっと簡単に入るかと思っていたのに」
「痛ってえ!」
 悲痛な叫びに、一度は手を引いてくれるくらいには彼女にも優しさが残っていたらしい。
 にしてもいきなり爪を立てる奴があるか!
「仕方ないではないか。思っていたより固かったし」
 自分の予想に反したというだけで、僕の尻に文句を言う神原。
 やっぱ座学も駄目なんじゃねーか。
「いやあ、残念だなあ! やっぱり、僕にはそんな素質なんて」
 と、早々に話を収束させ、隙を見せることなくズボンを上げ、そのまま腰も持ち上げようとしたところ。
「諦めてはだめだ! 阿良々木先輩!」
「う、ぐえっ!」
 足元に神原が縋り付いてきたので――もとい、全身で勢い良くタックルしてきたので、床から退くことは叶わなかった。ちなみに僕の悲痛な呻き声は、突進の勢いが良すぎた為に、神原の頭がみぞおちにヒットした時の声である。
「ここで諦めたら、私達は次へ進めないぞ!」
「だから僕はこれ以上進みたくねえんだよ!」
「大丈夫! 阿良々木先輩なら出来る! これでも、男を見る目は確かなつもりだぞ!」
「ここで無駄なポジティブシンキングを発揮しないで。そしてお前は日頃、男を偏った見方で見ている!」
「でも、今回は本気なんだ」
「つまり本気じゃない時があるってことだろ、それ」
「あ、あまり茶化さないでくれ。これでもふざけているつもりはないんだ」
 と彼女は言うが、後輩女子が先輩の尻を狙うこの状況、ふざけてる以外に何があるっていうんだ。
 ていうか、お前がしたいことって一体何なんだよ。
「だから、その……それこそ阿良々木先輩が言った様な、希少価値というか……。つまり、私はあなたから『私じゃなければ駄目』が欲しいんだ」
「…………」
 重いか? と顔色を伺う神原。
 僕は首を横に振った。
「私はそこそこ可愛いとは思うが、阿良々木先輩の周りには可愛いだけに留まらず、小さくて可愛い子が沢山いるし。……おっぱいもそこそこあるが、特別に大きくはないし。妹でも幼馴染でもないし。後輩キャラだって、今や私に限ぎられたものではないだろう。それに……何より私は――あんなに美しくは、走れない」
 誰かが誰かの代わりになんてなれるわけがないし、誰かが誰かになれるわけなんか、ない。
 だから、なのか。だけど、なのか。
「それでも私は、阿良々木先輩の特別になりたい」
 付き合う前に、僕は神原に向かって言ったことがある。いつかの死にかけの僕の想いは、ちゃんと彼女に届いていたらしい。
 今度は真面目な告白だった。

 ちゃんと順序を踏んで解していけば、それなりになんとかなるらしい。そんなこと知りたくもなかったが、僕は今実感している。
 ぬるぬるしている。
 信じられないし信じたくもないが、神原の細い指は内側へ向かって滑っていく。
 深く息を吐いたのは根元まで受け入れたタイミングと同時だった。
「入れられた感想はどうだ? 阿良々木先輩」
「これまでの人生の中でもトップクラスに屈辱だ」
「わかるぞ。私もそうだった」
「えっ」
 冗談だとは思うが、万が一本当だとしたらかなりショックだ。
「肉体的な快感はどうだ?」
「その表現はどうかと思うが……正直、あまり……」
 まあ、例え感じていたとしても言いたくはないのだが。彼女の指の細さの所為か、あまり表立った感覚は無い。ほんの僅か違和感を覚えるが……圧迫感というには乏しい刺激。強いて言えば、今までの人生において他人に触られたことが無かった場所を触られているという事実に一番ざわざわする。
「まあ、初めてはそんなものだろうな」
 まるで二回目があるかのような恐ろしい台詞で僕の処女喪失の感想はまとめられ。
「しかし、ここであなたの彼女を甘く見ないで欲しい。この神原駿河、そろそろ全力でご奉仕させて貰う」
 見上げた先では、神原が自分の指を舐めていた。
 親指の内側から股にかけて、そのまま人差し指を舌でなぞって濡らす様は、それはそれは僕の欲を刺激したが、ここで確実に否定しておきたいのが、その欲は決して被虐的な欲ではないということだ。なのに神原は、濡らした指で輪を作り、それを僕にはめたものだから。
「う……っ!」
 僕は反応せざるを得ない。
 足の間を中心にじんと波打つ快感が体中を駆け巡る。神原の指の往復に合わせて、だ。
 一体どこでそんなことを覚えたんだ――なんて聞けば思い当たる答えは一つしかなくて――僕の功績とも言える今はきっちりと本棚に収められた書籍達にちらりと目をやって――裏を返せばそれは僕が神原を信頼してるからこそ行き着いた答えであり、また視線を戻せば僕の彼女はその意志の強い瞳に少し柔らかい色を灯して、とても嬉しそうに、そして誇らしげに笑った。その顔を見ていると胸が熱くなることは確かな事実で――
 つまり、気持ち良かった。おかしくなりそうなくらい。
「……あんまり喘がないのだな」
 彼女が何を期待していたのかは知らないが、それは儚いながらも年上の意地と、もうひとつ、男の意地というやつが僕にもあるからだ。
「そろそろ私の名前を呼びながら、舐めて欲しいと積極的に頭を抱え込んでくる頃かと思っていたのだが」
「やっぱり、お前、相当かたよっ、て」
 というか、お前の手が僕の色々なところを触っているという事実だけで、こっちはいっぱいいっぱいなんですよ。
 そしてその心情が彼女に伝わったのか。
「ふむ。自分からねだって貰えないのは少し寂しい気持ちもあるが、阿良々木先輩の気持ちを察せれない私ではないつもりだ」
 では。
 なんて。やけに落ち着き払った神原が口を付けた場所は。
「ん、あ、かんばる、っ!」
 ぢゅ、と上品とは決して言えない音が立つ。
「いっ……も、ちょっと、やさし、く……!」
 神原のあの舌が、僕の前でも時折悪戯っぽく覗かせる桃色の舌が、今はどこに絡まっているのか想像しただけでも恐ろしいのに、その勢いに、がっついてる様に、貪る欲に気圧される。内股に触れる頬の熱は生々しく伝わってきた。
「そそるな」
 二人分の呼吸音がうるさいくらいに弾む中、小さく呟かれた彼女の声に興奮を押し殺している気配を聞いて、僕は。
「あ」
「あ」
「…………」
「……ひうっ」
 抜かれた弾みで自分の口から情けない声が漏れて、その女々しい響きは認め難く咄嗟に掌で口元を覆ったが、今更過ぎる行為だった。
 いや、止めて。
 何も言わずにティッシュを引き抜いて僕の股間にあてがうのを止めて。自分の指を拭くのもせめて見えないところでやって。
 口だけでは足りず、今度は目元まで覆う僕。男らしくないと言いたいなら言え。誰だって辛いだろ、この心境。
 自分の不甲斐なさを謝りたいけどこの状況でこっちから謝るのも癪な気がする……。
「……阿良々木先輩」
「……なんだよ、……満足したか?」
 それでも、まるでなんでもない風に装おうとる僕の器の小ささにやっぱり泣きたくなってきたところで。
「ん」
「!」
「とてもいやらしかったぞ」
 キスをされた。
 ここまでされておいて語るのも説得力が無いように聞こえるかもしれないが、積極的に見えて実は受け体質の神原駿河が自分からキスをしてくるのは珍しかった。
 つい先刻まで彼女のその柔らかい唇が僕のどこに触れていたのか、今は考えないようにする。
 すると今度は別の欲が膨らんでくるのだった。
 神原の細い背をやや強引に布団に押し付ける。
「おやおや。ついさっきまで優しくしてくれって懇願していたように見えたが、それは私の聞き間違いだったのかな?」
「うるせえ。可愛い。抱かせろ」
「自分のアナルを弄っていた相手に欲情するのか、阿良々木先輩は」
「うるせえ!」
「あん」
 ……うん。
 やっぱりポジションは逆が良い。
 さっきのキスのおかえしに、今度は僕からキスをした。
「なあ、阿良々木先輩」
 口を離してすぐ、思い出したかのように神原は問うた。
「そういえば、さっきの返事を聞いていないぞ?」
「ん、ああ……」
 思えば。
 だったら、私でもいいはずじゃないか。
 それは僕達の関係性を変えるきっかけとなった言葉だった。
 僕は言う。
 全く、こういうことは言わされ慣れていないのだが。

「お前じゃなきゃ駄目なんだよ、神原駿河」

 

0