02
涙が出る。
行為中に自分が涙を流していると気付いたのは阿良々木先輩の反応を見てからだ。
無意識だった。本当に、己の意識の範囲外。指摘されてから気付く。自分の睫毛が潤んでいる。悲しくてとか、嬉しくてとか、感極まってとか、果たしてそういう言葉に収めてしまって良いのかどうかも自分では分からない。
ただ生理的に、瞳から涙が溢れそうになる。
阿良々木先輩は決まって動揺する。それはそうだろう。行為の途中で相手にいきなり泣かれてしまっては、動揺したとて無理はないだろう。
ましてやあの阿良々木先輩である。すぐに中断して、ひとしきりあたふたして、ひとしきり謝って、ひとしきり首を垂れて。謝らないで欲しいと私が少なくとも三回は繰り返し、そしてやっと格好いいつむじが私から見えない角度まで頭が上がる。
その頃にはもう、行為を再開する雰囲気も残っていなくて。
――やめて欲しくない。
それを言葉にする覚悟なんて今の私にはなかった。
そして、目が覚めてすぐに鏡を覗くと、自分の顔に涙の跡が残っているのだから質が悪い。
◇
阿良々木先輩はべろちゅーが上手い。
初めてでもあるまいに、何度繰り返しても初心な彼の手付きにぎこちなさとたどたどしさが見えるのは、唇を合わせるまでだ。
舌をねじ込む強引さだとか、(恐らくは無意識に)首の後ろに回す手で相手をときめかせるテクニックだとか、口腔の弱い場所を見つける早さだとか、粘膜を撫でる力加減だとか、息を吸うタイミングだとか。細かく列挙していけばきりがないのだが、そういうのが上手い。
いや、私もそれなりに得意な方ではあるんじゃないか、とは思う。舌遣いにはちょっとした自信がある。残念ながら、比較対象がいる訳ではないので正確なところは分からないのだけれど。
しかし、口を解放された時に砕けそうになっているのは私の方の腰だということは他ならぬ事実なのである。今日は絶対に泣かないぞ、と気合いを入れて彼を前にしていたのも、もう過ぎたことなのだった。
離れた舌に胸の先をべろりと舐められて、快感が走ったのは一瞬で。
気付けば。
私の、脚の付け根の間に、阿良々木先輩の顔があって。時に大胆なことをするから、この先輩は侮れない。
「あ、阿良々木先輩、そこ……は……」
「嫌か?」
「…………」
嫌じゃない、なんて言えるか。
恥じらう演技は出来ても、恥じらわない演技って難しいんだぞ。
「ひ、うっ」
柔らかい舌が表面を弄る感触と、濡れた場所を掠める吐息。きっと彼が吐く息は熱いのだろうが、それ以上に私が熱くなっているので分からない。対して直に尻に触れるシーツはひんやりと冷たく、肌で感じる温度差も自身の心許なさを引き立てるのだが、何より。
阿良々木先輩が――私の憧れの人が、舐めている。
さっきまで唇に重ねられていた場所が、今は脚の間にある。
見るに堪えない光景ではあるのだが、同時に目が離せなくもなって。注ぐ視線を外せない。すると自分の太腿の間に身を潜める先輩と目が合って。
とんでもないことをしている。そう胸中で言葉にしただけで興奮が桁違いに大きくなってしまって、腹の奥からせり上がってくる快感に身を震わす。それでも、というかそれでかえって調子が出てきたのか、表面を恐る恐る辿るだけだった舌の往復に少しだけ勢いがつく。先を圧迫するような刺激に息を吐く。
止めてくれ、と言えばすぐに叶えられるだろう。そういう人だ。しかし、私の口は重く――というか、耐えるにあたって歯を食いしばっていて――閉ざされたまま。拒絶の一言は喉につっかかったまま上がってこない。
瞼を持ち上げていられなくなって、狭まった視界が歪んで初めて気付く。
まずい。もう涙が出そうだ。
と、そこで先輩が一度口を離したので、すんでのところで事なきを得る。
「大丈夫か?」
「ん、大丈夫……」
「本当に?」
「本当、に」
「……本当に、大丈夫か?」
「あ、ああ……?」
一体何度確認すれば気が済むのだ、と文句を口に乗せようとしたところで。
瞬く間だった。
ガッと。そんな音まで聞こえてきそうなくらいの力強さで膝を折られた。
「ひっ」
反射的に脚を畳もうとするが、その前に足首を強く掴まれてしまい退くタイミングを失った。
そのまま阿良々木先輩は私の太腿を持ち上げて、先程までとは比べ物にならないくらいの、凄まじい勢いで舐め始める。
なんというか、こう……彼の中の欲という欲を全部舌先に集めたんじゃないか、なんて考えかけてしまうくらい。同時に交わしていたキスの感触を思い出して、顔から火が出そうになる。
そんなつもりは今までだってなかったのだが、この人を甘く見ては駄目だ。
だからか。だからあんなに念押ししたのか。
「ま、まって、く……いっ、い……っ!」
勿論待っては貰えない。
ぬるつく感触は彼の唾液の所為なのか、それとも私自身の所為なのか。開いた場所に執拗に絡み付こうとする舌。吸い付いてくる唇の動き。どれも柔らかくて、自分の張り詰めている硬さを否応なしに自覚させられる。その場所をなぞられる度に電流のような刺激が身体を巡って。
浮いた脚がつりそうになる。
阿良々木先輩の内側から漏れる欲が、その全部が、私を追い詰める。
気持ちいい。涙が出そうな程。
でも、駄目だ。頬を濡らすのを許してしまうと、この行為が終わってしまう。
でも、尊敬すべき先輩にこんなことをさせていて良いのか。
でも、気持ちいい。
でも、
私は阿良々木先輩にいかせてもらいたい。
◇
「悪い。ついつい調子に乗っちゃって」
「…………」
そんなこと今更言葉にしなくとも分かっている。
重力に逆らうことを止めて後ろに倒れ込む。汗を掻いた背を布団に沈めてすぐだった。
眦があっという間に濡れて、溜まり、溢れ、零れ落ちる。
「か、神原?」
私の涙を見て、やはり、というかもはやお約束のように阿良々木先輩がおろおろと慌てふためいたとて。
今日は私の勝ちだ。
誰が何と言おうと私にとってその事実が誇らしく、泣き笑いのおかしな顔のまま、心の中だけで呟いた。