ミザリーワルツ

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「ハロウィンって、いつだっけ?」
 手元のスマートフォンでSNSのタイムライン(私は間違っても他人と繋がりたいなんて思わない)を追うのに夢中だった筈の沼地蠟花は、そんな質問を私に投げた。
 いきなり声を掛けられたので、冷水を浴びせられたかの様にひやりとした。同じ部屋にいたというのに、だ。小柄な彼女の尻が、私のクッションを控えめに押し潰している。だけど、そんな主張の少なさは、同じ空間にいても気楽で良かった――今みたいに前触れなく話しかけられる時を除いて。
 話を戻すと。
 投げ掛けられた問いに素直に答えるならば、十月三十一日だ。
 だけど、いくら彼女とて、今や国内でメジャーとなったイベントの日付を知らない筈はないだろう。なので、これは易しい世間話の一種として、話題を振られたのではないだろうか。だとしたら業腹だ。それに、既に彼女が口を開いてから数秒は経過しているし、会話の糸口はもう途絶えたと言えよう。上手く乗ってあげられなくてごめんなさいね。
 しかし、それ以上に、私は彼女の口からその単語が出てきたことに、ちょっとした驚きを覚えたので、芽生えかけた刺々しい気持ちはそう長くは続かなかった。
 なんか貴方って、そういうイベントっぽいの、嫌いそうじゃない。
 私? 私は勿論嫌いだけど。
「そうか。明後日なんだ」
 と、やはり私の返事を待たずして、彼女は件のスマホを駆使することで自己完結に至ったらしい。
 気になるのだろうか。
 この田舎町においてはまるで仮装みたいな髪の色をしている癖に……と、私は彼女の茶色い毛髪を見つめて、すぐに止める。ぞっとしないことだ。
 褒められない思考と、先程の会話失敗により気が咎めた、という訳ではないが。
 ……じゃあ、林檎のパイでも焼きましょうか。
 なんて、今度は私から前向きな提案を口にしたら、彼女は意外そうに両眉を持ち上げた。途端、口にするんじゃなかった、なんて後悔が私の心に津波のように押し寄せる。浮足立った気持ちを余計に泡立たせ、波の去った後のなんと虚しいことか。
 そうかそうか。私が甘い菓子でも作ろうと提案するのは、日頃やや愛想に欠けるお前にそんな顔をさせるくらいに意外なことか。
 二秒前の発言をなかったことにしたい。そんな風に神様にでも祈りたくなったが、私を傷付けた本人が待ったをかけた。
「そう怖い顔をしないで。私はただ、お菓子を自分で作るという感覚が新鮮だっただけだよ」
 と、肩を竦めた。
 そうかしら? と私も彼女を倣って肩を竦めて見せたのは、ちょっとした茶目っ気だ。そのくらいのユーモアなら私だって有している。ボディランゲージを挟むことで、沈みゆく気持ちを浮かばせられないかという淡い期待もあったのだけど、残念なことに成果は上がらなかった。
 私の発言が脈絡なく、可笑しいものだったことには違いないが、しかし、彼女が首を傾げた感覚は解りかねる。
 取り立てて難しいことではない。焼き菓子を作るのは比較的容易だ。材料を分量通り正確に量り取りさえすれば、まず失敗することはない。焼き加減だって、家のオーブンのスペックを把握していれば問題ない。特にアップルパイというやつは、生クリームを角が立つまで泡立てる必要もないので楽だ。調理器具の後片付けに限っては、ほんの少し疎ましく思う気持ちもあるけれど、幸か不幸か(なんて謙遜するまでもなく私は不幸だけれど)私は引きこもりなので、費やす時間だけはたっぷりとあるから。

 折角なら一から作ろうか――粉をふるって生地を練ろうかとも思ったが、彼女の滞在時間を考慮した結果、冷凍のパイシートを買ってくることにした。あと、赤くて小ぶりな林檎を二つ。
「老倉さんって、数学が好きなんだっけ?」
 なるべく丁寧に皮を剥いている途中、脈絡の無い質問が飛んできた。しかし、答えに苦労するような類のものではなかったので。
 ええ、好きよ。
 だから、素直に答えた。意外に思うかもしれないが、私にだって、好きなものはある。
「だったら、お菓子を作るのにアップルパイを選んだのは、その所為なのかい?」
 次の質問は容易じゃなかった。『その所為』という言い回しは、『私が数学を愛している所為』と読み換えることが出来るけれど。私は彼女にこう聞き返さなくてはならないだろう。
 ええと、どうして?
「数学といえば、林檎のイメージだから。理由? なんとなくだよ。あと、経験則かな。算数の問題で、小学生の男の子が買う果物という印象が強いかな」
 …………。
 何故だろう。聞き返したことで、理解の難易度が上がった気がする。
「あとは、あれだろう? 万有引力の法則の発見に貢献したとか」
 それは数学じゃなくて物理学じゃないか。しかも、アイザック・ニュートンの逸話は物証に欠けるということはもう世間の常識ではないのか。
「生憎無学でね。数学なんて、三年前に触れたっきりだよ。高校には行ってないからさ」
 と、沼地蠟花は続けた。
 数学の美しさを理解して貰えないことは少し悲しかったけれど、しかし、己を無学だと称した彼女を蔑視することは出来ない。
 私も同じだからだ。

 

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