もしも、もしも、もしもの話

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01

 携帯電話のボタンをちょっとばかしプッシュするだけで、神原駿河は簡単に現れる。
 いつでも。どんな時でも。
 誤解を招きそうな言い方になるが、それが彼女の僕に対する忠誠心とやらの表れだとしたら些か不安を覚えるし、はたまた愛情とやらの表れだとしたらそれはそれで負い目を感じてしまうのが正直な所だった。
 それでも僕は神原駿河に甘えてしまう。先輩なのに、後輩に甘えてしまう。恋人関係が成立すると先輩後輩関係は薄れてしまうのではないかと勝手に思っていたのだが、どうやらそんなことはないらしい。
 三十分後、ミスタードーナツで。
 通話時間の殆どをどうでもいい雑談で潰した後、僕の唐突で大雑把な呼び出しを受け、彼女はいつでも走って待ち合わせ場所までやってくる。そんな様が嬉しくないわけがないじゃないかと、本人に伝えることこそ無いが。
 今日も。
 敢えて室内には入らずに店舗前で待っていた僕は(体育会系基質神原は待ち合わせにおいて十分前行動が徹底されているので、僕はいつも十五分前に来るようにしている。紳士ぶってるとかそういうんじゃなくて単なる年上としての見栄だ)自分に向かって駆けてくる足音をどこかそわそわした気持ちで聞いた。
「悪いな、いつもこっちの都合で呼び出しちまって」
「何を言ってるのだ。阿良々木先輩のエロ奴隷たる私は、主人の都合に振り回される以上に嬉しいことなんて無いんだぞ」
 しかし、笑顔で割と重いことを言う後輩である。その辺もこの後輩に対して僕が危惧している所なのだが、心の隅ではどうしても喜びを隠しきれないのが自分の弱い所である。
「待ち合わせをしたってだけで主従関係を結んでくるのは止めてくれ」
「ではエロ奴隷と書いて、『こいびと』と読んで欲しいな」
「大胆なルビの振り方だな」
 数キロ走っただけでは息の上がらない彼女だが、この寒空の所為か上着の詰めた襟から覗く頬は少し赤くなっていた。

 店に入る。
 注文。
 皿を持って席に着く。
 神原はいつものようにフレンチクルーラー、かと思いきや、今日は違うドーナツが皿の上に乗っていた。
 エンゼルフレンチ。チョコレートのコーティングとホイップクリームが追加された、普段よりちょっとリッチでカロリー高めの奴だ。
「偶には気分を変えるのも良いではないか」
 本人はそんな身の無い理由を述べていただろうか。それが何を意味するかは言及しないでおく。
「そもそも、私がフレンチクルーラー以外に手を出し始めたのも、最近の話ではないし」
「えっ、そうなの?」
「ああ。阿良々木先輩とは最近めっきりご無沙汰だったから、知らなかっただろう?」
『阿良々木先輩とご無沙汰だったから』の件に合わせて自分の胸を寄せて持ち上げるようなポーズを見せる神原。厚手の上着の上からなのではっきりとした形は分からない。しかし、出会った頃にも同じような格好を見た覚えがあるのだが、あの頃より伸びた髪がその破壊力を増幅させている。
 僕は平常心を装って、おかわり自由のコーヒーを口に流し込んだ。
「なんというか……僕が言えることじゃないけど、自分を安く売り込むような真似は止めて貰いたいのがこちらの本音なのだが……」
「うん。本当に、阿良々木先輩が言えることじゃないな」
 本人にとって満足いく反応が期待出来なかったのだろうか。神原はすぐに挑発的なポーズを解除し、ドーナツに食い付きながら素直に頷いた。
「しかし、彼女としてその台詞は嬉しい。ありがたく頂いておこうと思う」
 なんて、前置きをしてから。
 それが皮切りになったのか、そこらで僕達は用意されていた本題へと移ったような気がした。
「そっか……お前と会うのもそんなに久しぶりかあ……」
「阿良々木先輩もお忙しい人だからな――」
 ――彼女を放り出して、色々なことに首を突っ込むのに忙しい。
 と、神原は突然、ストレートに言った。
 ストレートな中に珍しく嫌味の籠った発言であるが、事実であるのでぐうの音も出ない。
「…………」
「…………」
「か、神原さん、もしまた機会があれば映画にでも行きませんか」
「そうだな。阿良々木先輩から誘われたら私が断れるわけもないだろう」
 出ないなりに、なんとか相手に向けて絞り出した僕の声は震え、上擦る。
 たじろぐ彼氏と対照に、僕の彼女は男前な返答をした。
「……と、言いたいところだが」
 した、と思ったのは早合点だった。
 彼女はかじりかけのドーナツを一度皿に戻した後、唇の端に付いていたクリームを舌で拭って(ちょっと可愛いって思った)、僕の目をまっすぐに見つめて。
「もしかして先輩は、先の約束を、先日の件を、忘れた訳ではないよな?」
 うう……。きた……。
 というより、自ら藪を突いた。
 意志の強い瞳が僕を射抜く。
 まあ今日はさっさと蛇を出してしまいたいという、これまた男らしくない気持ちもあって、僕の方が彼女を呼んだ訳だが。
「正直、デートの約束をすっぽかすのは頂けないと思ったぞ」
「それは本当に……大変申し訳無く思っております」
「うん……そうやって直接、謝って貰えるならいいんだ」
 目前から見えない圧が消え、再びドーナツに手を伸ばす神原。
「まあ、またいつものように、阿良々木先輩にとって大事な何かがあったのだろう?」
 そう僕に対してか自分に対してか、どこか言い聞かせるような口調で話題は締められた。
 言いたいことは言いたいように伝える奴であることは承知しているが、しかしどうして慕う相手(自分の事を指して表現するのは多少気恥ずかしい)への忠誠心が高すぎる点はいつまでも心配だった。だから、その相手にさえ文句を言って貰えるようになった所を見ると、良くも悪くも彼女は変化したのだろうか。僕は身勝手にもそう思った。

 その後は平穏にそれぞれドーナツをお腹に収め、影の中の元吸血鬼幼女の為の持ち帰り用の注文も終えた後、僕は彼女を自宅まで送り届けたのだった。
 立派な神原家の門前に立つ二人。時期が時期なだけに、日が傾くとすぐにひんやりした空気が僕達の間に流れる。
「もう寒い季節だし、ちゃんと服着て寝ろよ」
「……自信が無い」
「服くらい着ろ。現代人として。風邪引いたら映画は無しだからな」
「阿良々木先輩が着せてくれるという手は」
「無いな」
「成程。脱がせる専門か」
「それこそ自信無いよ」
「いっそ阿良々木先輩が温めてくれるというのは」
「もっと無い」
「でも、その時は服は着ていない方が先輩にも都合が良いのでは? 私が裸で寝るのも、いつか阿良々木先輩と枕を共にする日が来るのを想定した上で」
「神原くんは脱がす側のロマンというものを勉強した方がいいな」
「らぎ子ちゃんは脱いだ側の解放感を勉強した方が――いや、ちゃんと受験勉強をした方がいいぞ」
「ギャグに真面目なアドバイスを織り交ぜてくるの、止めない?」
 別れの挨拶とばかりに軽口を叩きあう僕達。
 ふと、自分の足元から夕日によって長く伸びた影が、少しざわついた気がした。
 タイムリミットか。
「じゃあ、そろそろ……」
「うん」
「また、な」
「……阿良々木先輩」
「ん?」
「後ろを向いてくれ」
「? こうか」
 僕の身が百八十度回転するが早く、すぐに背中から首回りにかけてが温かくなった。
 突然の接触に硬直して一歩も動けない自分。
 我ながら情けないなぁ……。
「私も、前からする度胸は無かった」
「……お前、普段は大言壮語してる割にそういうところあるよな」
「恥ずかしい限りだ」
 ――正面からはまたいつか、今度は先輩から頑張って貰いたいな。
 目線を下げると、爪先立ちした神原の足が視界に入る。待ち合わせ場所に駆けてくる彼女の足音を思い出す。擦り減った靴底は、どのくらい僕の為に費やしてくれたのだろう。
 今はただ、彼女が額を背に付けたまま呟いた言葉を僕は余すことなく受け取った。それが現在の僕なりの、相手に対する誠意であると信じたい。

 

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