ひとでなしの恋

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05 彼女のそれは本望である

「さて、そろそろ答え合わせをしましょうか」
 私の話を聞き終えて、扇くんは結論を急ぐかのようにそう言った。
「扇くん。女性の経歴を必要以上に探る男は嫌われやすいぞ?」
「駿河先輩に嫌われてしまうのは頂けませんが、この世のあらゆる嘘や誤魔化しを排斥するのが僕のお仕事ですから。真実を解き明かす為に僕は存在しているんです――尤も、今から語られる真相は無論、駿河先輩も分かっている真実でしょうけれど」
 私のあからさまなはぐらかしなんて上手くいく筈もなく、扇くんは諭すかのような口調で続けた。避けたい話題の筈なのに、彼の言葉を追うことに、不思議と息苦しさは感じない。
「一つお尋ねしますけれど……ねえ、駿河先輩」
 まるで女の子のように机に両肘を付いて、私の顔を覗き込む扇くん。
 そして。
「沼地先輩が亡くなられたのは、中学三年生の頃で合ってますか?」
 静かに紡がれた質問内容は、勿論、私が予想していないものではなかった。なので、私は用意していた真実を述べるだけで良かった――そのお膳立てをしていたのは他でもない彼なのだろうが。とは言え、ここまで来ておいてはぐらかすのも嘘っぽいだろう。
「……ああ。今から三年前のことだったよ」
「そうですか」
 そこで初めて、扇くんは彼らしからぬ神妙な面持ちを見せたように思う。
 彼に人を気遣える気持ちがあったのかと、わざとらしく驚くことも出来たが、今私が求められているのはそんな茶番ではなかろう。
「駿河先輩は、ご自分が沼地先輩を追い詰めたと思い込んで、それを負い目に感じていたのではないんですか?」
 と、深淵の様な瞳を私に向けながら、丁寧に問題提起してくれた彼に対し。
「それは違うよ」
 私は簡潔に否定した。我ながら味気のない答えだとは思うが、これだって偽りようのない真実なのだから仕方がない。
 それはあの日、沼地自身の口からも否定された、揺るぎない事実なのだった。

「大人になれば、もっと優しく出来るんじゃないかと思ってた」
 スパッツを穿き直した頃にはもう随分と頭は冷えていて。だけど行為の名残で些か緩んでいた警戒心は、私にそんな言葉を吐露させた。随分と弱々しい訴えだった。
「それは私が神原にって話かい?」
 同じくジャージのズボンを穿いてから、首を傾ける沼地に『いや、私が』と言いかけて。
「……お互いに、かな」
 言い直した。
 私の本音ではあったが、かなりの希望的観測が含まれている本音だった。
「じゃあ、果たしてきみは大人になったのかな?」
「少なくともあの頃よりはマシだろう」
 見栄を張った。
 激情のままに動く辺りは、ちっとも直っていないじゃないか、と自嘲の念が走る。額に浮いた汗を拭おうとすると、自然と口角が持ち上がっていた。
 しかし、
「とてもそうは見えないな」
 なんて沼地は私を一蹴し、正したばかりの私のスカートの裾を指で摘み上げた。どうしてそこまで挑発的になれるんだと、もはや恐れを通り越して尊敬の念すら抱けそうだ。
「きみが私を――いや、私じゃなくても良い。とにかく、他の誰か――自分以外の誰かを救えると思っている時点で、それは間違いなんだよ」
「……うん。それは学んだよ。学んで、納得するまでに三年掛かった」
 と、弱者らしく、黙って首を縦に振っていれば良かったものを。
「でもな、沼地」
 ここで私は言い訳することを禁じ得なかった。私はお前が思っているより成長しているんだぞ、とでも言いたかったのかもしれない。昔から私より大人びた表情を見せていた、彼女への告白。
「どうせ、今日が三年前だったとしても、結果は同じだったんだろう?」
「……へえ?」
 絶望にも似た気持ちが私の声を震わせたが、対する沼地は意外そうに――そして楽しそうに眉を上げた。
「気付いてたんだ?」
「同じ学校にいるくせに、お前が授業を受けている姿なんて一度として見たことなかったからな」
「おや? この二年間、一切の接触を絶ってきた神原選手が、どうして私のルーチンを知り尽くしていると言えるんだい? 真面目なきみに限って、私のことを無視しておきながら、その実こっそり見ていたなんてこと――」
「見てたさ」
 嫌味を遮るように断言すると、沼地の目が意外そうに見開かれた。私が彼女に対して、こうもはっきりものを言うのは、少し珍しかったのかもしれない。
 でも。見ていたから、気付いた。寧ろ気付かない方がおかしい。
 お前の茶髪と松葉杖は嫌でも目立つから。制服のスカートの下からジャージを穿いて誤魔化してはいるものの、左足を包むギプス包帯だって与える印象はどうしようもなく強烈だ。今日のことを踏まえて、改めて思い知らされた。
「そんなに熱っぽい視線を送られても困るなあ。神原選手のエッチ」
「何とでも言え」
 沼地蠟花が中学を卒業する前に、自ら手首を切ったことは、私も知っていた。
 だけど、何故か彼女は学校にいた。何故か私の進学先である私立直江津高校に。何故か私と同じ制服を着て。まるでそういうファッションだとでも主張するかのように、だるんだるんのジャージを上から羽織って。おまけに、痛めつけたような茶色に髪を染めておきながら、本人はまるで憑き物が落ちたかのように、やけにすっきりした顔で佇んでいたのだった。
 その顔を見ると、何も言えなかった。この間はごめん、とか。その挑戦的な髪の色はどうした、とか。お前、私があれだけ止めても、進学はしないつもりだって頑なに言ってだろう、とか。左足は大丈夫なのか、とか。
 言いたいことは沢山あったけれど、彼女のその顔を見て、何を言う気も失せてしまった。
 否、単に逃げたのかもしれない。
 同じ学校にいながら、沼地蠟花の所属クラスはどうしても分からなかったし――何より分からないという事実がおかしい。
 そして、彼女の名前を他人の口から聞くことは、一度として無かった。中学からバスケ部繋がりで顔を知っていた日傘との間ですら、私が自ら尋ねるまで話題にも上らなかった。
 沼地の身に起こったことを考えれば、上げられなかったのだろうな、とも思う。誰もが忌避するかのように、彼女に触れなかった。
 だからこそ私は悟った。
 ああ、あの子は幽霊か何かなんだろうな、と。
 その事実を意外な程すんなり受け止めることが出来たのは、私が入学してすぐの頃に、戦場ヶ原先輩の『病気』について知ったから、という側面はあるかもしれない。
 自分が幽霊であると自覚しているのかどうか定かでは無かったが、とにかく私の前で沼地は一生徒の様に振る舞っていたのは、厳かな事実なのだった。
 だけど、それで良いと思っていた。あの日一方的に切り捨てるように別れを告げた私が、彼女に対し何かを言う権利もないと思っていた。
 その気持ちが失せたのは、三年生になってから。それこそ私がバスケ部を引退した頃からだろうか。引退を境にふと、違和感を覚えたのだ。
 沼地を見かける日が減っている、と。
 胸中で言葉にすることで、学校で彼女を見かけた日をなんとなくカウントするようになり。三日に一度だったエンカウントが一週間に一度になり、三週間に一度になり。違和感が確信に変わる頃には、昇降口でも、廊下でも、空き教室でも、体育館裏でも、そして屋上へと続く階段でも、私が彼女の姿を捉えるのは極稀なこととなった。
 始めのうちは、単に沼地の登校日数自体が減っているのだと思っていたのだが、どうやらそうじゃないらしい。
 日を追うにつれて、私には、沼地蠟花が見えなくなっている。
 その事実に焦燥感は抱かなかったけれど。元々、彼女との間に美しい思い出があった訳じゃない。あるのは若々しく苦くて甘酸っぱい、今となっては自分のことながら飲み込むのも苦労する程、痛みを伴う思い出だけ。
 ただ、それでも。
 完全に見えなくなる前に――会えなくなる前に、ちゃんと彼女と話をしようとは思ったのだ。
 その気持ちだけ抱えて彼女の前に立ってしまったのは、性急過ぎたと反省すること頻りだけど。自分のほだされやすさについては、昔からひとつも成長が見られず、密かに絶望したものだった。
 多分、これから時間が経つにつれて、沼地と私はずれていく。今はまだ三年分だけど、時間が経てば経つ程、その差は大きく開いていくだろう。身体も、精神も、プレイスタイルも、趣味も、嗜好も、価値観も。
 だけど、私は。
「まだ会話が噛み合ううちに、お前と別れることが出来て良かったと思うよ」
「……それは何より」
 そして彼女は二年前と同じ様に――納得した面持ちで、静かにはにかんだ。
 ずっと摘み上げられていた私のスカートの裾から、彼女の指が惜しむことなく離れる。
 素直に別れを享受することが出来る彼女の笑顔が、心底羨ましいと思った。

 それが、私が高校三年生の頃の話。
 そして、沼地が中学三年生の頃の話。

 

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