ひとでなしの恋

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02 彼女のそれは頑迷である

 確かに、私と神原は付き合っていた。
 しかし、お互いをお互いの『彼女』と呼ぶのは何か違う気がしていたし、きっとそれは共通の認識だった。
 若々しく苦くて甘酸っぱい、中学時代の話だ。バスケットボールさえあれば相手と語り合うことが出来る、と信じていた頃だ。
 そんな危なげな信仰の中にいた私と神原がしていたことといえば、専らバスケの対戦である。
 つまりは1on1をして。暇さえあれば、飽きもせず、健全にボールを奪い合って。
 彼女との語り合いの大半がコートの中の出来事だったが、爽やかに汗を掻く神原を見るのはやけに気持ち良かった。本当に、ただ見ているだけだったのに。どうしてか、透明に輝く玉のようなそれが彼女の細い首筋を伝う様を眺めているだけで、私は胸がすくような思いがしていたものだった。
 まあ、何分、好奇心旺盛な年頃だったから、キスくらいなら遊び半分でしたことがあった、と記憶している。
 でも、所謂『キス止まり』だったことは確かだ。私もそれ以上を望む欲は湧かなかったし、それ以前に、中学生の神原は真面目で、お利口さんで、何よりとても初心だったから。指摘すれば目に見えて嫌な顔をするところまで含めて。
 そして、『遊び半分』と表現するならば、残りの半分は一体何だったのか。それは私にも分からなかったし、神原に至っては、それについて何かを考えていたのかすら分からない。
 だけど、それで良いと思っていた。
 人によっては淡白に感じるかもしれないけれど、私は彼女との距離が開いていることに、不安を覚えるどころか寧ろ満足していたのだ。
 今ここで振り返ってみても、私達は随分と都合の良い間柄だったと思うし、一方で確実性の無い関係だったと言えるだろう。私達はそんな風に微妙な距離感で付き合っていた。
 言い換えれば、自分達に都合の悪いことには向き合わずに付き合っていたのだ。
 互いにとって面倒なものにはとことんそっぽを向いて、見ないふりをして――思えば真面目な彼女にとっては苦手そうなことだが――少なくとも私は、いつでも逃げ出せるようにしていたつもりだった。
 だから、互いの中学校の卒業間際。神原が『別れたい』と正面切って言った時は、さして意外でもなかったのだ。寧ろその表現を選んだことの方が私にとって驚きだった。
「私には、戦場ヶ原先輩が、いればいい」
 長い沈黙を経た後に無理矢理押し出した言葉を提げながら、こいつはなんて暗い顔をするんだろう、とは思った。そんなことは滅多に無かったが、バスケの対戦でダブルスコアを付けて負かした時でさえ、こんな表情は見せなかった筈だ。
 ……まあ、そんなシチュエーションだって、もう二度と、訪れないんだろうけど。
 なんて。
 自嘲的な気持ちに陥りがちなのは、不慣れな松葉杖に自分の半身を預けていた所為かもしれない。
 彼女が語ったのは、自分に対する必要性。確かに、私達の間柄にはなかったものだ。
「傍にいたいって、思うんだ」
 切羽詰まった告白だった。
 にしては、相手が違うだろう。
 しかし、そんな己の矛盾に気付く余地も、私に対する言葉を選ぶ余裕もないのか。彼女は彼女なりに一生懸命、再三再四にわたり説明してくれたから、そこまでの相手の気持ちは理解した。これらの発言については、私は何を言うこともない。
 ただし。
「戦場ヶ原先輩の傍に、いなければいけないんだ」
 私を苛立たせたのは、彼女の口で続けられたこちらの台詞だった。
 言葉に孕ませた自身のエゴに気付いていない、愚かな彼女の言葉。取り繕われた綺麗な並びの裏から滲む、欺瞞の気持ち。そんなものが、本当に届くとでも思っているのだろうか。
 なにより、私の方を一度として見ずに言う様が、また憎々しさを助長させる。
 だから私は彼女に言った。
 らしくないね。止せば良かったのに。私も若かった、ということなのかな。
 なんて頭の隅で詰りながら客観的に聞いた自分の声は、恐ろしく平坦な口調だった。
「……それは恋とか情欲とか思いやりとかそういうものじゃなくて、ただ自分が癒されていたいだけなんじゃないの? きみは戦場ヶ原さんに対して都合の良く癒しを求めているだけであって、本当は好きでもなんでもないんだろう?」
 私にしてたのと、同じ様に。
「違う!」
 はっきりと否定の言葉を聞いたのは、もしかしたら初めてだったかもしれない。私の発言に嫌な顔をする神原はさして珍しくはないが、感情的になったとて、それを口調にまで露わにする様な奴じゃなかった筈だ。必要以上に押し込め、押し殺した後、抑制された分だけ激しく炸裂させる――それが神原駿河という人間だと知ることになるのは、もう少し先の話だったけれど。
 自分の表情が随意に反して強張っていたことに気付いたのは、神原の告白を聞いた私がため息を吐いた後だった。
「私は、戦場ヶ原先輩が、好きだ」
 そして、彼女の重過ぎる想いは受け止められることなく、落ちていく。
 私はその様を見ていたのだ。屋上から。
 神原と最後に会話してから、おおよそ一ヶ月後だったか。
 悪趣味だと言ってくれて良い。他人の話を盗み聞きするつもりは無かったのだが、神原駿河が親愛なる先輩に告白をする為に選んだ場所は校舎と体育館を繋ぐ渡り廊下で――そのチョイスは随分と皮肉めいたものを感じたが――偶然にも屋上で時間を潰すことに専念していた私は、彼女達の密やかな逢引の様を見下ろすに十分だったのだ。
 否、立ち入り禁止の直江津高校の屋上に私がいたのは、偶然と呼べる程のものでさえない。当時、壊れた足を引き摺りながら学校に赴いていた私は、やさぐれて落ちぶれて悪ぶってはぐれていた生徒らしく、分かりやすい校則違反を犯していただけ。
 ただ、数十メートル下から響いたホッチキスの弾けた音は、不幸にも私の耳にも届いてしまったのだった。
 図らずも戦場ヶ原さんの秘密を知ってしまった私は、自ら口を噤むことに徹した。
 神原も同じ選択をしたようで、以来、清風中学時代に名を馳せていたという『ヴァルハラコンビ』の愛称を、直江津高校の中で私が耳にすることも無かった。

 それが、神原が高校一年生の頃の話。

 

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