ひとでなしの恋

Reader


01 彼女のそれは悔悟である

「駿河先輩と沼地先輩が、昔、お付き合いされていたって本当ですか?」
 と、何の前触れもなく唐突に踏み込んだことを聞いてくるような人を、私は阿良々木先輩ともう一人、彼以外に知らない。
 彼――同じ学校の一つ下の後輩、忍野扇くんを前に、私は先輩らしからぬ渋い顔をした自覚はあった。しかし、話題を選んだ本人は、相手の顔色などさして気にならないようで。
「どうなんですか? 実際のところは」
 注目すべきは現在の私のリアクションではなく過去の事実の方だ、とばかりに話を続けた。
「どうぞ遠慮なさらず、『はい』か『イエス』でお答え下さい」
「私に否定の意思はないことが前提の選択肢だな」
「駿河先輩と僕の間に肯定以外の返事なんてありませんから。僕があなたに指輪を差し出した時も、駿河先輩は黙って首を縦に振りさえすれば、それだけで良いんです」
「やけに男前ではあるが……私の自己決定権も、もう少し尊重してくれないかな」
 まあ、しかし。過去とは言え『事実』と表してしまう辺り、自分に思うところがあるという現実は、否定しきれないのかもしれない。
 『事実』――即ち『実際に起こった事柄』――扇くんが好きそうな話題だ。
「不純異性交遊ならぬ不純同性交遊ですか。興味深い話ではありますが」
「勝手に不純な間柄だと決めつけるな。……そういうんじゃないんだよ。私と沼地は……」
 うん。
 本当に、そういうんじゃない。
 それこそ、今の扇くんの台詞を聞けば、私より沼地の方が軽く笑って流してしまうだろう。そういう受け流しが、特に上手い奴だった。
 あるいは嘲笑うかもしれない。不純同性交遊だろうが、性的逸脱行為だろうが――とにかく言い様は何でも良いのだけれど――果たして私達は、そのような大仰な言葉に当てはめることが出来る程、友好な関係だったか、と。そして、そんな風に詰られる対象は言い出しっぺの扇くんではなく、きっと私の方になるのだろうけれど。
「それこそ、僕より駿河先輩の方が好かれているってことではないんですか?」
「きみと比べたら、沼地に限らず、誰だってそうじゃないかって思うよ」
「わー、傷付くなー」
 私の辛辣な言葉に、一応形の上では被害者面をしながらも、どうせ彼の飄々とした態度は変わらないのだ。
 その証拠に。
「まあまあ、僕の話は良いんです。所詮、僕は駿河先輩にとって、ただの可愛い後輩でしかありませんから」
「謙虚なことを言っている様に見せかけて、きみ、割とポジティブだな」
「しかし、沼地先輩は違うでしょう? お二人の場合――相手を傷付けたのは、一体どちらだったんですかねえ?」
「…………」
 更なる追求を避けるように彼から逸らした視線の先に見えたのは、立入禁止の――ついでに今年の頭に改修工事が入った――我が直江津高校校舎の屋上だった。
 丁度、『あの日』と似た様な寒空の下にある。
 嫌なタイミングだな、と素直に思った。
 何も知らない筈の扇くんが、当時を知ってる風な口振りで話すのを、私は黙って聞いている。問い詰めたところで『僕は何も知りませんよ』と、いつも通りはぐらかされるだけだと分かっていたからだ。そして、『あなたが知っているんです、駿河先輩』と彼が続けて述べるであろう定番の台詞の通り、『私のことは私が知っている』ということもちゃんと分かっているのだった。

 アスファルトの上のドリブルは、コートの中で聞くそれよりも鈍い音がする。
 冬の空気の中では尚更だ。
 そのことを中学生の私も前もって知っていた。だからあの日、私は家から持参した愛用のボールに新鮮な空気をこれでもかとたっぷり詰めてきたのだった。その甲斐あってか、屋外コート(とは言っても、アスファルトの上に申し訳程度に線が引いてあるだけの場所)での1on1にしては、いつもよりボール回しが早かった気がする。思わず熱が入ってしまうプレイに、コートの中の対戦相手――沼地蠟花も上機嫌だった。自分の影の努力が実を結んだ様で、ちょっと誇らしい気持ちになったことを覚えている。
 目まぐるしく攻守を入れ替えながら、私と沼地は1on1に打ち込んでいた。
 当時、私達は中学を別にしていたが、たまの休日に相手を呼び出して(呼び出すのは専ら沼地で、私は大抵呼び出される側だった気もするが)、地元の町のどこかのコートになだれ込む程にはバスケが好きだった。
 しかし、その日、コンディションが良かったのはボールの方だけだったらしい。
 寒さに悴んだ身体は十分に解れていなかったのか、私は突き指をしてしまったのだ。
 コートの中にも拘わらず足を止めた私へ、沼地からは不満気な舌打ちを頂いたが、所詮非公式の1on1だ。単なる遊び――遊びで怪我をするようでは、アスリートとしてなっていないと叱責されてもおかしくはないのかもしれないけど――それでも今回は、途中で抜けても大目に見て貰いたいと意味を込めて、私も負けじと彼女を睨んだ。受け損ねたボールを利き腕じゃない方の手で拾い上げた時は、確かに私も、少し悔しい思いはしたけれど。
 別に、珍しいことでもない。突き指くらい、日常的に球技をしていれば、誰でも一度は経験がある筈だろう。
 なのに、沼地は。
「見せて」
「嫌だ」
「どうして。ねえ、見せてよ」
「…………」
 お前に見せたところでどうなるというんだ。と、無駄に強がるような気持ちはあったと思う。敵に弱点を――弱ったところを見せたくない。そんな、小さなプライドめいた何かが。
 今思えば、それは防衛本能か何かだったのかもしれない。
 相手から逃れるように折り畳んだ腕はかえって彼女の興味を引いてしまったのか。
 突如、軽々と手首を掴まれて。
 あっという間に沼地の指が、私の指に絡む。
「いたっ」
「おっと。ごめんね」
 反射的に悲鳴が漏れると、彼女は思い直したかのように掌を柔らかく握り直した。
 それでも、曲げると痛みを伴う私の関節は、未だどくどくと脈打っている。一度触れただけの白い指先は、もう患部からは離れている筈なのに。
 心臓の鼓動と気持ちが落ち着く前に、握られた方の腕をぐい、と引かれて。
「ん……っ」
 と、自分の喉が唸った音と、ささやかなリップ音。それから私が抱えていたボールを取り落とした音が、バスケットゴールの下で響いた。
 やっぱり少し鈍い音だった。
 状況を飲み込めないまま、私は反射的に目を瞑ってしまったが、瞼の向こうではいつまで経っても彼女が退く気配がない。そのまま相手を押し退けるタイミングも掴めず、その時の自分が出来たことと言えば、恐る恐る目を開けることくらいだった。睫毛が触れそうな程の近い距離で見る沼地の表情は、数秒前の私と同じ様に目を瞑ってはいたものの、まるで『バスケの代わりの新しい遊びを見つけた』とでも言うかのように、とにかく楽しそうな顔だった。
 同い年である筈なのに、いつも彼女の方が年不相応な色気を見せて一枚上手というか、はたまた私がほだされやすいだけなのか。
 どうしても目が離せなくなってしまう。
 『1on1をやろう』と誘われる時もそうなのだけど、こいつは本当に、心底楽しそうな顔をする。
 ……だから、断れないのだろうか。
「っ! ……ん、む」
 あろうことか、彼女はその澄ました顔を崩さないまま、更に奥へと入って来た。
 バスケットボールを扱う指よりずっと柔らかな唇が割れて、入ってきたもの。それが何なのかは知識としては知っていたけれど、実際に迎え入れたことなど中学生の私にはついぞ無かった。初めて受け取る粘膜の感触に、嫌悪を覚えなかったと言えば嘘になる。しかし、若さというものは怖いもので、好奇心の方が勝っていた。
 寒空の下、彼女の口の中はとてもとても熱いことを知ってしまい、それはとてもいけないことのような気がして。罪悪感に後押しされての行為であったことは、今でも否定しない。
 唇の隙間から溺れぬように息を吸う。それでも新鮮な酸素で肺を十分満たすには足りない。元から朧げだった自分の理性が、そのままぼんやりと薄まっていくのを、私はそんな風に酸欠の所為にしたかったんだと思う。
 今になって思い返せば、過去の自分とはいえ叱責したくなる程愚かしい言い訳をしていることを恥じ入るばかりだが。
 しかしその時、酸素が欠乏していた自分の頭では、いつからか寒さなんて気にならなくなり、だけど左手の指の痛みだけは、やけにはっきりと感じていたのだった。

 それが、私達が中学二年生の頃の話。

 

0