スローモーション

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「寝る前に辺りを一回りしておこう」
 とのことで、僕とりんさんは暗く濁った色の空の下を歩いていた。
 幸い、その日は赤霧も少なくて、葉をつけたミドリさんの幹が、遠くで静かに光っている夜で。だから、ちょっと気が抜けていたというか。僕が思ったことをふと、そのまま口に出してしまったのがきっかけだった。
「りんさん、なんだか良い匂いがしますね」
「は? 匂い?」
 前を歩いていたりんさんが、振り向き様に後退った。ここはいきなり変なことを言って驚かせてしまった僕が悪いのだろうけど、何もそんなに警戒しなくても……と、ちょっとだけ悲しい気持ちになったことは内緒だ。
「ケムリクサの匂い、なんですかね? こう……側を通った時、たまにふわっと――」
 と、そこまで言って、口を噤む。りんさんの両目が、僕をきつく睨んだからだ。りんさんは姉妹の中で一番目が良いそうなので、そうやってまじまじ見られるとちょっと緊張してしまう。
「……またケムリクサの話か」
 呆れたようにそう言って、目を細めた。僕も、僕自身のことはよく分からないことが多いのだけど、どうやら好奇心を抑えられない性格っぽいということはなんとなく分かってきた。りんさんは真面目な人なので――それは妹のりなさんや、お姉さんのりつさんをいつも気に掛けているからなんだろうけれど――こうして冷ややかな目で見られることも、多々ある。
 でも、最近は比較的、僕のたわいのない話にも付き合ってくれるようになった。ような気がする。多分。
「私はあまり……その、匂いとか。感触、とか。そういうのは分からない。そういうのは、姉が得意だった」
「お姉さん、ですか?」
「そう」
 と、廃墟の壁に背中をつけたりんさんは、なんだか寂しそうな顔で、口元を覆うように掌を構えた。指の隙間から、口に咥えたミドリさんの色が覗いている。僕はその綺麗な色が好きなので、思わず見とれていると。
 身じろぎひとつせずに、ふっ――と、息を鋭く吐いた音と同時に、緑色の閃光が僕の隣を弾けた。
「ひっ!」
 ごろん、と瓦礫か何かがが落ちた音。振り返って足下を見れば、赤虫の残骸が転がっていた。
「す、すごい……! ちょっと払っただけ、なのに」
「ただの小型だ。大したことない」
 りんさんの吐き出したミドリさんの名残が空気と混ざりあって、ふんわりと馴染んでいく。それが完全に消えてしまうのはどうしても勿体無い気がしてしまって、僕は大きく息を吸い込んだ。
「あ。でも、なんだか違う? 違う匂い……なのかな」
「何が」
「ミドリさんの葉の匂いと、りんさんの葉の匂い。上手くは言えないんですけど、ちょっとだけ違う感じがするんですよね。煙たいんですけど、なんかすーっとしてて。あと、りんさんの葉の方がちょっとだけ甘い、のかな? なんでだろう、気になるなあ!」
「……ふん」
 りんさんは素っ気ない調子で、またミドリさんを自分の唇の間に挟んだ。
 うーん? 赤虫の気配は、もうないと思うんですが……?
 りんさんのほっぺたは、たまになんですが綺麗な色に染まる時があって、それが口に咥えたミドリさんの色と合わさって、また素敵だなあ、なんて思ったり。
「そろそろ戻るぞ」
「あっ、待ってください!」
 と、りんさんが踵を返した背中に、ケムリクサが輝いているのが見えた。
 記憶の葉、でしたっけ。何度見ても綺麗なのですが、夜になると特に目を奪われます。すると、なんだか好奇心みたいなものがぞくぞくと膨らんできて……。
 どうしよう、どうしよう、どうしよう。
 絶対怒られるだろうけど、めっさ、めっさ気になる……!
「あっ、あの! もし、良かったら、でいいんですけども……りんさんに触らせて貰えませんか?」
「は!?」
「ミドリさんの葉の触り心地と、りんさんの葉の触り心地、比べてみたいんです! ミドリさんなんかは特にそうなんですけど、触るとつやがあって気持ち良くて、でもでも、匂いは意外とツンとしてるところもあるっていうか! だからまた新しい発見があったら、ケムリクサの使い方とかも広がったりなんかして……あ」
 またうっかり早口になってしまった。好きなものを前にすると、つい自分の世界に入り込んじゃうというか。あまり良い癖だとは言えないよな……うん、悪い癖です。はい。
 気が付けば、りんさんの視線が今までにないくらいにつめたーくなっていて。ミドリさんを育てているりつさんだったら、分かってくれる時があるんだけど。あの人は僕の早口も聞き取れるらしいので。いやいや、どっちにしろりんさんに睨まれることには変わらないか。もしかすると、「やっぱりこの場で処理する」って言われちゃってもおかしくない……。
「おい」
「ひっ……す、すみません! ただの! ただの好奇心なので!」
 こうして頭を下げるのも、もう何度目でしょうね……。うう、嫌だ。嫌だけど、僕の命って始めからりんさんに預けっぱなしなところがあるので、仕方がないんでしょうけれど。
「いくぞ」
 と、命を投げ出す覚悟を決めるのは尚早だったのか。伏せていた顔を上げると、りんさんはまた毅然とした態度で歩き出していた。りつさんとりなさんが待っている移動が出来る箱を止めた場所に――ではないようで。
「え……っと、どこにですか?」
「お前が言ったんだろう。別に……その、さ、触り心地とやらを確かめたいだけなら……」
「えっ! 本当ですか!?」
「ちょっ、ちょっとだけだからな!」

 こいつの言う好奇心とやらは、私にとってはあまりよく分からないものだ。
 ただし、変なことを言い出した時のこいつは、決まって楽しそうに目を輝かせているから、私の視界まで眩しく曇ってしまうので、困る。
 屋根がある場所を選んで、中に座った。赤虫から身を隠すという目的もあったが、こいつの前で、ただ黙って静かに座っているだけというのは、なんだか落ち着かないと思ったからだ。
「あの、本当に」
「なんだ」
「さ、わって良いんです……か?」
「……あ、ああ」
 すー、はー。
 と、大袈裟に息を吸って吐いてから、まもなくおっかなびっくり手が伸びてきて、私の胸元に着地した。拍子に、私の唇の端からも息が漏れてしまった。
「……ん、っ……」
「す、すみません! 痛かったですか?」
「い、いや……大したこと、ない」
 決して強がりではない。私には、その『痛い』も完全には分からないから。
 緊張しているのか、手が少し震えている。
 でも、視覚程はっきりと認知することは叶わなかったが、おぼろげに感じるものはあった。
 相手の指が私の胸に沈む度に、とてもぼんやりとした感覚だが、なんとなく……気持ちが良いような気がする。
 これがりくの言っていた『痛い』ってやつなのかな。なんでも、『痛い』にも種類があって、感じると最っ低な気分になるやつと、その反対の、もっとくれ! ってなるやつがある……そんなことをあいつは言っていた気がする。もしそうだとしたら、これは前者の『痛い』だろう。よく分からないが、そうに決まっている。それとも、これは『痛い』じゃなくて『ぞわぞわする』って言ってたやつかな。りくはそれらをひっくるめて全部好きだと言っていた。
 ……好き、は多分、良いことだ。
 なのに、私はなんだかいけないことをしているような気持ちになる。
 記憶の葉の近くが、ぐずぐずと疼く。
 顔を上げると、もじゃもじゃ頭がすぐ近くにあった。ふたつの瞳が私の胸と、私の中のケムリクサを熱心に見つめている。そのことに気付いた瞬間、触れられている胸の内側がどくっとした。……どうしよう。今のが、この触り心地とやらを感じるやつにも分かるものだったら。
「すごい……めっさやわらかい……」
「や、やわらかい、のか?」
「はい。めっさやわらかくて、めっさ気持ちいいです」
「自分では、あまり、よくわからん……っ!」
 なんだか妙だ。さっきから反射的に身体がびくっと跳ねてしまう。
 こいつの掌が身体の表面を撫でると、その度に苦しくて息が詰まる。すると、身体の表面だけでなく、奥の方が熱くなるような気がして、大きく息を吐いて熱を逃したくなる。
「ひ……」
 布の上を往復する手指がひっかかりを覚える。その度、私の頭から爪先までを、びりっと何かが走る。何故かは分からないが、なんだかとっても、恥ずかしいことのような気がする。初めて感じる、胸の先がつっぱるような感触。気持ち良いのに苦しいだなんて、今までになかったから、どうしたら良いかが分からない。
 思わず涙が出そうになって、駄目だった。まばたきをひとつするだけで、今にも溢れてしまうんじゃないかと思う。そうなると、唯一自由に扱えた視界の広さも失われていくようで、怖くなる。
「……ふ、ぅ……」
「大丈夫ですか、りんさん」
「あ、ああ……続けてくれて、いい……」
 自分の声が、思っていたよりもずっと涙声になっていて驚いた。
 すぐ目の前で、息をのむ音が聞こえた。
 返事はなかった。代わりに、もう一方の手が私の頭を抱え込むように回り込み、耳の後ろを優しく撫で始める。
 怖かった筈なのに、何故か私の口から出たのは、全てを委ねてしまいたいと感じた気持ちそのままだった。そんなことを思ったのはいつぶりだろう。もしかしたら、生まれて初めてかもしれない。それは決して褒められるものじゃないから。
 胸元と耳。ふたつの場所を同時に弄られると、触り心地をぼんやりとしか感じられない私でも、快感が強くなった。
「りん、さん」
「なっ、ん……ぁっ!」
 口から勝手に変な声が出た。触られていない筈の身体の奥が、またぐずぐずとくすぶり始めた所為だ。
 おかしい。
 私の身体が毒にゆっくりと沈んでいって、私の思うように動かなくなっていく。
「あ、あれ……? お、かしいな……」
 一瞬、私が考えていることを覗かれたのかと思ったが、違った。しかし、これ以上続けていたら本当に、考えていることまでないまぜになってしまうのではないか。そんなことを考えかけた途端、羞恥心が込み上げてきた。相手の顔をまともに見られそうにない。
「な、なんだ?」
「えっと……こういうことを言うとおかしいって思われるかもしれないんですけど、いまのりんさん、なんだかすっごく可愛いなって思っちゃって」
「っ!?」
「あ、あの! す、すみません! 違うんです! 変な意味じゃ、なく、て……」
「……あた、ま」
「へ?」
「あたまを、なでて……ほしい」
 変なことを言った。私がしおらしくいるのがそんなに意外だったのか、数秒の沈黙が降った後。
 ……はい。
 と、胸を触っていた手が離れ、頭へと移された。喪失感と充足感が同時にやってきて、また私を困惑させた。大きな掌が、髪を絡めながら優しく滑っていく。どうしたら、これをもっと感じ取ることが出来るんだろう。
 身体の奥を触って貰いたい、と考えている自分に気が付いた。また、記憶の葉の近くが、爪か何かで引っ掻かれたように疼く。
 泣きそうだ。
「りんさん、めっさ良い匂いだけど、触り心地もめっさ良いんだなって……僕、好きです」
「……お前が好きなのはケムリクサだろう」
「ち、違……いませんけど! りんさんのことも、僕は」
「私のこと?」
「い、いえ。なんでもない、です……」

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