03
沼地蠟花は一人暮らしをしていた。
いや、戸籍謄本上は、今もしている。
ならばどうして過去形で表現したかと言えば、ミクロ的に考えた場合に、つまりはここ数日の生活を振り返った場合に、現在進行形で表すのはどうかと思ったのだ。
勿論、一人で食べて、一人で寝て、一人で暮らしていく為の最低限のルーチンワークが立ち行かない、という意味ではない。寧ろ一人で生きる方が何倍も気が楽だ。私は昔からそういう気質で、つまりはソロプレイヤーだ。
ソロプレイヤーだった筈だ。
最近は、目覚ましを鳴らさずに起きた朝なんかに、布団の中でよくそんなことを考える。しかし、考えても無駄なことだということもは端から分かっていることなので、私は頭を持ち上げた。のそりと。
そのままベッドから抜け出そうと、隣で山なりに盛り上がっていたタオルケットを跨ごうとして。足に柔らかいものが当たった。
「ぐ……」
右足をぶつけてしまったものは神原駿河だった。丁度相手の太腿辺りをぐにゃりと踏んでしまった。
私が寝起きしているワンルームは西向きなので、日が昇り切った明け方でもちょっと薄暗い。その所為もあって避け損ねてしまったのだ。
それこそ、ソロプレイヤー時代には経験したこともなかったアクシデント。
彼女は小さく呻き声を上げたが、私に非難の声は飛んでこなかった。
だからなかったことにしよう。
空きっ腹を抱えて、部屋の隅のキッチンスペースに立つ。僅かな希望を捨てずに冷蔵庫を開けたけれど、中には卵が一個しかなかった。
「ねえ、神原選手。卵が乗ってる卵かけご飯と、乗ってない卵かけご飯、どっちが良い?」
「その二択しかないのはあんまりだから買ってくるよ。ついでに少し走ってくる」
と、いつの間に起きていたのか。
彼女はきびきびと寝間着用のTシャツの下にスパッツを履いた。少し長めの丈のやつだ。
私が何かを言うより先に、玄関で靴を履く。そのおろしたばかりのランニングシューズも、私の部屋に滞在中に買ったものだった。隣に置きっ放しのヒールを履いているところは、ついぞ見ていない。
「今日、バイトは?」
「入れてない」
「ん」
頭の中でカレンダーを数えて、今日で七日目。朝のニュース番組ではUターンラッシュを報道していた。お盆休みの最終日、という世間一般の認識を、私も頭の隅にインプットする。
夏休みの終わりが見え始めて、憂鬱な気持ちを膨らませる学生は多いのではないかと思うのだけど、彼女はその限りではないらしい。大学生の夏休みがとても長いというのは、私が最近新たに得た知見だ。
自宅と学校の往復の休息タイムを得た神原は、ついでにナース服を着ることも休むことにしたようだった。
◇
きっかけは八月初旬まで遡る。なんて語り出すと異様な程仰々しく聞こえるが、きっかけはあくまできっかけに過ぎず、この日を境に彼女が抱えていた問題が露呈しただけだと私は踏んでいるが。
日曜日の二十七時過ぎ――つまりは月曜日の午前三時過ぎ。
……ねっむい。
寝起きは最悪だった。というのも、私を叩き起こしたのが、突然鳴らされたアパートのインターホンだったからだ。でなければ、こんな冗談みたいな時間を指して早起きしたとは言わない。
一人暮らしの私の部屋に、こんな時間に来訪するのはバイト上がりの神原選手くらいなので、ドアスコープ越しに相手の疲弊した顔を確認した後、チェーンのロックを外した。
彼女はピンヒールを揃えて脱いだ。いつもそんなに行儀が良いのかと聞けば、雑に脱ぎ散らかしてヒールを痛めたことがあるらしく、私の前でのそれはただの経験則からのルーチンワークに過ぎなかったらしい。
「ああ、疲れた。起きててくれて助かったよ。あと、ついでにシャワー貸してくれ」
「…………」
何だよ。いきなり現れて、その傍若無人な態度は。人の家に上がり込んだら、まずは『お邪魔します』とか言うもんじゃないの?
なんて、面倒なことを思いはしたが言う筈もなく、相手の希望通り、そのままバスルームに押し込んだ。汗の匂いと香水のラストノートをさっさとまとめて落として欲しかったからだ。
神原がシャワーを浴びる音を聞きながら待つのは、これで二度目くらいだっけ。しかし今回はあまり楽しい話じゃなさそうだ。なんてことを考えながら、部屋の隅に置いたままの、もう使っていない松葉杖に目をやった。これも彼女が気付いたら顔をしかめそうなものだ。
風呂から上がって、裸の神原がバスタオルで頭を掻き始めるのを確認してから、私は訊いた。
「別に構わないんだけどさ、こんな時間に何の用? まさかうちでシャワーを浴びる為だけに来た訳じゃないんだろう」
「あー……まあ、そうなるよな。んー……別に隠すことじゃないから、良いか」
なんて、逡巡の姿勢を見せながら不穏な前置きをした後、彼女は言った。
「家に帰ろうとしたら、店の客が出待ちしてた」
「通報案件じゃないか」
ここまでついてきていたらどうするんだ。民事刑事問わず、ややこしいことに巻き込むのは止めてくれよ。
私は再びドアスコープを覗いて人影がないかを確認したが、魚眼レンズを通して明け方の空がぼんやりと見えただけだった。
「大丈夫。まいてきたから。あと、知り合いのおまわりさんに通報しておいた。正義感の強い人だから、寧ろそっちの方が心配だな」
「はあ」
と、神原はよく分からないことを言いながら、私のベッドに横になった。よっぽど疲れていたのか、ものの一分で寝息が聞こえてきた。
◇
程なくして、件の不審者は警察のお世話になった。と、いう話を神原から聞いた。
知り合いのおまわりさんとやらは、よっぽどの仕事熱心だったらしい。はたまた、よっぽどの人格者だったかのどちらかだ。
「人格者とはちょっと違うような気もするのだが……まあ、私に限らず他の女の子も似たような経験をしていたようだから、結果的には良かったのかな」
なんて彼女は言っていたけれど、それでも自宅に帰る気は起きないらしかった。
「ほら。夏休みだから」
と、あまり身の無い理由を掲げながら、私の部屋に居座っていた。裸足であぐらを掻いていた。お昼ご飯のインスタントラーメンに卵を落として啜っていた。
「本当は味玉だとベターなんだがな」
「じゃあ自分で作ってみろよ」
「そんなそんな」
麺を口に収めながら、神原はらしくなくふにゃりと笑ったが、それはあれだな。料理が出来ない奴の反応と見える。
「……一応、目標としている貯金額はあるんだ」
「ふうん」
何の話で話題を逸らすのかと思えば、バイトの話か。
ならば逸らされてあげよう、と。
当たり障りのない相槌を打ちながら、私も自分の分の麺の塊を鍋から器に移した。ちょっと伸びかけのところを食べるのが気に入っていた。
「その目標を達成するまでは、何が何でもバイトを続けてやるって訳かい?」
テーブル(正確には炬燵机だ。私は炬燵が好きで年中ずっと出しているのだが、神原には終始変な顔をされている)の角で卵を割りながら、私はあまり身の無い質問で場を繋げた。
「いや、そこまでの気概は無い」
「無いのかよ」
スープの中に生卵が到達する。黄身が崩れて歪んでしまっていた。
「やめれば生活が変わるのは事実だけど」
神原は淡々と言った。
「どうなんだろうな……正直、面倒なことを受け入れてまで続ける意義があるのかと言えば、別段そんなことも無い様な気がしてくるんだよ」
「面倒なことって、今回のケースみたいな?」
「も、含めてだな。前にも話したことがあるかもしれないけれど、元々、この仕事は向いてないんだとは思う」
神原は気まずそうに頭を掻いた。
まあ、確かに。
よく喋る奴が、よく人の話を聞けるのかと言えば、別段そんな保証はないからな。
神原駿河のコミュニケーション能力の高さは、絶妙な足し算と引き算の上に成り立っている。
ま、それでそこそこ上手くやっていけてるんだから、これも一つの才能なんだろうね。立派な対人スキルの一種と言えよう。そこに本人の自意識がついて来れていなくとも。
「気にするなって。時間が解決してくれるさ」
「時間?」
「うん。仕事の上達も、時間の経過を待てば良い。嫌なことを忘れるのも、時間の経過を待てば良い。がむしゃらに働いているうちに自然と、きみも一人前のコスプレキャバ嬢になっている筈さ」
「そうか……って違う。違うよ。コスプレキャバ嬢は目指していない。私はスポーツドクターになるんだよ」
「あれ? そうだっけ」
「そうだよ。忘れるな」
「いつか独立して自分のお店を持って、自分好みの女の子を集めて、その全員にナース服を着せたい。とか言ってなかったっけ?」
「それも楽しそうだし、そして私が言いそうなことではあるが……」
「きみは何かと自己を過小評価しがちだけどね。もっと胸を張れば良いじゃないか。私はきみ以上のセクハラ看護師を見たことが無いよ」
「セクハラ看護師じゃない。セクシー看護師だ。セクハラ看護師だと大問題じゃないか。告発されて実名報道されそうだ」
「問題というならどっちも問題だとは思うけどな。社会問題だ。そうなると私に出来ることはさしずめ、学生時代の知り合いってことで、マスコミからのインタビューには答えておくくらいか」
「やめろ。お前にカメラを向けたがる奴なんていないから」
「『とてもそうは見えませんでした。真面目で人当たりが良くて、優秀なアスリートだったから……』」
「そういう生々しい裏事情を話すな」
「あはは」
軽く嘲笑してみせる私。
すると、そこで神原は気持ちを切り替えるように。
「しかし、実入りは良い分、若いうちしか出来ない仕事だしな。しばらくは、それを支えに頑張りたいと思う」
なんて。
まるで自分に言い聞かせるように言った。慰めるように言ったのかもしれない。
しかし、賛同し兼ねた。し兼ねたというより、し損ねた。
「それはどうかな」
と、うっかり口に出してしまった私に対し、まさか口を挟まれるとは思っていなかったのだろう。意外そうに眉を上げる。
さて。
用意した本音を開示したら、彼女がへそを曲げることは容易に想像がついたが、ここで押し黙るのも許されそうになかった。
ので。
「……確かに時間は有限だけど、使い方は有限じゃないからさ。今しか出来ない仕事って決め付けて、それに身を投じる自分には価値があるんだと。そんな感じに思い込んでいるだけじゃない?」
途端、彼女の目がつり上がった。
やっぱり失言だったね。
しかし、相手も私の性格を解してきたのか。それとも自身の性格を省みるようになったのか。はたまた私が言わずとも思うところがあったのか――だとしたら随分と無粋な真似をしてしまったことになる。
どれが真相かは分からなかったが(全部かもしれないな)、とにかく、スルーすることに決めたらしい。
「おかわり」
神原は仏頂面のまま立ち上がり、新しいラーメンの小袋を開けた。そして冷蔵庫から、今朝買ったばかりの卵を摘まみ上げる。
実は意外と彼女は大食漢――ではないか。この場合は。
「贅沢な食べ方をするなあ」
「良いじゃないか。残しておいても、痛むだけだろう」
と、白い殻を割って、今度は鍋に直接中身を落とした。夏場に湯気を立ち昇らせた所為で、また室温が上がった気がする。
私達は二人、卵を無駄に消費して生きている。
◇
「沼地のベッドって良い色だよな」
神原が感心するようにそう言ったのは、その日の夜のことである。
「そう?」
「うん。私がずっと白いシーツを使っていたからか、なんだか新鮮な感じがするんだよな」
と、神原は背を伸ばした。実にリラックスした様子で。
何の気なしにぼやいた彼女からは昼間の熱が嘘みたいに引いていた。まるで私との付き合い方を覚えた結果、角が落ちたかのように。
ただ、果たしてそれは良い傾向と言えるのだろうか。
私のシャンプーで髪を洗い、私のバスタオルで体を拭いて、今は私のベッドの上であぐらを掻いている彼女が。
「……なあ、神原」
「ん?」
彼女が顔を上げた瞬間。
どん。
後ろから背中を叩くような音がした。
窓の外がおぼろげに光っている。カーテンを開けると、遠くの空の片隅で、閃光が綺麗に輪を描いていた。
「へえ、お前の部屋って花火が見えるのか」
「私も知らなかった」
「なんだ、勿体ない」
どこか楽し気な様子で、窓の外に向き直る神原。
その顔を見て、私の腹の底では疼く気持ちがあった。
手首を掴む。不意を突かれた様に、目を見開かれた。掌の中があっという間に汗を掻く。
もう少し花火が見たい、と言った神原を遮って額をくっつける。露骨に眉間に皺を寄せた彼女に向かって、私は何て返したんだったかな。また見れるだろう、とか。そんな適当なことを言ったに違いない。
相手の瞳が二色の光を映す。遅れて、遠くで鳴った花火の開く音が、私の腹に響く。
そして、彼女のお気に入りのシーツの上になだれ込んだ。
◇
翌朝のことだ。
「帰る」
と、ため込んだ洗濯物と、新しく買い込んだ衣類、その他諸々を詰めた袋を抱えて、神原は私の玄関の戸をくぐろうとしていた。
一体どんな風の吹き回しなのかと思わなくもなかったけれど、そこは来る者拒まず、去る者追わず。カウンセラー的には一回は追った方が良い効果が得られる時もあるのだけれど、その時は今じゃあない筈だ。
「送って行こうか」
「ん? じゃあこれ、手伝ってくれ」
抱えていた荷物を半分手渡された。
自分の名誉の為に言っておくけれど、この衣類の山は私が不精して洗濯機を回さなかった結果ではなく、神原駿河が私と同じタイミングで脱いだ衣類を洗おうとしなかったことが原因だ。全く、横着なんだか、それとも一周回った潔癖症なんだか。私には理解しかねるね。
途中で休憩しようと、駅前のファミレスに入った。外食するのも随分と久しぶりな気がした。しかも、彼女と一緒にとなると。
「同伴みたいだよね」
「やめろよ」
聞けば、夜にはバイトのシフトも入れているのだという。切り替えが早過ぎるだろう。どういう心境の変化なんだか。
「あー……バイト、行きたくないなあ」
飲み放題のオレンジジュースに浸けたストローを噛み潰しながら、神原はぼやく。そんな様は、まるで試験期間を目前にして憂鬱さを覚える高校生のようだった。
しかし、私達は高校生じゃない。
だから、選択権がある。
行きたくないって嘆くくらいならさあ。
「やめちゃえば良いのに」
「やめないよ」
「ふうん」
彼女の答えは強情、というより強かと表現する方がそれっぽいような気がした。
「きみが何を考えているのか、私には全く分からないね」
「私が何かを考えて動いているように見えるなら、お前は病院に行った方が良いな」