うちのナースはおさわり禁止

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04

 神原駿河が週二で入れているアルバイトに、大層な動機がないことを一番知っているのは、無論、私自身である。
 周囲から期待されている私のイメージとそぐわないのか、よく誤解されがちだが、私がこの仕事を始めたのは一大学生として生活費を、学費を、はたまた遊ぶ金を稼ぐために働こうと思い立った結果であって、それ以上でもそれ以下でもなかった。そもそも、アルバイトひとつに高い志を持っている輩の方が稀ではないか。
故に、人の過去を詮索することに熱心な指名客に対し、立派なストーリーを捧げることは、残念ながら出来そうにない。
 しかし残念なことに、私の浅薄な自分語りでは彼女を満足させられなかったのだろう。少なくとも彼女は――沼地蠟花は、私なんかよりずっとお喋りな奴だから。

 目が覚めた。
 目が覚めた?
 馴染みのない触り心地のシーツに包まれていた私の装いは、勤務用のナース服――ではなくて、いつも通り裸だった(より正確に言及すると左足にアンクレットが残っていたから、裸アンクレットというどこのフェティシズムを刺激したいんだ、とセルフツッコミを入れたくなるような恰好だった)。
 けれど、隣に寝ていた奴がいつも通りじゃなかった。
 弾けるように目が覚める。一瞬で脳に血液が回ったに違いない。自分の額が、何か温かくて柔らかいものに包まれているな、という感覚は覚醒してからずっと感じてはいたのだけれど、まさかそれが人の胸だとは思わなかったのだ。
「起きた?」
「っ!?」
 まるで私が好きなBL小説さながらの演出で、私に添い寝していた沼地蠟花は、いつにも増して気怠そうな横顔をしていた。気怠そうな顔で腕を回し入れ、私の唇をふにふにと弄んでいる。寝惚けているにしてはいやに積極的だ。朝が弱いタイプなのだろうか。
 ……いや、気を揉むべきなのは、そういうことじゃなくって。
「え? まさか覚えていない、なんて言わないよね? それは流石の私も傷付いちゃうな」
「……傷物にしたのはお前の方だろう」
「うわ、酷い言いよう」
 堪えられないとでも言いたげに沼地は身を竦めたが、表情はやっぱりというか、楽しそうなそれだった。その顔は昨夜も見た覚えがある。
 記憶を遡る。どういう経緯で私は彼女とベッドを共にしたのか――なんて、わざとらしく頭を抱える必要もあるまい。記憶をまさぐるまでもなく、彼女との遣り取りの全てを、私ははっきりと覚えていた。

「アフター行こうよ」
「は?」
「外に飲みに行かない? って誘っているんだよ」
 普段は私が注いだグラスだってろくに空にしないというのに、何を言っているんだ、こいつは。
 客として扱っていなかったら真っ先に口にしていたであろうそんな文句を飲み込んで、私は笑顔を作ることに努めた。
 この場合、考えるべきはお断りの文言だ。
「ねえ、神原選手」
「神原選手って呼ぶな」
「これは失礼。えーっと、■■■さん。今日って時間あるかい? あとオレンジリキュールちょうだい」
「今日? 今日行くのか? 割り方は?」
「何か先約でもあった? ロックで」
「いや、ないけど……ほら」
 と、正直に言ってしまったのが悪かった。グラスを受け取った沼地の口角が、ほんのちょっぴり持ち上がったからだ。
 ……嫌な予感がした。
「先約はないが、お前の様な生産性を感じられない客に費やす時間もないぞ」
「きみがどう思うかは勝手だがね。でも、きみのバイトが少しでも長く続くように、私が指名料を払っていること忘れるべきじゃないと思うぜ?」
「ぐ……」
 取り繕うように厳しい言葉を投げたが、大したダメージは与えられなかった(寧ろこちらが深手を負ってしまっている)。
 そういえば、お互いがバスケットボール選手だった時代はディフェンスが得意な奴だったっけ。昔と変わらず心の壁まで厚過ぎて、何を考えているか分からないけれど。
「そうかな? 私は案外話せるキャラだと思うけれど」
「勝手に人の心を読むんじゃない。それに、お前の相手が出来るキャストなんて私くらいだ」
「そりゃどうも。いきなり告白をかましてくるきみも大概だけどね」
「…………」
 しかも、私を黙らせることにかけては彼女の方が一枚上手だ(喋ることが仕事の大半であるこのバイトで、口を噤むことはちょっとした職務放棄だが……)。
「一応、理由くらいは聞いておきたいな」
 カルテに見立てた注文票(この店の趣向だ。私は気分が出るので密かに気に入っているのだが、沼地にはウケが悪い)にメモを取りながら私は尋ねる。
 常連になってからの沼地の性格を鑑みるに、本指名も、『お熱を測る』サービスも興味本位で首を突っ込んでくるような奴ではあったが、アフターに誘うとか、所謂プライベートな距離に持ち込もうとする類のことはなかった筈だ。基本的に、ビジネスライクな付き合いを好むお前らしくない、と私が疑念を抱いてもおかしくはないだろう。
「んー、そうだな。強いて理由を挙げるとするならば」
 そこで、緩慢な喋りと同じくらい丁寧に酒を飲む彼女にしては珍しく、ロックグラスを早々に空にして。
「私が死んだ日だからかな」

 確認するまでもないとは思うが、敢えて確認しておくと、アフターとは『お店が終わった後、お客様と一緒に食事に行ったり遊びに行ったりすること』である。
 ひょっとすると、沼地が誘った『アフター』は私が想定している『アフター』と別のものを指しているのではないか。そんな万に一つあるかどうかすらも怪しい可能性に賭けて、スマートフォンで言葉の意味をこっそり調べてみたものの、それもどうやら徒労に終わりそうだった。無駄な悪足掻きだった。
 日付も変わって、午前二時。結局断り切れなかった私は、沼地の隣を歩いている。
「本当は『きみのことが好きだから』とか言って欲しかったのかな。空気が読めなくてごめんね」
「どちらにしたって重いよ」
 足を進める度に揺れる足首のアンクレットが、私の言葉に同意するかの如く、小さな音を立てた。
「はは、■■■さんだって、まさか私が私欲以外のことで動く奴だとも思っちゃいないだろう」
「……もう神原選手でいい」
 そんな風に、しなくても良い指摘をする自分の声の、何と覇気が無かったことか。ちくりと刺さる言葉の棘を、大袈裟なくらいに振り払う。どうしても反応が過敏になってしまうのは、少なからず緊張を覚えているからかもしれない……。
 否、そんな必要はないのだ。
 私服を見せるのが初めてという訳でもないし。
 そうだよ。客とアフターに行くのではなく、知り合いとご飯を食べに行くと考えれば良いだけの話だ。
 店外デートは禁止されていないので(寧ろ推奨されている方だ。外で親密な関係を意識させた方が、お客さんも気持ちよくお店に来てくれるから)、どこか気にしてしてしまってはいるが、あくまで勤務時間後の付き合い。しかも相手は旧知の間柄なのだから、重く捉えることはない筈だ。
 相手は沼地なんだから。
 そう。たとえラブホテル(ラブホテル!?)の多さが目立つ通りを歩いているとしても(看板を飾るRESTとSTAYの文字が生々しい……)。
「そもそもアフターで寝れる方がレアケースなんだからな! そ、それに、私の初めては戦場ヶ原先輩に捧げると決めているから――」
「何の話?」
 隣を見れば、沼地の摂氏零度以下の視線が向けられていて、自分が勇み足を踏んだことに気付く。
 くそう、失言だったか。
 ただでさえ冷え込む冬空の空気が、より一層冷たくなったのを肌で感じ、私はコートの前を締め直す。
 沼地が話を切り出したのは、このタイミングだった。
「でも本当のところはさ、大袈裟な表現を選びはしたけれど、私にとってはあながち冗談という訳でもないんだよね」
「何が?」
「さっきの話。私が死んだ日ってやつ」
 そこで私は漸く、自分の焦りなどとてもちっぽけな悩みだったのだと気付く。
 沼地は別に、動揺する私を眺めて楽しむ為にアフターを持ち掛けたのではなかったらしい。私を隣に置きながら、彼女は一人、どこか遠くを見ている様だった。
「神原選手は覚えているかな? きみも私も、中学時代はバスケットボールプレイヤーだったけれど、きみのライバルとしてもてはやされていた私が、どのように選手生命を終えたのか」
「…………」
 その口ぶりからすると、素直に三年生になって引退を迎えた訳ではないことは嫌でも察せられるが……。加えて、左足のギプス包帯の痛々しさが主張を重ねてくる。
 色彩豊かなネオンに照らされて、私と沼地の足元からは二人分の影が伸びていた。酷く歪な形をしていたように思えたのは、まだアルコールが抜けきっていないからだろうか。

「ここまで言えば、きみもある程度は察しが付いているとは思う。
「その通り。私は故障して、選手生命を終えたんだ。見ての通り、左足を疲労骨折してね。
「高校時代、弱小バスケ部を全国大会へと導いた神原駿河選手とは対照的にね。学校のスターさながら、華々しい学生生活だったことだろう。
「ん? どうして私が知っているのかって? 有名な噂だよ。きみの名前は、きみが思っているより色んな奴が知っているんだろうね。■■■さん。
「そうだな。話を戻そうか。
「プレイ中の接触事故だったよ。
「丁度六年前の、今日。アスリートとしての私は死んでしまった。
「その時から私は病院にお世話になり始める訳だから――まあ、ナースに良い印象を抱けなくても無理はないだろう?
「病気を治してくれた医者を恩人と認識するのは、別におかしいことじゃあないけれど、残念ながら私の足は未だ、見ての通りでさ。
「まだ中学生だった私には、そんな心の余裕はなかった。リハビリは洒落にならないくらいキツかったし。時期も悪いことに、高校受験を棒に振っちゃったから。
「私と対照的な人生を送ってきた筈のきみが、スポーツドクターを目指しているというのは、なんだか皮肉めいたものを感じてしまうけれどね――いやいや、医大生が学費を稼ぐ為に、ナース服でサービス業に励んでいることの方がよりアイロニカルかな?
「……そう睨むなって。本当のことなんだから。
「事実というのは大抵の場合、痛みを伴う。
「真実を告げる瞬間に、残酷さを伴わない方が珍しいよ。それこそ、私はその痛みを医者から教わった訳だけれど。
「うん、そうだね。
「こうして懐かしい顔を連れ回している今の私は、未練がましく過去を懐かしむだけ――まるで幽霊みたいなものなのさ」

 饒舌に過去を語る沼地は静かに笑みを浮かべていたが、一緒に自嘲が出来る程、私は擦れた性格ではなかった。言葉の重みに比例して、一緒に気持ちが沈んだままだ。
 だからなのか。
 他人の不幸に興味を持ち、不幸を楽しむカウンセラーを志すきっかけは、自分自身の不幸だったとでもいうのか。そうでもしないと、己を慰められないのか。
 でも、そんなことって。
「……虚しくないのか?」
 掠れた声が自分の喉から押し出されてきた。とても情けないけれど、震えてさえいたかもしれない。
 しかし、私のエゴで発された質問は彼女に届かなかったのか。沼地は私に背中を向けたまま、答えてはくれなかった。
 そうだ。沼地の才能は確かなものだった。
 二十歳を超えた今でこそ過ぎた話だが、現役当時に同じ話を耳にしていたならば、同じコートに立った者として、惜しい選手を失ったと痛感したことだろう。
 今よりも。
 ……不慮の事故で引退を余儀なくされた沼地の目には、自分の意思でバスケを引退した私はどう映っていたのだろう。面白がるように店に通っていた彼女は、心の奥底では私のことをどう思っていたのだろう。
 少なくとも、ナース服のウケが最悪だった理由は理解したが、そんなものは氷山の一角でしかない筈だ。
「だから、今日は私にとって印象的な日なんだよね――いや。もう日付も変わったから、昨日かな」
 顔を上げると、静かな背中は語り続けていた。いつにも増して、沼地の柔らかい声が私の耳に酷く張り付いてくる。
「それが理由で、私をアフターに誘ったのか」
「どうだったかな? 単なるその場の思い付きだったかもしれないし、忘れたよ」
「たった数時間前のことだろう」
「お酒が入った人間の理屈を鵜呑みにするなって。アルバイトで学ばなかったのかい?」
 棘のある言葉で煽られた。彼女にしては分かりやすいはぐらかし方だ。
 しかし、そんな理屈を通されてしまうと、私はお前のことを何一つ信じられなくなるじゃないか。
 相手の気を引いておきながら、なのに核心に近づくと、すぐに躱してしまう。それが沼地のいつものやり方だった。追いつけないのが悔しくて――いや、居たたまれなくなったのかな――私は顔を伏せてしまう。息を吸うのが苦しいとすら感じた。
 俯いた先、私の足首では沼地から貰ったアンクレットが静かに光っている。
「……そんなこと、言うな」
「ん?」
「死んだ日だなんて、言うなよ」
 くすんだアスファルトに沈んだ私の言葉は、今度は相手に伝わったらしい。ゆっくりとしたリズムを刻んでいた松葉杖の歩みが止まり、沼地がこちらを振り向いた。
 だぼついたジャージの裾が、北風にはためいた。
 それがどうにも寂しく映ってしまい、思わず私は手を伸ばしてしまう。
 裾を摘まんだ指先を、沼地は避けなかった。
「何だよ。同情しちゃった?」
「…………」
 どうだろう。
 そうなのかもしれない。
 結局、私は何も言えなかった。私は私の気持ちを、上手に言葉にする方法を知らない。五年前に死んでしまったという彼女を前にして、何も出来ないということを知っただけだった。
「あーあ、なんだか冷えちゃったね」
 比較的新しいホテルの前で、沼地は。
「休憩していく?」
 ちり、と胸が焼けるように痛んだのは、勿論錯覚なのだろうけれど。その茶化すような誘いの言葉に、どきりとしてしまう方がどうかしているだろう。

 先にシャワーを浴びて来いと言われて、いよいよ自分の置かれた状況に焦り始める。
 ユニットバスかと思って浴室のドアを開けると、如何にも二人で一緒に入ることが前提とされたサイズのバスタブに出迎えられ、どこか気まずい気持ちになってしまう。結局、浴槽にお湯を張りはしなかったから、その心配は杞憂で終わったのだが。
 仕事上がりの身体で浴びる熱いシャワーはこれ以上なく気持ち良かったけれど、結局、バスルームに籠っている間中ずっと、私の気持ちが落ち着くことはなかった。
「……上がったぞ」
「ん。早かったね」
 それでも、アルコールの方は大分抜くことが出来たようで、店を出た時より幾分か頭がすっきりしてきた。部屋の様相を改めると、かえって冷静にならない方が良かったような気もしてくるが……。ダブルベッドが中々の存在感だった。
 シーツが崩れるのもお構いなしに、ベッドの中央に横たわっていた沼地は、バスルームから出て早々、起き上がって顔を近づけてきた。私の髪もバスローブの下の肌もまだ濡れていたのだが、彼女にとっては気にならないらしい。
 すん、と小さく鼻を鳴らすようにして、私の首筋で息を吸った。くすぐったさで身を捩りたくもなったが、そこで退くのはなんだか負けたような気がして、堪える。
「うん。これなら大丈夫そうだ」
「そんなに気になるか? 酒と煙草」
「どちらの臭いも好きじゃないんだよね。そこまで嗜みもしないし」
「お前が何の為に店に通っているのか、いよいよ分からなくなってきたな……」
「ん? そんなの、今更言うまでもないじゃないか」
「……え?」
 と、私が何かを思う間もなく、腰に絡んでいた沼地の腕は解れ、彼女は風呂場へと消えていった。
 ……大丈夫。いつも通り。ただの、彼女の気まぐれに過ぎない筈だ。きっと。
 しかし念の為、湯を浴びる際に外していたアンクレットは足首に付け直しておこう。なんて、逃げる理由を作ることに暇はない私だが……、うん。自分でも言い訳にしては苦しいことは分かっているつもりだ。
『客とベッドに入ることってあるの?』
 あれは何時だったか。喫茶店で聞いた彼女の台詞を思い出す。今では懐かしささえ感じる質問に、私は明日の朝も、あの時と同じ答えを返せるのだろうか?

 照明がサイドテーブルのみに絞られた。
 欠伸を一つして、再びベッドに入る沼地。薄暗い灯りの元で見ても、その様は実にリラックスしていたものだった。彼女の隣は、まるでそうすることが当たり前の様に、もう一人くらいなら余裕で横になれそうなスペースが空けられている。
 お前はあの浴室を見て何も感じなかったのか。そんなことを尋ねたくもなったが、自ら墓穴を掘る予感がしたので止める。
「寝ないの?」
「ね、寝るけど」
「ん」
 ギクシャクと相手との距離を計りながら、空いた場所へと身を移す。ホテルのドアをくぐってからずっとこんな調子だ。そんな私を、いい加減に見兼ねたのだろう。沼地が呆れた声を出した。
「別に、嫌だったら止めれば良いのに。逃げ出すのに遅いなんてことはないんだからさ」
 彼女の言う通りだ。逃げれば良い。コートを羽織って、財布を握って、後ろを振り返らずに部屋のドアを開ければ良い。ただそれだけ。
 しかし、私の身体は動かなかった。
 沼地の、あの寂しそうな後姿を見てしまえば、どうしたって深追いしたくなってしまう。
「じゃあ、そういうことだって解釈するぜ?」
「あっ」
 いつの間にか、沼地の手は私の足に触れていた。踝から脹脛にかけて。肌の上を弄ぶように流れた彼女の指先は、件のアンクレットを引っ掛けて止まる。
 さっき本人の口から左足にまつわる話を聞いてしまったからだろうか。足首に感じる圧に、余計な罪悪感を覚えてしまう。
「……ふざけているつもりなら、そろそろ止めておけ。ほら、チェーンが切れてしまうだろう」
「そこまで乱暴にする気はないんだけどね。気になるなら、また買ってあげるよ」
「そ、そういうことじゃなくて」
 予想外の返しに面食らっているうちに、沼地が私にのしかかってくる。稚拙な言い逃れを笑われるとばかり思っていたのに、そういうところは本当に狡い。
 足首に触れていた筈の手の位置が、ゆっくりとした動きで上ってきて、私の上半身をあっさりとベッドに倒した。衣擦れの音と共に私の背がシーツに沈むと、すぐに上から影が差した。
 ――え、いやでも、ちょっと待って。
「緊張してる?」
「……しない方がおかしいよ」
 顔を上げると、沼地の顔も近くにあった。反射的に目を瞑ってしまう。
「……すっぴんの神原選手、久しぶりに見た」
 そうだっけ。もう私も、これからは化粧を落とした顔を見せない相手の方が増えていく歳なんだろうけれど。こいつにとっては久しぶり、なのか。
 私が最後の抵抗とばかりに抜け出そうとシーツに突いた掌は、すぐに上から握り込まれてしまった。

「思い出した?」
「いや、だから忘れてないって」
「じゃあ、気持ち良かった?」
「ノーコメント」
 下着を穿きながら答えた。ベッドの端に落ちていたやつだ。
 沼地は既に外に出られる格好だったが……、部屋を出る前にもう一度、シャワーを浴びるくらいなら咎められないだろう。午前中の大学の講義は自主休校も視野に入れなければならないかもしれないが、午後は履修している授業もなかった筈――と、私は算段を立て始める。
 考えなくてはいけないことと、考えなくても良いのに考えてしまうこと。どちらも沢山あったが、一日かけて頭を切り替えたかった。
 彼女と一晩、一緒にいた。
 これで良かったのか、はたまた悪かったのか。今はとにかく気持ちの整理を付けたかった。
 今夜はバイトのシフトを入れていなかったのは幸いだったと言えよう。帳尻合わせが出来なかった分は、次に彼女が店に来た時に問いただせば良いのだ。
 ……次もある、よな。きっと。
「……なあ、沼地。その足」
「ん?」
「もしもの話だが……もしも私がドクターになって、その時に治療法が見つかったとしたら――」
 そんな泥臭い話を、沼地が好むとは到底思えない。
 それでも私は、死んでしまったという彼女に夢見がちな提案をせずにはいられなくて――
「え? もしかして信じちゃったの?」
「……は?」
 しれっと言ってのけた台詞の意味を考えるのに、必要以上に時間を要してしまった。
 え? 今、なんて言った?
「あんな分かりやすいお涙頂戴話、創作に決まっているじゃないか」
「え、いや、だって」
「ふふ、女性を口説く為にテクニックの一つだと言うけれど、私の話術も中々侮れないようだね」
 と、空々しく感心している沼地。それが自身に対しての評価でなければもう少し様になっただろうが……ああ、なんて言っても、もう駄目だ。いくら取り繕ったって、全てを晒した後になってはもう遅い。あとの祭りだ。
「負傷して引退したのは本当だけど、中学時代に負った怪我が回復しない訳がないじゃないか。何年前の話だと思っているんだよ」
「で、でも、お前、松葉杖は」
「ああ。あれってフェイクなんだよね。本当は無くても生活出来るんだ。ほら、シャワーから出てからは使って無かっただろう? もしかして気付かなかったのかい?」
「う……」
 その通り、気付かなかった。
 そのくらい私は緊張していたのだろう。いや、でも、だって。それを抜きにしたって、普通考えないだろう? ギプスを巻いている相手を前にして、その怪我は本物なのか? なんて疑ってかかる訳がないじゃないか。
 あんな重苦しい話を語っておいて!
「どうしてフェイクなんか」
「それはほら。この足があった方が、■■■さんみたいなナースと、アフターでホテルに行けるんじゃないかと思って。……まさかここまで上手くいくとは思っていなかったけれど」
「……っ!?」
 冗談だとしても最低最悪の理由だった。
 恐らく耳まで真っ赤にしているであろう私に向かって、沼地が追い打ちをかけてくる。せめて表情は読まれないよう、顔を埋める為の枕をぎゅっと抱いて自衛した。
 それでも、くつくつと彼女の楽し気な笑い声が私を辱めてくる。恥ずかしさで消えてしまいたい……。
 一人で同情して、一人で動揺して。まるで私が馬鹿みたいじゃないか。
「真面目だなあ、神原選手は」
「うるさい! 黙れ! もう……もうこれっきりだからな! 二度と私に嘘は吐かないと誓え!」
「そしたら、またアフター入れてくれる?」
「絶っっっ対にお断りだ!」
 私の悲痛な訴えは、無常にも枕カバーに吸い込まれていく。
 笑い話にするには、もう少し時間が必要そうだった。

 

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