うちのナースはおさわり禁止

01

 沼地蠟花は基本的に病院があまり好きではない。
 苦手意識がある――とまで言うと大袈裟な表現になるかもしれないが、少なくとも、良い思い出を想起させることはないんだよね。
 まだバスケットプレイヤーだった中学生の私が、プレイ中の事故により己が自慢の足を失った結果、否が応でもお世話になった場所ではあるのだけれど――何分人生転落の直後だった故にやさぐれていた時代の話だし、そこから立ち直る為のリハビリはマジでキツかったしで、正直マイナスなイメージしか浮かばない。
 うん。さっきは否定したものの、トラウマと言っても過ぎた表現ではないかもしれないね。
 そんな風に、今や懐かしい学生時代の記憶を思い起こしつつも改めて注意深く蓋をして、私はナース専門キャバクラ店の前に立ったのだった。

 ろくでもないやつから紹介される店はろくでもない場所だと相場が決まっているんだ。
 ネオンで飾られた扉を押す前から、あまり良い予感はしていなかったけどね。まあ、こんな不吉な前置きをするくらいだからもう察しはついているだろうが、勿論、その予感は的中することになる。
 残念ながら。
 薄暗い照明の所為か、外から見るより広く感じるエントランスは、息を吸う度に煙草の残り香が鼻についた。
 店内にいた他の客も、店のスタッフと思わしき連中も、松葉杖をついて歩く私に好奇の目を向けて来る――いや、彼らの怪訝そうな視線は、私が引き摺っている左足のギプス包帯ではなく、『風俗店に女性一人で入店した私』に向けられていたのかもしれない。
 まあね。確かにこの場では断トツに空気の読めない行いだったとは思うよ。
 それだけで、私は入り口に向かって回れ右をしたくなりもしたが、ポケットの中の名刺がその気持ちを制した。
 貝木泥舟から渡されたその紙片には、私の知らない名前が載っていたけれど、「この子って指名出来る?」と尋ねると、すぐにボーイさんが案内してくれた。間も無く席に着いてくれるらしい。
 やけに座り心地の良いソファーに座らされて、数分後。
「初めまして。ご指名ありがとう。■■■です。今日はよろしくお願いします――」
 ん? 彼女の源氏名が何かって?
 何だったかな。よく聞こえなかったよ。それ以上に、目の前の光景が衝撃的過ぎてさ。
 流石に引いちゃったよね。
 ドン引きさ。
 膝上スカート丈のナース服と、その風貌に相応しくない高めのピンヒール。世間では清楚な印象を持たれることもある看護服を模した衣装は、薄桃色の生地がいかがわしさを増長させていた。より簡潔な言葉を選べば、悪趣味と言えば十分だろう。
 それに、丁寧に挨拶をしているところに悪いけど、残念ながら私と彼女は、
「――『初めまして』じゃないんだよね」
「え? ……あっ!?」
 相手もそれに気付いたようで、取り繕っていた笑顔が分かりやすく崩れた。その時の彼女の驚いた表情と言ったら――ふふ、当分は私の心を軽くしてくれそうなものだったよ。
 かくして私は彼女と再会した訳だが。
「というか、スパッツを穿いていない神原選手って存在意義があるの?」
「……いや、意外と需要があると思うぞ?」

 ミニスカナースが隣に座った。実に不本意そうな表情で。
 周囲ではにこやかに膝をくっつけて座っているテーブルが大半いうのに、私と彼女――神原駿河さんの間は不自然に空間を残したままだった。それは私が一見さんだから、という理由だけで説明するには乱暴すぎるだろう。なんとなく、そんな気がする。
「とりあえず再会でも祝って乾杯しようよ、神原選手」
「さあ? 人違いじゃないですか?」
「もう遅いって。あとタメ口でいいよ」
 付き合いは薄かったとは言え、知った顔だ。今更敬語で通されるのも薄気味悪いし。それに、これ以上きみのアイデンティティを崩すのもいただけない。
「んー、でも脈絡もなくナースウィッチになったことも過去にはあったし」
「何の話?」
 しれっと出したな。
 気にはなりはしたが、話の本筋ではないような気はしたので追及は避けた。そのタイミングで、先程注文したウーロン茶が私達の間に運ばれてきたから、というのも理由にある。
「お前、どうしてここに……あと、ここでは源氏名で呼んでくれ」
「私の名前を覚えていてくれたら、答えてあげても良いよ。神原駿河さん」
「……もう一度訊くが、どうしてここに来たんだ。沼地蠟花さん」
「昔の知り合いが働いてるって聞いたから、興味が湧いてね」
「面白半分で遊びに来るような場所じゃないだろう」
「面白半分で選ぶバイトでもないと思うんだけど?」
「…………」
「なんだよ神原選手、まるで私に帰って欲しいとでも言いたげな顔だな」
「今更過ぎる指摘だな。そりゃあ帰って欲しいよ。あと源氏名」
「お客さんに対して随分と冷たいね。私が相手だと都合の悪いことでもあるのかな?」
 悪いことしかないのだろう、多分。
 私を見ながら頭を抱え続ける神原だけれど、その頭頂部はしっかりとナースキャップを被っている。それ、今はもう実際の医療現場では使われていないんじゃなかったっけ? 雰囲気を出そうとし過ぎて、かえって失敗しているのではないか。正直、そうツッコミたくもなった。
 それでも私はちょっとだけ、昔嗅いだ消毒薬の匂いを思い出していた。
 ……うん。刷り込みって怖いね。
「……良い趣味してるよ、本当」
 思い出したくない記憶には気付かなかった振りをして、私は琥珀色の液体が入ったグラスを持ち上げる。
「私の方こそ、まさかお前にこんな趣味があっただなんて、思ってもみなかったよ」
「それはどうも」
 何を思ったのか、今日初めてしたり顔を見せた神原。ひょっとすると、彼女なりの意趣返しのつもりだったのだろうか。だとしたら あまり上手じゃないし、誤解にも程がある。
 合わせたグラスを離してすぐ、あおる様にウーロン茶を飲み干した。腹に収めておきたい気持ちがあるのは、実はお互い様なのかもしれない。
「でも私、ナースってあんまり好きじゃないんだよね」

 あっという間にグラスが空になってしまった。
 それに気付いていない程、神原も素人ではなさそうだったが、わざわざ飲み物の追加を勧める気にもならないようだった。
 では何をしているのかと言えば、別段何をするでもなく。所在なさげに、ヒールの爪先で床をぱたぱたと叩いている。脚を組んでいる所為で、短いスカートの裾がちょっとばかり過激なことになっているけれど。
 今は只々、時間が過ぎ去ってくれるのを望んでいるようだった。
「ねえ」
「……何だ」
「もう少し楽しそうに飲んだら?」
「相手が知り合いじゃなかったら、もう少し気楽に飲めたとは思うぞ」
「でもあっちは楽しそうだぜ」
 指の代わりに目線で差す。二つ隣のテーブルに座っている客は、膝に女の子を乗せてよろしくやっているところだった。
 流石の神原も、私が言いたいことは察してくれたようで。
「ん? ……ああ。うちの店、割とゆるいところもあるからな。お客さんと、あとはキャストによりけりなんじゃないかな」
「ふうん?」
 ……私も頼めばやってくれるのかな。
 何の気なしの呟きのつもりだったのだが、耳聡く拾った神原の顔は随分と怖いものになった。
 しかし、接客中ということもあってなのか、私を店からつまみ出して減給されるより、表情筋を持ち上げる努力を選ぶことにしたらしい。何もそこでプロ根性を見せなくったって良いのにね。
「『じゃあお熱測りますねー』」
「……いや、そこまでマジにならなくていい」
「おい、ドン引くな。私だって好きでやってるんじゃない」
 言い終わる間も無く、彼女は私の足を跨ぐようにして、膝立ちになった。そのまま上着のボタンを上からきっちり二つ外したのは、彼女の噂の露出癖からくる行為でもなんでもなく、件の『サービス』の一環らしい。
 ……ああ、なるほどね。
 素肌そのままの太腿で私の膝を挟みながら、神原は自分の額を私のそれにくっつけた。
 相対的に、私の視線は意図的に緩められたナース服の襟元に注がれることになる。
「うわ、すごい。いつもこんなことしてるの?」
「サービスタイムだけだからな。……そこまで嫌そうな顔で私の胸を眺めた客は、お前が初めてだが」
 ふと、馴染みのない甘い香りが鼻腔を突いた。香水でも付けているのだろうか。キャバクラ嬢として見ればそれらしく感じる香りは、私が知っている神原駿河のイメージとはかけ離れていたが――うん。
 本当の意味で、私が彼女に興味を持ったのはこの時だったのかもしれない。

「ほら、入れ替えの時間だ。グラスを空にしたらさっさと帰れ」
 彼女があんまり急かすので、私は素直に伝票のボードに紙幣を三枚挟んで渡すことになった。
 ただ、それだけじゃ面白くないと心のどこかでは思っていたのかもしれない。よくよく周りを見てみれば、他の席の客は女の子からなにか握らされているし。
「あれ」
「ん?」
「他のお客さんが貰ってるやつ、私にはくれないの?」
「お前、また来る予定があるのか?」
「それは分からないけれど、来ない予定もないからさ」
「……私のナース姿が気に入ったのなら、素直にそう言えば良いんだ」
「それはない。正直ドン引きだった」
「なっ! じゃあおっぱいか? おっぱいが気に入ったのか!?」
「流石にお腹いっぱいだぜ。きみはいつからそんなに自意識過剰になったんだ。こういう場所で働いているからかい?」
「……ほら」
 と、そこで根負けしたのか、それとも呆れでもしたのだろうか。神原は手のひらサイズのチラシを取り出し、私に一枚差し出した(その時の彼女の苦々しい表情は言い表すに難い)。
 やけに渋るから何かと思えば、店の無料指名券だった。
 なんのことはない。神原は私がもう一度店に来ることを危惧し、そして私に指名される可能性を、文字通り握り潰そうとしたのだろう。その通り、手渡された紙切れには随分と皺が寄っていた。
 神原選手の期待(この場合は望まぬ期待か)を裏切ることになるかどうかは不確定要素だったが、とりあえずジャージの右ポケットにそれをそのまま突っ込んで、私はちょいとナース服の裾を引く。
「何だ、お前、まだ何か言いたいことが――んっ!?」
 振り向きざまに唇を付けた彼女は、私が知らないお酒と化粧の匂いがして、それがまた、私の好奇心をくすぐったのだった。

 

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