先輩、後輩、カーセックス

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「強いて言うなら今度、部屋を片付けに来てくれ」
「そこを真っ先に卒業してろ」

 早朝、朝焼けの中。
 私は阿良々木先輩の運転する車の後部座席で揺られていた。降って湧いたような幸福に酔いしれる一方、一晩中ぎりぎりまで走り続けた疲れと一緒に、家路を辿って貰っていた。
 愚痴も軽口も交わした後はやけに穏やかな気持ちで、もう口を開くこともないかと思いきや。
「でも、そんなに走ったまんまで大丈夫かよ、身体壊したりしないのか?」
 阿良々木先輩はハンドルを握ったまま、尋ねてきたのだった。
「そうだな、本来ならウォーキングして、ストレッチをして、マッサージをして……だけど今日はそんな気力も無いな……」
 足も全身も重く痛んだが、どうにも今解決に至っていないあれこれを思い、これからの戦いを考えると、もうそのまま備えて眠ってしまいたいと考えてしまうのだった。それこそ、彼女に怒られそうな気もしたが、それは勝手な思い込みだろう。
「なんだか優秀なアスリートが目の前でぶっ倒れてたのにそのまま放っておくってのも、こっちが悪いような気がしてくるんだよな」
「心遣いはありがたいが、それは考え過ぎではないか? 送ってもらえているだけでもかなり助かっているぞ」
 ちょっと口が滑りすぎたか、と言ってしまった後で反省する。
 道で拾って貰えたこと以外でも、今回、私は阿良々木先輩に随分と助けられてしまったから。少々甘え気味というか、気持ちが緩んでしまっているのが否めない。
 しかし、彼はそれを気にするでもなく。
「うーん……マッサージだけでもしてやろうか?」
「へ?」
 そう言って暫くした後、先輩はどこかに車を駐車したようだったが、寝そべったままの私には窓の外は望めず、そこがどこであるかまでは分からなかった。後部座席に先輩が這ってくる。
「そんな、大恩ある阿良々木先輩にマッサージまでして貰おうなんて、それこそ私らしくない……神原駿河の名折れだ」
「僕から言わせて貰えば、そっちの方がお前らしいんじゃないかと言いたくもなるのだが……おら、遠慮するな」
「あん」
「変な声を上げるな!」
「多少は抵抗した方が盛り上がるかと思って。演技には自信がある」
「無駄な遠慮も抵抗もするな。なんだよ、思ったより元気じゃないか」
「いや、これでもかなり消耗しているから、今日は勘弁して――」
 言い切る前に、阿良々木先輩はスパッツをずり下げた。疲弊していた私の理解が追いついたのは、脱がされたそれが足首を抜けてからだった。
「阿良々木先輩、ちょ、ちょっと、それは」
 演技では無く、いきなり下半身が下着一枚になって心許無い気分になる。自身、露出狂の変態を自称しているとは言え、心の準備というものが必要であると主張したいところだ。それでも彼は。
「よかった」
 手を動かす。穏やかな口調を保ったまま。
「正直、ほっとした。さっき車に乗せた時なんか、僕がお前に何しても何も言われなかったし、暫く会わないうちに嫌われでもしたのかとひやひやしたぜ。最近メールもどこかよそよそしかったし」
「…………」
 絶句。
 先程のお姫様だっこの効果なのか、体中をあっちこっち触られた名残なのか、その時何の軽口も言わなかった所為なのか、それが今尚全身マッサージに至った結果なのか。セルフマッサージもする私のものより一回り大きな手が、足首からふくらはぎへと向かって熱心に登っていく。とにかく、いつのまにか先輩の気持ちは盛り上がってしまっているようだった。そして私の気持ちはどうだったか――
「分かった、メールの件は謝る。申し訳なかった。だから、もう少しだけ待って……」
「…………」
「先輩?」
 どうしてか黙り込んでしまった先輩にただならぬ空気を感じて、私は身を引こうとしたが、身体が重すぎて持ち上がらなかった。
「あ、……阿良々木先輩、お願いだ。スパッツを返して欲しい」
 流石にこの格好じゃあ、家には帰れない。
 と、懇願してみるが、どこか気だるげな口調になってしまっていることは否めない。いつものような明るい話で盛り立てたいところではあるのだが、やはり少々疲れていたので、それはまたの機会にして貰いたいというのが正直な気持ちだった。
 しかし、阿良々木先輩は答えない。
 黙って私の下半身に、脚に、太腿に、腹筋に、そして下着の上に、手を這わせているだけ。その手つきにマッサージという名目の名残はどこにも残っていない。
「っ……阿良々木先輩」
「ん?」
「恩人の期待に応えられない事を心苦しく思うこと頻りなのだが、私は一晩中、走った後だから」
「……ああ」
 もっともらしく頷かれたが、手の動きは止まない。
「……私は、今までにないくらい汗を掻いたから」
「お前は、そんなことで僕が臆すると思っているのか?」
「…………」
 思っていない。と、はっきり言えたところで状況は変わらなかった。
 私は彼を殴ってでも止めるべきだったのかもしれないが、実のところ、勝てる気はしなかった。自分でも女子の中では体力がある方だとは思うが、やはり一晩中がむしゃらに走り続けた後だったし、例えそうじゃなかったとしても――先輩自身はどう思っているかは知らないが――私だって男性相手に本気を出されたらひとたまりも無い気がした。
 そして、私が怪力の悪魔の腕を失ったことを、先輩は知らない。私が本当に嫌な時は、本気を出せば逃げられる筈だと思っているのだろう。先の車に詰め込まれた時分とは打って変わって、少々乱暴に扱われたのはその所為だと信じたいが。
 頭の中でごちゃごちゃと理由を並べては見たが、そんなことよりもまず先に。
「神原……嫌だったら、ちゃんと言えよ?」
「……嫌では……無い」
 そんな風に言われてしまって、しかも阿良々木先輩から言われてしまって断れる筈が無いのだ、私は。
 仰向けになった上にのしかかられて、シートに身体が沈む。先輩からの取り押さえと全身の疲労に加え、ポニーテールの結び目に邪魔をされて頭の角度が固定されてしまう。要するに身動きが出来なかった。下半身に申し訳程度に残っていた下着をずらすと、すぐに阿良々木先輩が割り入ってきた。まだ先の方から浅い所にかけてをじゃれるように突いてくるだけだが。
「せ、せんぱ、……ちょっと、痛い」
「ん? あ、ああ、悪い。あんまり濡れてないもんな」
 言葉にされて、というか阿良々木先輩が言葉にしたというだけで私らしくもなく頬がかあ、と熱くなる。羞恥心が込み上げてくるが、狭い車内に逃げる場所なんてどこにもなかった。
「ちょっと待ってな」
 言葉を失う私に気付いていないのか、阿良々木先輩は構うことなく前の座席の方へ体を起こし、ホルダーにでも入っていたのか、ペットボトルを取り上げた。透明なそれには水と思わしき液体が入っている。
「そりゃあそうだよな。汗掻いたんだもんな?」
「え?」
 会話の繋がりが見えずに疑問符を浮かべる私の前で、阿良々木先輩はボトルに口を付けた。無論、その間も私達は浅く繋がったままだ。喉が一度だけ鳴るのを見届けた後。
「っ!?」
 先輩が口付けてきた。含められていた水が唇を通して私の中に流れ込んでくる。熱い口内と対照的にまだ冷たさを残している水に混乱する。少し溢れて頬の上を横切ったか。加えて唇に阿良々木先輩の舌が触れる中冷静でいられる筈も無かったが、私はなんとか全部飲み干した。
「新車が、汚れるぞ、阿良々木先輩」
「お前がそういうこと気にする必要はねえんだよ」
 息を切らしながら文句を言うが、説得力が無いのだろう。とても愚かなことに、既に繋ぎ目は潤ってしまったから。彼が図ったであろう体の水分量がどうとか脱水症状がどうとかではなく、先輩の口移しだけで私はだらしなく、僅かながら脚の間に込めていた力を緩めてしまうのだった。
「は、ぁ……」
 抵抗虚しく、私の身体はどんなに疲れていても阿良々木先輩を奥まで飲み込んでしまう。それが嬉しいとか悲しいとか考える暇も無く、ただスポーツブラの下に差しこまれた右手が胸の感触を確かめつつ汗を拭っていくのをとても恥ずかしく思った。
 湿った肌がまるでねだるかのように彼の掌を吸い付けてしまう中で、指の腹に頂きを強く弾かれる。そうなると声を抑えられなかった。短い悲鳴は車中ではどこか違った響きに聞こえた気もしたが、他ならぬ私の声。外に聞こえるのだろうか。阿良々木先輩はどうだろう。先から跳ねた息遣いの中で、時折私の名前らしきものを呼んでくれてはいるのだが。車体が動きに合わせて少々軋んでいることに気付いてはいるのだろうか。
 春先の早朝はまだ気温も十分に上がってはいないのか、二人分の上がった息で車のフロントガラスが曇るのをはっきりしない頭で眺めていた。白いガラスを朝日が照らす。
 そこから先は覚えていない。やはり体力の消耗は激しかったようで、阿良々木先輩に奥まった場所を突かれると腰から全身にかけて快感が走ると同時に、一際大きな自分の声が喉から上がるのを聴いて、それから頭が真っ白になって。
 行為の最中に意識を手放すのは初めてだったかもしれない。

 気が付くと阿良々木先輩は運転席に戻っていて、ニュービートルを家の近くまで進めていた。
 上半身の乱れは直されていて、下着は履いたまま、触った感じだとポニーテールは少し崩れたままかもしれない。脱がされたスパッツは腹の上に置いてあった。身を捩らせて足を通そうとすると、動く気配を察したのか阿良々木先輩が。
「お。気付いたか。大丈夫か?」
「ああ、……水を貰ってもいいか?」
 前の座席からペットボトルを手渡してくれる先輩。今度は自分で口をつけた。随分ぬるくなっていた。いや、始めからこのくらいだったのかな。熱くなってたから思い出せないけど。
「ここで私が悲鳴を上げれば、今度こそ阿良々木先輩の人生はめちゃくちゃに……」
「う、……悪かったって思ってるから……それは本気で洒落にならないから止めて……」
「はは……それは私を救助してくれた恩もあるから、とんとんにしたいところだが」
 弱々しく続ける阿良々木先輩の口調は、本当に罪悪感そのものしか感じられない程の真に迫った響きだったが、行為そのものは考え過ぎの私には丁度いいガス抜きだったのか、私はどこかすっきりした気分になってしまっているのだった。
 運転席で前を向く先輩から見えない角度で、私は笑う。
「欲を言っても良いのなら、もう少しだけ埋め合わせをして貰いたいな」
 そろそろ伸びた髪を切りたいと思っていたところだったし。

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