「二十四日、空けておいてください」
と、扇ちゃんが言ったのは、その待ち合わせ当日から二十日程前のことで、随分と気の早い話だな、と思ったことを覚えている。それでも僕、阿良々木暦は、その場で自分のスケジュール帳を開き、カレンダーに丸を付けるくらいには、彼女の気持ちを慮ってやりたいと思った。
「だって、日付が日付ですからね。早めに予約を取らないと埋まってしまいます。尤も、あなたに限っては予約を取ったところで、その予定は確約されていないのではないかと危惧する気持ちもありますが」
「随分と信用されてないな……」
「信用出来る訳がありません。前例がありますから。過去のことを鑑みて反省してください」
「……はい」
「それでは早速」
なんて、十二月二十四日、当日。
生憎の曇天の下、隣を歩く彼女から、
「どうぞ」
と、それを差し出された僕は、きっと虚を突かれた顔をしていたに違いない。
クリスマスカラーの包装紙に包まれたそれは、彼女の黒い手袋の中でより鮮やかに見えたのだった。
「勿論、見ての通り、クリスマスプレゼントですよ。不肖な後輩から親愛なる先輩に向けた、日頃の感謝の気持ちをお伝えする為のプレゼントです」
「あ、ありがとう」
「いえいえ。お返しは来年で良いですよ。夜景の見えるレストランで美味しいディナーでもご馳走して下されば、私も文句は言いません」
「え、えっと……お返しにしては要求が高すぎない?」
「しっかり受け取っておいて何を仰るんですか。今日阿良々木先輩が手ぶらで待ち合わせ場所に来たことに関しては何の追及もしないで済ませているんですから、そのくらいは期待させて頂かないと……ああ、でも安心してください。高級ホテルのレストランの予約くらいは私がしておきますから」
そんなことをつらつらと言いながらくすくすと笑う扇ちゃん。飄々としている様でいて、この子にものを諦めさせるのには骨が折れそうだ、と僕はため息を吐く。
いや、お返しは何かしら考えたいにしても、もう少しゆるい基準で物事を考えて欲しい。等価交換とは。全くバランサーの姪らしくない――いや、あの可愛くないおっさんと可愛らしい女子高生を並べて語る方が失礼になるか。
「開けてみないんですか?」
「えっ、ここで開けて良いの?」
「ええ、どうぞどうぞ。私も相手のリアクションが気になりますからね」
人に物を贈ること自体、初めてですし。なんて、さらりと重い呟きを添えて言っていたが、まあ、その気持ちは分からなくはない。暗に喜びのリアクションを強要されているな、と思いながらも、僕は赤と緑の包装紙を破く。
中から出てきたのは、一冊の文庫本だった。
意外――というか、なんというか。ミステリーマニアを名乗る扇ちゃんのチョイスとしては意外ではないかもしれないけれど、人に贈るプレゼントとしては些か珍しい選択ではなかろうか。
ただし、僕が一番疑問に思ったことは、本を贈られたことそのものではない。
「これ、児童用文学じゃないのか?」
「ええ。でも阿良々木先輩にぴったりじゃないかと思いまして。子供向けの作品だからと言って、名作ではないとは限りませんし。子供向けミステリーが子供騙しのトリックだけで出来ていると思ったら大間違いです」
「まあ……そうだよな。子供の頃に読んだ本を、大人になって改めて読んでみると、また味わいが違うってことも珍しい感想ではないんだろうし」
彼女の真摯な言い分に対して、無難な感想で返す僕。
しかし、これは――
「おやおや? どうかしましたか、阿良々木先輩? 私のプレゼントはお気に召しませんでしたか?」
「いや、そういう訳じゃ、ないんだけどさ……」
表紙、背表紙、裏表紙。何の変哲もない子供向けの文庫本をまじまじと見分して。初めて間近で見るであろうその装丁に、ここで懐かしさを覚える方が間違っているだろう。
……間違い、か。
間違いはなるべく正したい。
だから、なのか。
「……昔々、あるところに、男の子が居たんだけど――」
「おや? いきなり昔話ですか?」
僕は隣の彼女に語ってみたくなったのだ。
意外そうに扇ちゃんは眉を上げたが、それは形だけのものだろう。だって、一緒に口角も持ち上がっているから。さも嬉しそうに。寒空の下、楽しそうに吐く息が白い。
僕がこれから語ろうとした話はさして面白い話ではないので、その期待に溢れる表情に応えられるとは思えなかったけれど、それでも構わないらしい。
「でしたら、立ち話もなんですし、お茶でもしながら伺いましょうか。小洒落たカフェでコーヒーでも嗜みながら」
そう言って扇ちゃんが指差した場所は、例の如くというか、なんというか。僕達の済む田舎町には相応しいミスタードーナツの店舗なのだった。
◇
「安心してください。ここのコーヒーはおかわり自由ですから。阿良々木先輩の語る話がどんなに長くても大丈夫です」
「いや、そこまで長い話じゃないから」
少なくとも、きみがお皿の上のドーナツを食べ終えるまでには話し終えられる。
しかし、彼女は行儀良く、三時のおやつは僕の話が終わってからお腹に収めることにしている様だった。だからなるべく手短に話そうと思った。
「昔々、あるところに、小学生の男の子が居たんだけど――クリスマスプレゼントに図書カードを貰ったんだ」
「ほお。小学生に向けたプレゼントとしては無難なチョイスですね。小学生のうちから活字に触れて欲しいという思惑が見えながらも、タイトルの選択権を子供に残している辺り、センスの良ささえ感じます」
「ああ。お祖父ちゃんから貰って――『大事に使いなさい』なんて言われたから、素直だった男の子は『大事に使おう』って思ったもんだよ――それで、男の子は喜んで、早速妹と大型書店に行った。上の妹は本なんて読まなかったから、下の妹と行ったんだけど――まあ、そこはあのちっこい妹のことだからさ、『これ買ってー!』って具合にお兄ちゃんのところに来たんだよな」
「ふむ。あのちっこい妹さんとやらを私が知っている体で阿良々木先輩は話しておりますが、まあ、そこは目を瞑りましょうか」
「うん、そうしてくれるとありがたいな――ただ、残念ながら、彼が手に握っていた図書カード、妹の欲しがった本と、僕が欲かった本。どっちも買うには残金が足りなかったんだ」
「おやおや、プレゼントにしてはシビアな金額設定だったんですかねえ?」
「そこはほら、小学生の頃の話だし。小学生にとっては紙のお金ってそれだけで大金だったというか……今回の話はそのくらい、昔々の話なんだよ――そして男の子は悩んだ。妹の願いを叶えてやるか、それとも自分の欲しい本を買うか。『大事に使う』ってなんだろうなって、子供心に悩んだ」
「ははあ、随分と優しいお兄ちゃんぶりですねえ。妹さんの要求なんて、切って捨てたとて誰も咎めないでしょうに」
「当時は優しいお兄ちゃんだったんだよ――で、扇ちゃん。その優しいお兄ちゃんは、どうしたと思う?」
「えー? 読者巻き込み型の推理小説は珍しくありませんけれど、そんな問いは推理するまでもありません。お兄ちゃんは自分の欲に従って、泣いて駄々をこねる妹を尻目に自分の欲しい本を買ったんでしょう?」
「違う。だから、当時は優しいお兄ちゃんだったんだって……今と違って」
「はっはー、ジョークですよ。ブラックジョークならぬダークジョークです。そう勿体ぶって話すということは、勿論、お兄ちゃんは可愛い妹の願いを叶えてあげたんでしょう?」
「……正解」
「ならば、その可愛い妹さんはさぞ喜んだことでしょうね。男の子は妹の喜ぶ顔が見れて、欲しい本は読めなくとも、少なからず『良いお兄ちゃん』としての自尊心は満たされたのでしょうし。心温まるハッピーエンドな話じゃないですか」
「そこで終われば、その通り、ハッピーエンドだったんだけど……そのちっこい妹、友達のその本を貸して、そのまま行方不明にしちゃったんだよな」
「あらら」
「友達に貸して、その友達が友達に貸して、みたいな感じだったかな? 当時から付き合いが多い妹のことだったから、その件に関しては僕は何も思わなかったけれど――『お兄ちゃんが買ってくれた本をどうして大切にしないのか』みたいな理由で、両親が妹を叱っていたことだけ、ちょっと……」
「ちょっと、悲しかった、ですか?」
「……どうなんだろうなあ。結局きみが言った通り、妹の喜ぶ顔よりも、本を買ってあげる『良いお兄ちゃん』の自分を見て、男の子は自分に満足していただけに過ぎなかったのかもしれないし。まあ、それで。僕は僕で欲しかった本のことを忘れてしまって……忘れてしまうくらいだったら、読まなくても一緒だったのかな、なんて冷たいことを思いつつ、なんとなく本屋さんでその本の背表紙を見つける度に、物寂しい気持ちになっていたりもした――と、いうのが話の顛末なんだけど」
僕はまた、扇ちゃんから貰ったプレゼントを改めて眺める。青い色の背表紙は、やはり懐かしさを誘う色だった。
「この本、その男の子が――少年時代の阿良々木くんが、買いそびれていた本なんだよな」
「おっと、それは素敵な偶然ですね。幼い頃とはいえ、阿良々木先輩と本の趣味が被るとは。私は存外、プレゼント選びの才能があるのかもしれませんねえ」
と、彼女は頬杖を付きながら満足気に笑ったが、どうだろう?
僕は訊く。
「……確信犯だろ?」
「どうでしょう? 私は何も知りません」
「ああ。でも、僕は知っていたよ」
扇ちゃんは答える。
こうやって、小さな後悔の累積を崩しながら、僕達は生きているんだろう。
店内のガラス張りの壁から空を見上げると、やはり曇った空のままだった。妹と手を繋いで大型書店に行った日も、今にも雪が降りだしそうな気候だっただろうか。あの時『大事に使いたかった』正しさ同様、今では思い出せないけれど。
ノスタルジーに浸る一歩手前で、向かいの席の扇ちゃんがくすりと笑った。
「では、読んだら感想聞かせてくださいね? 子供の頃に望んだ物語が、果たして期待通りのものであったか」
そして、彼女はやっと、僕の奢りのドーナツに手を伸ばしたのだった。
「というか、阿良々木先輩」
僕もコーヒーをもう一杯、と腰を持ち上げようとしたところで、聞き手の彼女としては珍しく、追加のツッコミが飛んできた。ので、僕は居住まいを正すだけで終わる。
「あなたのその昔話のオチの代わりに、不肖私が語らせて頂きますけれど」
あ、なんか嫌な予感がする。
可愛い後輩から蔑む様な視線が注がれているから。
「あなたの『欲しかったけど買えなかった本』で、尚且つ『女子高生に買える本』というのが、この一冊しかなかったんですよ。一言だけ言わせて下さい」
「はい」
「エッチな本、欲しがり過ぎです」
「……はい」