最終選別で七日ぶりに目を開けた善逸の話

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 藤襲山に足を踏み入れてすぐ、七日どころか半刻も経たないうちに死んでしまうだろう、なんて絶望と一緒に膝を抱えた俺の頭上を、鬼の爪が横切った。そこまでは覚えている。そこからを覚えていない。生まれて初めて見た鬼が恐ろし過ぎて、俺はあっけなく失神した。ああこれはもう死んだな、と確信する。
 それから件の鬼の頚目掛けて抜刀した感覚がおぼろげにあったけれど、死ぬ間際に痛快な夢を見られたのはまあ良かったのかな、不幸中の幸いだな、くらいにしか思わなかった。死んでる時点で幸も不幸もないけどな。ただ、じいちゃんの教えを活かせたのが死に際の夢でしかないのは悔しかったので、心の中でごめんと謝る。いやでも、山登る前のビンタは痛かったよ。
 何故だか幸せな夢を見ることだけは昔から得意だったので、夢の中の俺は誰よりも早く鬼を斬っていく。一体、二体、三体と頚を落とし、そこから先の記憶は断続的で上手く数えられなかったが、夢とは得てしてそういうものだろう。楽しくてだけど苦しい夢は随分と長く続いた。気付けば俺は開けた場所に転がっていて、大の字で天を仰いでいた。降り注ぐ朝日だか夕日だかが目に染みる。視界がぼやけていてよく分からんが、ここは天国か? それとも地獄か?
 光がやけに眩しかったので何度か瞬いた。こんなに日が明るく感じるということは天国かもしれない。生前に善行を積んだ覚えなんて全くなかったけれど、与えられるものならなんだって欲しい。というか地獄とか怖いから勘弁して。天国であってくれ。にしては鴉や雀の鳴き声がうるさいけども。何をそんなにぎゃあぎゃあ騒いでいるんだろう。
 しばらく瞬きを繰り返し、ようやっと取り戻した視界に一番に飛び込んで来たのは、猪の鼻面だった。……猪?
 ひぎゃあ! と、悲鳴を上げたのは頭上の鴉ではなく自分の喉だ。叫んで飛び上がろうとして、だけど身体が動かない。脚が痛くて動けなかった。折れてはいないようだったけど、疲労の溜まり具合が半端じゃない。筋肉が軋む音が凄まじい。下手な動かし方をしたら千切れそうだ。なんで? というか、俺は死んだのではなかったのか?
 寝転んでいた開けた場所とは、よくよく見れば山の麓だった。あれだけいた鬼殺隊士候補はどこにもいなかった。俺と猪しかいない。しかも猪の首から下は人間の形をしていた。どういうことなの。まさか天国の住人はみんなこんな感じなの? なんて心配をしていたら、この世のものとも思えない猪は、ふん、と鼻を強く鳴らして、そのまま勢い良く山を降りて行ってしまった。こちらを見向きもしなかった。
 え。なんなの、と思う間もなく、今度は頭上から女の子が降ってきた。可愛い。いきなり木の上から飛び降りてきたのは驚かされたけれど、それを差し引いても可愛い。あまりに可愛かったから、俺は一瞬で猪のことを忘れた。寝起きの頭が見せた幻覚だったのかもしれない。だけど、その子から聞こえてくる音は吃驚するくらい静かだったから、声を掛けそびれた。ただ、腰に刀を差している様が見えてしまい、どうやら俺は最終選別で生き残ってしまったらしいぞ、という実感が遅れて湧いてくる。ふと思い至って、自分の腰を見た。失くしてしまっていないか心配になったが、じいちゃんから借りた刀はちゃんと自分の腰に収まっていた。夢では何度も抜いた覚えがある。しかし、現実に戻ってからはさっぱりだ。
 というか、生きて下山してしまったということは、俺は鬼を殺す為の隊士になってしまった訳だ。ということはだ、今生き残ったとしても近いうちに死ぬじゃん。悪夢かよ。俺は今目覚めたばかりですが。どうせ死ぬなら愉快な夢を見ながら死にたかった。いや決して望んで死にたかった訳じゃないけど、その方がマシってだけで。
 自己嫌悪と将来への憂いに勤しんでいると、後ろから怒号が聞こえた。なんだなんだ。刀がどうとか言っている。現れたのは男で、随分と人相の悪い奴だった。人相も酷いが覇気が凄い。それに微かにだけど、鬼にも似た音が聞こえる。興奮冷めやらぬって感じか。沢山倒してここに来たのかも。すごい。俺には出来ない。そもそもこの山から帰って来ているということは、ここにいる連中は皆少なからず鬼と対峙してきた筈だ。どんな幸運に恵まれたのかは知らないが、この七日間気絶していただけだった奴なんて俺くらいのものだろうし、そんな事実をありのままに伝えたら、悪感情を持たれたって不思議はない訳で。
 なんだか気まずいな、と手持ち無沙汰にしていたら、また一人やって来た。額に傷を負っている、同い年くらいの男だ。大分疲れている様子で、肩で息をしている。なんだか久し振りに人間らしい奴を見たぞ、とそいつを見て思う。
 そいつが最後の生き残りだったらしい。それから先は誰も来なかった。

 俺がここに居るのは何かの間違いで、ただずっと失神していただけなんです。と、今のうちに鬼殺隊の偉い人に打ち明けられれば良かったのだけれど、誰に伝えれば良いのか分からなかった。鬼殺隊の偉い人ってどんな人だろうか。じいちゃんは柱だって言ってたから、じいちゃんみたいに怖い人なのは違いない。だって鬼を斬るのが仕事だ。優しさなんか邪魔にしかならないじゃない。ならば俺には向いてない仕事だ。じいちゃんくらい強かったらまた別だろうけど、俺は弱いので。
 汚れた着物の裾を掴んでおたおたしていたら、程なく見覚えのある女の子が二人、どこからともなく現れた。七日前に講釈を垂れていたおかっぱの髪の双子だ。双子の一人が静かな笑顔で恭しくのたまった。
「おかえりなさいませ」
 その声を聞いて悟る。成程、俺にとって地獄というのは、現実を指していたらしいと。

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