月は空にメダルのように

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「おやおや、駿河先輩。これからご退勤ですか?」
 音もなく進む自転車で横付けしてきたのは、見知った顔の後輩の男の子で。全く、きみは嫌なタイミングで遭遇するなと、私は心中で苦笑を噛み潰す。
 顔を見ずとも誰かと分かる――のは、この場合はあまり嬉しくないな。
 現在時刻。日付が変わるまでおよそ一時間といったところか。
「はい、現在午後十一時ジャスト。月が綺麗な夜更けですが、女性がお一人で出歩くには相応しくないお時間です。仕事熱心もよろしいですが、夜更かしはお身体に障りますよ」
「そういうきみは何をしていたんだ? わざわざ私に告白する為に話しかけてきたのか? こんな夜更けに」
 制服のままだし。補導とかされないのだろうか。……されないんだろうなあ。
 されたとしても、この子の場合なんだかんだとおまわりさんまで煙に巻いてしまいそうだ。
「それもまた一興ですが、今夜は冗談を控えておくことにしましょう。随分とお疲れのようですし……よろしければお家までお送りしますよ。後ろに乗って下さい」
「いや、遠慮しておく」
「はっはー、さては僕が送り狼になるのではないかと心配してますね? 安心してください。この忍野扇はいつまでも、駿河先輩に忠実なエロ奴隷ですから」
「そんな心配はしていなかったし、余計に心配が深まったよ。控えるんじゃなかったのか」
「ええ、だから僕はいつだって本気ということです」
 まったくもう。相変わらずだな、この子は。
 実は、退勤前にリップくらい引き直しておくべきだったかと――私にも年上の女性らしい自覚が出てきたというか――軽い後悔染みたものを覚えていたのだが、杞憂だったようだ。彼に対してそんな気遣いは不要なものであると思い出すのに、そう時間は掛からないのだ。
 いつも。
 ……それをありがたいと感じる瞬間こそ、ついぞないけれど。
「いや、こんなことを言うとまるで心無い人間のように思われてしまいそうだけれど……きみに声を掛けられると、何かよくないことの前触れじゃないかって思うんだよな」
「十分心無い発言ですよ。酷いなあ、無邪気に懐く後輩を何だと思っているんですか。寧ろ吉兆だと思ってくださいよ。ほらほら、ため息なんて吐かないでください。良いことを教えてあげますから」
「良いこと?」
 きみにとって都合の良いことの間違いなんじゃないのか? と疑いたくなってしまう辺り我ながら心が狭いと痛感するのだが、相手は忍野扇だ。理解して欲しい。
 しかし、『悪魔様』の噂だったり、宝の地図の謎解きだったり、時たま見逃せないことを知らせる曙光になるからな……闇なのに。
「丁度おまわりさんの話題が出ましたがね。駿河先輩、知ってます? 阿良々木先輩が、警察官になったそうですよ」

 大学生になって、アルバイトを始め、高校時代のようにいかなくなったことは数え切れない程あるが、その中の一つに『忍野扇』がある。
 かつて私は走って学校に通っていたものだったが、その時から彼はよく私の隣にママチャリで横付けしてきたものだった。正直な話、始業時間前から彼の顔を見るのは辛いものがあったと言わざるを得ない。
 だから私は忍野扇の追及から、走り出す。
 振り切って、逃げる。
 私は何度もその痛みを、息が上がり切った所為にしていたものだった。
 それが出来なくなったのは、私が歳を取った所為に他ならないのだ。きっと。
「ふうん? そうなのか」
 なんとか押し出した一言は、思いの外あっさりとしたものだった。
 我らが阿良々木先輩が無事に就職したというのは、後輩として喜ばしいニュースだった。のに。
「おや、もう少し大きなリアクションをされるかと思っておりましたが」
「んー、まあ、意外ではないかな」
「そりゃあ、あなたの目指している職の方が意外性に溢れてはおりますが」
 にやにやと、ちょっと嫌な印象の笑顔を浮かべる扇くん。
 ここはノーコメントとしておこうか。触らぬ闇に祟りなし。
「というか、私はきみから阿良々木先輩の近況を聞いちゃって良いのかな? こういう報告は本来、本人から聞くべきだと思うのだが」
「あの人が自分の近況を報告する為だけに、連絡を取ろうとする人だと思いますか?」
「それは……思わない、けれど……」
 否定してあげられないところが若干つらい。私も連絡を取らなくなって……どれくらいだっけ? とにかく久しいことは確かで。
「それがお疲れの原因ですかね。いや、精神が疲労を覚えているからこそ、うっかりセンチメンタルな気持ちになってしまう、と言った方が適切でしょうか?」
「きみも大概、人の不幸を面白がってくれるよな」
「よく言われます」
 ……うん。
 ちょっとくらい寂しさを覚える日だってあるさ。
 でも、そんな風に顧みることが出来るようになることこそ、大人になるってことだろう?
「さて、どうでしょうねー? 単に年齢を重ねただけでも、形式的には大人という称号を手に入れることが出来ますし――そこで思考停止してしまうのは危険な思想ではありますけど。まあ、駿河先輩がそう言い訳していて気持ちが楽になるというのなら、僕は何も言うことはありません」
 何も言えなくなるのはこっちだ、と言い返そうとして止めた。自ら進んで墓穴を掘る必要はないだろう。
 それに、結局自宅まで付いて来てしまった扇くんに私は送って貰ったことになるのか、否定しきれないところはあったし。
「その点、僕は永遠に少年の心を持っているので安泰ですよ。ねえ、駿河先輩。お互い三十歳になっても独身だったら結婚しませんか?」
「しませんよ。なんかその、ちょっとリアルな数字を持ち出してくるな」
「あと八年ですかー。駿河先輩におねショタの素養があるかどうかは分かりませんが、僕は年上の女性も許容範囲ですから安心してくださいね」
「きみ、あと八年も私に付き纏うつもりなのか……」
 と、背筋が寒くなったのは束の間。
 自転車に跨った背中はすぐに、星空を湛えた闇の下に消えていった。

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