口唇欲求にそれ以上はない

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 教室に並んだ席を埋めていたのは、私をカウントして三人だった。
 自分の席でつらつらとうたた寝をしていた私と、書きかけの進路希望調査を机に広げている神原駿河と、もう一人。
 あの後輩は、どうして三年生の教室を覘くのが好きなのだろう。まだ完全に覚醒していない寝ぼけた頭で考えたことは一番がそれで、次は神原のペンを握る手が止まっているな、ということだった。悪影響しかない。
「口唇欲求ってご存知ですか?」
「それは、あれだろう? 生まれて間もない頃、口を通して受ける愛情が満たされていないと、大人になってから煙草を好んだり、爪を噛む癖があったり、ガムをよく噛んだりする時がある……みたいな」
「そうです、そうです。駿河先輩にしては素晴らしく良く出来た回答ですね。所説ありますが、まあ、それで概ね良しと致しましょう」
 わざとらしく広げた両腕の袖は、直江津高校の学ランのそれだった。起き抜けの頭で話を割くのは賢くない予感がして、私はうたた寝から狸寝入りへと実行すべきコマンドを変更する。それは正しい選択だったと確信するのは、彼が続けて口を開いてからだった。
「よくある、駿河先輩が僕の口を舐めたくなる、あれです」
「待て。そんな欲求がよくあってたまるか」
 そうやって、一々丁寧に相手をしてやるからさ。だからきみは良い人だって言われるんだよ。
 後ろの席から傍観している私が、心の中だけで囁いた嫌味は、神原選手には勿論届かない。というか、私は、神原が本日締め切りの提出物を書き終えるのを待っている間に、ちょっとうとうとしてしまっていたのだけれど、この分では私を待てせていること自体、彼女はすっかり忘れているようだった。
「そうイライラしないでくださいよ。それで、その口唇欲求なのですが、……何か、思い当たる節、ありません?」
「え? いや、生憎だが私にはそういう癖はないぞ? 爪やガムを噛む癖もないし、勿論、煙草だってしない」
「短絡的な答えですねえ、もう少しよく考えてみてくださいよ。あなたにはなくとも、他の人にはあると思いませんか?」
「他の人……? ……あ」
「ないよ」
「っ!?」
 後輩のシニカルな問いには代わりに返事をしてやって、こちらを振り向こうとした彼女より先に、私から目線を合わせた。背後を取っただけで、簡単に驚きの声を上げる神原。それだけ話に夢中になっていたということだろうか。
 だから、彼女のうなじを掴んで、上を向かせることに大した苦労はしなかった。
「お、おい、ぬま、ち」
「そうだね、うん。流石は忍野扇さん。神原選手のことを、そして私みたいな奴の性格を、ちゃんと理解しているという訳だ」
 細めた昏い目の焦点が合っているのは、天を見上げてだらしなく口を開けた、尊敬する先輩の顔ではなく、日頃私が持ち歩いているそれだろう。私の机の上で、分かりやすく存在を主張しているボトルガム。そこから取り出した口封じ用の五、六粒を、神原の口にそのまま流し込んだ。
 私の掌の中で、ぐ、とこめかみが動く感触がする。
「いえいえ、あなたも大概分かりやすい人ですから」
「神原選手程じゃあないよ」
 ついでに、強引に頭を持ち上げた時に、神原の首から不穏な音がしたが、私はさして気にもならないのだった。

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