塩漬けにした牛肉の缶詰について

 備え付けの鍵を剥がして、缶の表面から少しはみ出していたでっぱりに差し込む。そのままくるくる外周に沿って回していけば、ぴりり、と亀裂が入っていく。鍵に巻き付く金属の細い帯は、上手に剥けた果物の皮のようにも見えた。
 掌に収まる台形の缶詰を「教えろ」と差し出してきたのは伊之助で、一体何を知りたいのかと思えば、コンビーフの缶を開けて欲しいのだという。生まれて初めてその存在を知った。開けてそのまま肉が食える。美味いらしい。他所では食えない味だと聞いた。しかも肉なのに腐らない。こいつはやべえ。一緒に暮らす婆の家から発掘してきたというその缶詰は、賞味期限が丁度一年後の今日だった。コンビーフは三年くらいなら余裕で保存が効くということは、昨日の夜に流し見していたネットニュースのおかげで俺も知っていた。ということは、少なくともこいつは二年間眠っていたことになる。全く、ひささんも拾った猪を無駄にときめかすのがお上手なことで。
「……二年前の今日、何してたっけなあ」
 缶の蓋を剥きながら、誰に聞かせるでもなく呟いてみる。上蓋を取り除くと中から赤い肉が顔を覗かせた。「おお!」と、伊之助から感嘆の声が上がる。非常識的なこいつの数少ない良いところのひとつに、相手に見せるリアクションがとても素直だ、というのはあると思う。
 ある年まで雌の猪に育てられたという伊之助は、酷く世間知らずなところはあれど、人間の常識と呼ぶべき何もかもが出来ないという訳では決してない。むしろ逆で、伊之助は一人で出来ることは、何もかも一人きりですることを好む男だった。なのに、どういう風の吹き回しなのか、暇を見つけてはよく俺を頼ってくる。今日日コンビーフの缶の開け方が常識と呼べるのかどうかは知らんが。でもまあ、今の常識だって、遠いいつかには非常識になるのだから、さほど問題にはならんだろう。伊之助は伊之助の中の非常識にぶつかる度、「紋逸!」と、覚える気が全く無さそうな声音で俺の名前を呼んだ。同じ学年で同じクラスなのだから、俺ではなく炭治郎の方を頼れば良いのに、と思いながら相手をするのが常となっている。しかし、炭治郎は炭治郎でどうしたって世話焼きなところがあるから、なるだけ親分として立っていたい伊之助的に見れば、分からない境地ではない。俺の適当さ加減が、伊之助の中では丁度良いらしかった。
「ほらよ」
 もう食べるだけになった缶の中身を差し出すと、伊之助はすぐさま肉の塊にかぶり付いた。脂肪と赤身が混じり合った加工肉が、口の中でもちゃもちゃと咀嚼されていく。二年前、缶に詰められる時も同じ色をしてたのかな、この塩漬けの牛の肉は。
「しょっぱいな」
 一口二口、それから三口目で剥いた肉をあらかた腹に収めてしまった伊之助は、そんな風に今更感が残る感想を述べた。開けてやったんだから俺にもちょっとは頂戴よ、と器に残っていた肉を指ですくって舐めてみる。なんだか懐かしい味がした。そういえば、兄貴が晩飯のおかずを作る時、時たま野菜と一緒にフライパンに入れていたなと思い出す。キャベツとピーマンの緑ばかりが目立つ野菜炒めの中で、熱されて少し色が抜けた赤を見た記憶がある。すぐに思い出せたから最近の出来事だと思っていたけれど、よくよく考えてみればそれももう二年前の記憶だ。少なくとも俺は二年前と同じではいられなかった。
「うん。しょっぱい」
 相手と同じ感想を選びながら、手に残された金属の棒に巻き付けられた薄いリボンを広げてみる。深い緑と白の印刷は切り口で擦れて、裏地の金色は脂で汚れていた。それらを全て取り除くと、銀の鍵だけが残った。蛍光灯の白に照らされて、輪郭をぴかぴかに光らせている。
「それ、よこせ」
「? なんで?」
「気になる」
 言われるがまま差し出すと、伊之助は責務を全うした巻き取り鍵を、なんだか大事そうにスラックスのポケットにしまった。そこに入れられたら最後、持ち主もしくは同居人が制服をクリーニングに出すまで忘れ去られる運命にあるのだろう。そう考えると些か嘆かわしい。しかし、伊之助の表情だけは、道端で本人にしか価値が分からない宝物を見つけた小学生のようなそれだったので、咎める気にはなれなかった。

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気象病

「頭が痛ぇからもうじき雨が降るぞ」
 そんなことを伊之助が言ったので、俺は少し呆けてしまった。というのも、並べられた「頭が痛い」と「雨が降る」の二つに因果はないと思っていたからだ。その時の俺の心中は、こいつは何を言っているんだろう、という疑問が九割、だけど理由もなしにふざけたことを言うような奴じゃないよな、という経験則が一割を占めていて、結果特に何も返さずにその場は流した。だけど不思議なもので、それから半刻もしないうちに天から細い雨粒がぱらぱらと降りてきたので、伊之助の言った通りになった。どうして分かったんだよ、と訊いてみたい好奇心はあったけれど、猪頭に手を当てて不機嫌そうに空を睨んでいる伊之助を前にすると、声を掛けるのはなんだかはばかられたので、謎のままになった。
 それから度々伊之助は空模様を当てた。山で育ったこいつのことだし、野生動物特有の勘のようなものでも働いているのかと思えば、どうも違うようだ。こいつは持ち前の肌感覚の鋭さと経験則でものを言っているらしいぞと気が付いたのは、何度か任務を共にしてからだった。俺の耳の良さと同じような類だろうか。
 一緒に鬼を狩りに行く途中、にわか雨に遭った時の伊之助は大抵機嫌が悪そうにしていたけれど、かといって濡れることを疎ましく思っている訳ではないらしく、どんなに雨脚が激しくとも目的地を目指すことはやめない。もう少し雨宿りしてから行こうぜ、と愚図るのはいつも俺の方で、だけど俺の忠告なんてあいつに届く筈もなく、伊之助は返事を待たずにさっさと軒下から飛び出して行く。え、いやちょっと待ってよ。この土砂降りの中を傘も差さずにとか、正気か? 俺は慌てて広げた羽織を頭から被り、走る背中を追い掛ける。いつもこうだよ。自己中心的というか、自分の常識が他人にとっても常識である筈だと疑わないというか。だから俺、あいつとの任務はちょっと嫌なんだよな。

 実のところ、俺も雨はあまり得意ではない。特に晴れの日が長く続いた後の雨の日なんかは、耳が上手く慣れてくれない。
 伊之助と一緒に鬼を斬った翌日。その日も屋根を叩く雨粒の音を夜通し聞きながら寝た所為か、目覚めてからもしばらく頭の奥が重かった。今朝は鴉も雀も鳴かなかったのが幸いだったけれど。
 ふと隣を見れば、先に目覚めていたらしい伊之助も、布団の上でぼんやりとしていた。こいつが身動きひとつせず、じっとしているのも珍しい。昨日鬼の前で見せた威勢の良さはどこにも残っていない。
「おはよ、伊之助」
「…………」
「何してんの?」
「…………」
「伊之助?」
 返事らしい返事はなかった。被り物の下で何かもごもごと口を動かした気配はあったけれど、固まったまま動かない。大丈夫なのかな。もしや腹でも空いてるの?
「……なんだかぴりぴりするし、寒い」
 呟くようにそう言って、伊之助は布団の上に大の字になった。それだけでも普段の伊之助の態度からは考えられない奇行だったのだが、あろうことかそのままごろりと横に寝返りを打って、俺の布団の方に寄ってくる。
「なんだよ」
「……頭が痛ぇ」
 低く唸るようにそう言って、また口を噤む。相変わらず気まぐれだし、あまり言葉を尽くさない男だな、と俺の眉間には皺が寄った。一体何がしたいのか、全く読めない。
 まあ、しかし、だ。伊之助が素直に弱音を吐いたこと自体は珍しかったし、それは多分、今この場所に炭治郎が居ないからというのが理由のひとつにあるのではないか。それを俺は、時たま訪れる二人きりで任務に赴く機会の中で感じていた。気付かない方が良かったのかもしれないが、気付いてしまったので、変にかどわかされてしまった。普段は俺の言うことなんざこれっぽっちも気に留めない猪なのに、稀に二人きりになると、おもむろに腹を見せてくる。その気付きは、なんだか俺を不思議な気持ちにさせたのだ。
 何かを諦めるような心持ちで、俺は掛布団を持ち上げ、相手を招き入れる姿勢を作った。その対応は正解だったのか、伊之助は寝巻を引き摺りながら、素直に俺の布団の中に潜り込んで来る。着ていた浴衣は帯が解けていた所為で、ただ肩に羽織るだけになっていた。見てるだけでも寒そうななりだ。もしや雨に打たれて風邪でも引いたのかな、と相手の首元を触ってみたのだが、布の下の肌は妙に冷えていた。それだけじゃ分かんねえしな、と続けて被り物の猪を脱がせる。抵抗されるかと思いきや存外大人しく脱がされて、久し振りに見た素顔には重そうな瞼があった。ぱっちりしている筈の目は伏せがちだったので、長い睫毛に遮られてしまい瞳の色がよく見えない。
「やっぱり風邪引いたんじゃねえの? 白湯でも沸かして貰おうか」
「いらねえ」
 俺は強いから風邪なんか引かねえ、と伊之助はまた唸った。子供みたいな言い草に呆れたが、確かに体温は平熱だったし、喉を少し覗いてみても赤くはなかった。だけど、俺の太腿辺りに蹲って額をくっつけることをやめなかったし、丸くなったまま動かない。なので、俺はすっかり困ってしまった。
 聞こえよがしにため息を吐く。そうでもしないとこの猪は俺の心の機微が分からないだろうと踏んだのだ。
「お前さあ、何がしたいの? ちゃんと言わないと分かんないよ?」
「……別に何も」
「あっそ」
 睫毛と同じ色をした柔らかい髪に指を差し込むと、伊之助は喉を鳴らした。これでは猪ではなく猫のようだなと思ったが、響いた声は気持ち良さそうなそれではなく、嫌がってる時の音だ。神経を静かに削られているかのような音が、外の雨音の中に混じっている。
「……伊之助は、雨が嫌い?」
「天気に好きとか嫌いとかねえよ」
 触る場所を髪の生え際から耳に移す。薄くて形の良い耳はひんやりと冷たかった。また嫌がられるかと思ったが、案の定。いきなり鳩尾に頭突きを食らわされた。ぐえ、と潰された蛙のような声が自分の喉奥で鳴る。いやね、ちょっかいかけたのはこっちだけどさ、いきなり頭突きとかないでしょ!? と、俺が文句を言うより先に、伊之助の両腕が俺の腰に回った。浴衣越しに伝わってくる体温がぬくくて、ちょっとだけ気持ちが丸くなってしまう。
「俺がこうしてんのは俺の勝手だろ。別に、細やかな気遣いが欲しい訳じゃねえし」
 と、伊之助はやっぱり不機嫌そうな声で、俺の腹に向かって喋った。しかし成程。このしおらしい態度を炭治郎の前で見せなかった理由はその辺りにありそうだな、なんて邪推が働く。細やかな気遣い。それこそあいつが得意そうなものだ。
「お前、結構炭治郎のこと好きだよな」
「……なんで権八郎の話が出てくるんだよ」

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遺書

 嘴平伊之助にはおおよそ常識というものがなかった。故に、俺の精神をキリキリと削り上げるのが上手かった。
「何してんだ、てめえ」
 机の上を照らすランプの灯りを、不意に影が遮る。後ろに立っているな、というのは気付いていたんだけど、まさか手元を覗き込んでくるとは思わなかった。俺の知る限り、伊之助は自分のことにしか興味が無い奴で、もっと言えば力比べを経ていかに自分の強さを磨き上げるかにしか興味が無い奴で、少なくとも俺が便箋に筆を走らせる様に興味を持って近づいてくるような奴ではないと思っていた。
「字だな、それは」
「遺書書いてんの」
「イショ?」
 俺がぶっきらぼうに答えると、伊之助は首を傾げた。無論、首とは常に顔を隠している猪頭のことだ。それ、部屋の中でも脱がない気かよ。俺には理解しかねるね、と寄せられた猪の鼻面を左手であしらう。
 今日だって、俺達二人は藤の花を家紋に掲げる家に身を寄せている訳だけど、家主の顔を見たか。いくら鬼狩りを好意的に見てくれる一族だからとはいえ、いきなり半裸の猪が自分の家の門をくぐったら腰のひとつやふたつ抜かされたって不思議じゃない。俺も人の事は言えないけれど。だけどそんなこと意にも介さず、こいつといえば出された飯を食って、風呂に入って、布団に転がって、と悠々としたものだった。そういう神経の太さや無頓着さは同期入隊した隊士として滅法羨ましい……いや、話を戻そう。
「イショってなんだ?」
 そんな風に、こいつは人間としての常識が欠落しているので、言ってしまえばびっくりする程世間知らず野郎なので、どうも遺書を残すという文化を知らんらしい。遺言を遺す、って言っても分からんだろうし。ええっとね。
「平たく言うと、死んだ人から生きた人へ遺す手紙だよ」
「? お前まだ死んでねえだろ」
「だから、いつ死ぬとも限らないからあらかじめ書いておくの」
 俺は鬼の頸を切りに行く前に遺書を書くようにしている。俺は弱いし、いつ死んでもおかしくないからだ。なるだけ死にたくないけれど、もし死んでしまったその時は、きっと骨も残らず鬼に喰われてしまうだろう。想像しただけで恐ろしい。紙の上の文字が震えちゃうんだけど。でも、死んで何も遺らないのはあんまりだと思うし、何も遺さないのも無責任だと思う。そんな動機でしたため始めた遺書だったが、最近は任務の数も増えてきたからしょっちゅう書き直す羽目になっている。
 書いた遺書は誰に遺されるのかと言うと、そこまではあんまり考えていない。出来れば可愛い女の子、将来的には俺のお嫁さんになるような子に受け取って貰えたら、そして美しい涙の一粒でも流して貰えたら俺の魂はきっと浮かばれるんだけど、悲しいかな、今のところは宛てがないので、直近ではじいちゃんが受け取ることになるだろう。それでも良い。俺は頑張っていたってほんの少しでも認めてくれる人がいれば、それで。
 と、いうようなことを俺は俺なりに、伊之助相手に懇切丁寧に噛み砕いて説明してやった。しかし、こいつは俺の言っていることがまるきりさっぱり分からないらしく、ますます首を傾げるだけだった。それだけならまだしも。
「意味分かんねえぞ。そんなことして何になるんだよ。生き物は死んだら何も残らねえ。土に還るだけじゃねえか」
 なんて、ばっさりと切り捨てやがった。俺の心を筆ごと折る気か? そんなことして何になる? と、浮かんだ感情をそのまま言い返そうとして思い出す。今でこそ多少は人の世に染まってきたものの、出会ったばかりのこいつは人間の亡骸を埋葬することすら理解していない奴だったということを。
「……ああ。殺した獣の皮を剥いで身に付けるようなもんか」
「山育ちの文化と一緒にしないでくれます?」
 はあ、と大きく溜め息。なんかもう、説明する気も失せたわ。始めから分かって貰えるとも思わなかったけれど。
 そもそも、これははなから共感が得難い話で、実際、あの炭治郎にだって完全に理解してくれた訳じゃあなかった。怯えながら文面を考える俺を見て、善逸は真面目だな、と返されたのだが、そんなんじゃない。ただ怖いだけなんだよ、俺は。誰にも何も与えられず、何も残さず消えていくのは寂しい。俺は寂しがり屋だから、死ぬのがいっとう怖い。
 すっかり執筆意欲をなくしてしまった俺が相手に目をやると、予想外に気迫を湛えた伊之助がいた。奥歯を軋ませる音が猪の皮の下から聞こえる。
「な、何? 怒ってんの?」
「別に怒ってねえし」
「いや、怒ってんじゃん――!?」
 机の上の便箋に並ぶ自分の文字、それから相手の猪の面ときて、次に俺が見たのは部屋の天井だった。背中に痛みが走ってから、自分は伊之助にはっ倒されたのだと気付く。
「はあ? なんのつもりだよふざけんな!」
「ふざけてんのはてめえだろ!?」
 俺の知る限り、伊之助は自分のことにしか興味が無い奴で、それはつまり他人のやること成すことにうるさく口を挟んでくるような奴ではないということで、だから俺は伊之助に手首を掴まれるとまでは思っていなかった。貴重な鉛筆が相手の手元で折られた。何してくれちゃってんだよ。クソが。
「死ぬ前に言いたいことがあるなら直接言えば良いだろうが。俺が聞いてやる」
 伊之助が俺の上で息を荒げる。耳を澄ますまでもなく、頭に血が上っていく音が聞こえる。怒ったり焦ったりしている奴から頻繁に聞こえてくる類のあれだ。伊之助は何をそんなに焦っているのだろう。分からない。分からなかった俺は。
「……は?」
 と、間抜けな声しか出せなかったが、当たり前だ。伊之助から発された言葉は見当違いも良いところだ。俺は別に伊之助に何か言いたくて遺書を書いている訳じゃないし、というか言いたいことがあれば都度言っている。
 にしてもいい加減、俺の上から降りてくれないだろうか。ガタイの良い男に馬乗りになられて良い気分しないんですけど。畳に押し付けられた俺の腰骨がミシミシと悲鳴を上げている。重い。痛い。ねえ痛いよ。
「泣いて欲しいってなら俺が泣いてやるし。俺は強いから泣かねえけど、ちょっとだけなら泣いてやっても良い」
 いや、泣きそうなのは俺。今お前に掴みかかられている俺の方。自分に理解出来ないことがあるからって人に掴みかかるかね、普通。これもはや八つ当たりじゃないの? 八つ当たりだな、うん。俺はそう思うことにした。
 だけど、いつもの癖でというか、今まで怒られた時にはそうしてきたように、俺はついつい耳を澄ませてしまう。生き物の音は俺に感情の手掛かりをくれる。血の流れる音や呼吸の早さ、身体のどこの筋肉に力を入れているか。それが見ないで分かるだけでも、俺は相手の考えていることを推し量ることが出来た。そうして俺はその場から逃げ出すのだ。これ以上怒られたくはなかったし、相手に失望されるのだって同じくらい嫌だった。
 恐らく、伊之助は何かを期待している。今、伊之助が力を込めている場所は顔の辺り……眉間かこれは。眉間に皺を寄せて、歯を食いしばって何かに耐えている。被り物に遮られて見えないけれど、そんな表情をしている。心臓が内側から何か強い感情を押し上げようとばかりに早く脈打っているけれど、それを理性で抑えているかのような。お前に理性なんてあったんだな。それだけでも俺は裏切られたような気分だよ。
 こいつの音を聞くこと自体は簡単なのだけれど、聞こえた音を人間の情緒に当てはめることが出来ないので、俺は伊之助の考えていることを必ずしも言い当てられる訳じゃない。俺の耳を使った読心術も所詮は経験則なので、半分四足獣のこいつには通用しないことも多かった。結局、伊之助が何に腹を立てているのか見当を付けることすら叶わず、俺は眼前の猪頭を茫然と見つめることしか出来なかった。

 命の終わりを見据えて生きるのを止めろ。
 多分だけど、伊之助が言いたかったことはそういうことなんじゃないかと思う。俺は伊之助のことを指して神経が太いと言ったけれど、それは間違いだった。こいつはただただまっすぐなのだ。そんなまっすぐな想いを絞り出した行動には、珍しく余計なオブラートがくっついていたけれど、俺があいつにそうしたように余計なものを削ぎ落し、易しく噛み砕くと、荒々しい言葉の中にはきっとそんな感じの意図が残る。
 伊之助の言いたいことは分かる。まあ、分かる。一緒に連れ立って鬼の頸を切りに行く剣士が、自分の隣で弱腰でぶるぶる震えていたら、そりゃあ士気も下がるしムカつくだろう。だけど理解したところで、死を目前にしながら果敢に立ち向かうなんてのは弱い俺にはどうしたって無理な話で、猪相手にキレられたからって己の矜持を捨てる訳にもいかなかった。いや、正直あんな面倒な思いをするくらいなら、遺書なんて書かずにそのまま静かに何も残さず一人で野垂れ死んでも良いかな、と少しだけ思ったけれど、やっぱり死ぬのは怖くて嫌で、一人になってしまうのは寂しくて嫌で、今日も俺は懐に遺書を忍ばせて生き汚く喚いている。いざという時は鎹雀にこれを持たせて逃がすのだ。いざという時が来ないことを願わんばかりだが、任務に同行している伊之助が俺を守ってくれるとも思えないので、今日こそ俺は死ぬだろう。鬼退治へ向かう足取りは重い。
 ついでに、強いから泣かないと言っていた伊之助だが、俺は伊之助の涙を何度か見たことがあるし、本人は否定するだろうけどあいつは割と素直に泣く。ただ、その涙はいつも本人の素直な感情を溢れさせたそれなので、最悪、俺の遺言が誘うのは女の子の涙じゃなくても別に良いかな、なんてのぼせたことを思う。

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