遺書

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 嘴平伊之助にはおおよそ常識というものがなかった。故に、俺の精神をキリキリと削り上げるのが上手かった。
「何してんだ、てめえ」
 机の上を照らすランプの灯りを、不意に影が遮る。後ろに立っているな、というのは気付いていたんだけど、まさか手元を覗き込んでくるとは思わなかった。俺の知る限り、伊之助は自分のことにしか興味が無い奴で、もっと言えば力比べを経ていかに自分の強さを磨き上げるかにしか興味が無い奴で、少なくとも俺が便箋に筆を走らせる様に興味を持って近づいてくるような奴ではないと思っていた。
「字だな、それは」
「遺書書いてんの」
「イショ?」
 俺がぶっきらぼうに答えると、伊之助は首を傾げた。無論、首とは常に顔を隠している猪頭のことだ。それ、部屋の中でも脱がない気かよ。俺には理解しかねるね、と寄せられた猪の鼻面を左手であしらう。
 今日だって、俺達二人は藤の花を家紋に掲げる家に身を寄せている訳だけど、家主の顔を見たか。いくら鬼狩りを好意的に見てくれる一族だからとはいえ、いきなり半裸の猪が自分の家の門をくぐったら腰のひとつやふたつ抜かされたって不思議じゃない。俺も人の事は言えないけれど。だけどそんなこと意にも介さず、こいつといえば出された飯を食って、風呂に入って、布団に転がって、と悠々としたものだった。そういう神経の太さや無頓着さは同期入隊した隊士として滅法羨ましい……いや、話を戻そう。
「イショってなんだ?」
 そんな風に、こいつは人間としての常識が欠落しているので、言ってしまえばびっくりする程世間知らず野郎なので、どうも遺書を残すという文化を知らんらしい。遺言を遺す、って言っても分からんだろうし。ええっとね。
「平たく言うと、死んだ人から生きた人へ遺す手紙だよ」
「? お前まだ死んでねえだろ」
「だから、いつ死ぬとも限らないからあらかじめ書いておくの」
 俺は鬼の頸を切りに行く前に遺書を書くようにしている。俺は弱いし、いつ死んでもおかしくないからだ。なるだけ死にたくないけれど、もし死んでしまったその時は、きっと骨も残らず鬼に喰われてしまうだろう。想像しただけで恐ろしい。紙の上の文字が震えちゃうんだけど。でも、死んで何も遺らないのはあんまりだと思うし、何も遺さないのも無責任だと思う。そんな動機でしたため始めた遺書だったが、最近は任務の数も増えてきたからしょっちゅう書き直す羽目になっている。
 書いた遺書は誰に遺されるのかと言うと、そこまではあんまり考えていない。出来れば可愛い女の子、将来的には俺のお嫁さんになるような子に受け取って貰えたら、そして美しい涙の一粒でも流して貰えたら俺の魂はきっと浮かばれるんだけど、悲しいかな、今のところは宛てがないので、直近ではじいちゃんが受け取ることになるだろう。それでも良い。俺は頑張っていたってほんの少しでも認めてくれる人がいれば、それで。
 と、いうようなことを俺は俺なりに、伊之助相手に懇切丁寧に噛み砕いて説明してやった。しかし、こいつは俺の言っていることがまるきりさっぱり分からないらしく、ますます首を傾げるだけだった。それだけならまだしも。
「意味分かんねえぞ。そんなことして何になるんだよ。生き物は死んだら何も残らねえ。土に還るだけじゃねえか」
 なんて、ばっさりと切り捨てやがった。俺の心を筆ごと折る気か? そんなことして何になる? と、浮かんだ感情をそのまま言い返そうとして思い出す。今でこそ多少は人の世に染まってきたものの、出会ったばかりのこいつは人間の亡骸を埋葬することすら理解していない奴だったということを。
「……ああ。殺した獣の皮を剥いで身に付けるようなもんか」
「山育ちの文化と一緒にしないでくれます?」
 はあ、と大きく溜め息。なんかもう、説明する気も失せたわ。始めから分かって貰えるとも思わなかったけれど。
 そもそも、これははなから共感が得難い話で、実際、あの炭治郎にだって完全に理解してくれた訳じゃあなかった。怯えながら文面を考える俺を見て、善逸は真面目だな、と返されたのだが、そんなんじゃない。ただ怖いだけなんだよ、俺は。誰にも何も与えられず、何も残さず消えていくのは寂しい。俺は寂しがり屋だから、死ぬのがいっとう怖い。
 すっかり執筆意欲をなくしてしまった俺が相手に目をやると、予想外に気迫を湛えた伊之助がいた。奥歯を軋ませる音が猪の皮の下から聞こえる。
「な、何? 怒ってんの?」
「別に怒ってねえし」
「いや、怒ってんじゃん――!?」
 机の上の便箋に並ぶ自分の文字、それから相手の猪の面ときて、次に俺が見たのは部屋の天井だった。背中に痛みが走ってから、自分は伊之助にはっ倒されたのだと気付く。
「はあ? なんのつもりだよふざけんな!」
「ふざけてんのはてめえだろ!?」
 俺の知る限り、伊之助は自分のことにしか興味が無い奴で、それはつまり他人のやること成すことにうるさく口を挟んでくるような奴ではないということで、だから俺は伊之助に手首を掴まれるとまでは思っていなかった。貴重な鉛筆が相手の手元で折られた。何してくれちゃってんだよ。クソが。
「死ぬ前に言いたいことがあるなら直接言えば良いだろうが。俺が聞いてやる」
 伊之助が俺の上で息を荒げる。耳を澄ますまでもなく、頭に血が上っていく音が聞こえる。怒ったり焦ったりしている奴から頻繁に聞こえてくる類のあれだ。伊之助は何をそんなに焦っているのだろう。分からない。分からなかった俺は。
「……は?」
 と、間抜けな声しか出せなかったが、当たり前だ。伊之助から発された言葉は見当違いも良いところだ。俺は別に伊之助に何か言いたくて遺書を書いている訳じゃないし、というか言いたいことがあれば都度言っている。
 にしてもいい加減、俺の上から降りてくれないだろうか。ガタイの良い男に馬乗りになられて良い気分しないんですけど。畳に押し付けられた俺の腰骨がミシミシと悲鳴を上げている。重い。痛い。ねえ痛いよ。
「泣いて欲しいってなら俺が泣いてやるし。俺は強いから泣かねえけど、ちょっとだけなら泣いてやっても良い」
 いや、泣きそうなのは俺。今お前に掴みかかられている俺の方。自分に理解出来ないことがあるからって人に掴みかかるかね、普通。これもはや八つ当たりじゃないの? 八つ当たりだな、うん。俺はそう思うことにした。
 だけど、いつもの癖でというか、今まで怒られた時にはそうしてきたように、俺はついつい耳を澄ませてしまう。生き物の音は俺に感情の手掛かりをくれる。血の流れる音や呼吸の早さ、身体のどこの筋肉に力を入れているか。それが見ないで分かるだけでも、俺は相手の考えていることを推し量ることが出来た。そうして俺はその場から逃げ出すのだ。これ以上怒られたくはなかったし、相手に失望されるのだって同じくらい嫌だった。
 恐らく、伊之助は何かを期待している。今、伊之助が力を込めている場所は顔の辺り……眉間かこれは。眉間に皺を寄せて、歯を食いしばって何かに耐えている。被り物に遮られて見えないけれど、そんな表情をしている。心臓が内側から何か強い感情を押し上げようとばかりに早く脈打っているけれど、それを理性で抑えているかのような。お前に理性なんてあったんだな。それだけでも俺は裏切られたような気分だよ。
 こいつの音を聞くこと自体は簡単なのだけれど、聞こえた音を人間の情緒に当てはめることが出来ないので、俺は伊之助の考えていることを必ずしも言い当てられる訳じゃない。俺の耳を使った読心術も所詮は経験則なので、半分四足獣のこいつには通用しないことも多かった。結局、伊之助が何に腹を立てているのか見当を付けることすら叶わず、俺は眼前の猪頭を茫然と見つめることしか出来なかった。

 命の終わりを見据えて生きるのを止めろ。
 多分だけど、伊之助が言いたかったことはそういうことなんじゃないかと思う。俺は伊之助のことを指して神経が太いと言ったけれど、それは間違いだった。こいつはただただまっすぐなのだ。そんなまっすぐな想いを絞り出した行動には、珍しく余計なオブラートがくっついていたけれど、俺があいつにそうしたように余計なものを削ぎ落し、易しく噛み砕くと、荒々しい言葉の中にはきっとそんな感じの意図が残る。
 伊之助の言いたいことは分かる。まあ、分かる。一緒に連れ立って鬼の頸を切りに行く剣士が、自分の隣で弱腰でぶるぶる震えていたら、そりゃあ士気も下がるしムカつくだろう。だけど理解したところで、死を目前にしながら果敢に立ち向かうなんてのは弱い俺にはどうしたって無理な話で、猪相手にキレられたからって己の矜持を捨てる訳にもいかなかった。いや、正直あんな面倒な思いをするくらいなら、遺書なんて書かずにそのまま静かに何も残さず一人で野垂れ死んでも良いかな、と少しだけ思ったけれど、やっぱり死ぬのは怖くて嫌で、一人になってしまうのは寂しくて嫌で、今日も俺は懐に遺書を忍ばせて生き汚く喚いている。いざという時は鎹雀にこれを持たせて逃がすのだ。いざという時が来ないことを願わんばかりだが、任務に同行している伊之助が俺を守ってくれるとも思えないので、今日こそ俺は死ぬだろう。鬼退治へ向かう足取りは重い。
 ついでに、強いから泣かないと言っていた伊之助だが、俺は伊之助の涙を何度か見たことがあるし、本人は否定するだろうけどあいつは割と素直に泣く。ただ、その涙はいつも本人の素直な感情を溢れさせたそれなので、最悪、俺の遺言が誘うのは女の子の涙じゃなくても別に良いかな、なんてのぼせたことを思う。

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