好きなだけ

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 すん、と耳元で音が鳴った。
 首筋にくっつけられた相手の鼻先が、空気を取り入れた音だった。触覚に欠ける私が辛うじて拾ったもやもやした感覚の中に、何か別のものが交じる。そわそわとして、落ち着かない。この気持ちは、多分、恥ずかしいだ。
「……近い」
 相手の身体を押し出すようにして、胸元に手を差し入れる。すると、
「す、すみません!」
 なんて、慌てた調子の後、目尻が名残惜しそうに下がった。そのまま相手が後ろに退いたので、密着していた上体が離れる。
「あはは……ついつい夢中になっちゃうんですよね。りんさんの耳元でこうしてると、なんだか落ち着くんです」
「……よくわからん」
 鼻から空気を取り入れる所作は、匂いを感じ取る為のもの。一番上の姉がよくやっていたものと同じものだ。だから、状態を把握するために行っているのだと、理屈では理解出来るのだが――実際のところ私には今一つ実感が湧かないし、多分これからもわからないと思う。
 しかし、わからないことだったけれど、知りたいことではあった。最近覚え始めた『好き』という気持ちが、そんな衝動を後押しする。だから、
「それがお前のしたいことなのか?」
 とだけ聞いた。
「うーん? したいこと、なんて大層なものじゃないんですが……僕の中で気になることや、知りたいことがあった時に、自然とああいう形になっているんですよね。気が付いたら、身体が先に動いているというか」
 そんな風に答えて、情けない顔でへにゃりと笑った。
 こいつが並べた言葉の並びは言い訳のようだったが、よくよく意味を噛み砕いてみれば、何の免罪符にもなっていないことに気付く。
 いつの間にか隣に立っていて。キラキラした瞳は、私の身体の奥にしまい込んだ葉を見詰めていて。肩に腕が回って。顔が近づいてきて、それで――と、ここで私は居ても立っても居られない気持ちになるから、思い出すのを中断する。人肌が離れて久しい筈の耳元が、今になって熱くなってきた。
 この全てが『好き』という気持ちに起因しているものだとしたら、私の姉や妹はなんて大きなものを抱えて生きていたのだろう、と思う。
「僕、りんさんの役に立ちたいって気持ちと同じくらい、りんさんのことをもっとよく知りたいって思うんです」
「それは、お前はケムリクサが好きだから」
 だから、ケムリクサを持つ私達を好意的に見ているのだと思っていた、けれど。
「あはは……そう思われても仕方がないですよね……」
 そんな風に含みのある言い方をされると、他の可能性も感じさせられた。
「……私も、やってみて良いか?」
「えっ、えっと……はい、どうぞ」
 戸惑いながら差し出された肩口に額を乗せる。破裂しそうな程に脈打つ胸を抑えながら、息を吸ってみる。しかし、どうにも上手くいかず、好奇心の出来損ないだけが私の中に残る。
 ……やっぱり、よくわからん。
 と、同じ言葉で突き放しかけて、口に出す前に飲み込んだ。私の掌が相手の服の裾をぎゅっと握りしめていたことに気付いたから。
 ああ、そうか。こういうことか。
 感覚を隔てたまま行き着いた答えは何故かとても大事なものに思え、私はもう一度だけ鼻を鳴らしたみた。

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