背に響くリズミカルな足音。
僕の耳がそれを察知すると程なく、頭上に一瞬黒い影が差した。
かと思ったら、僕の目の前に見知った少女が、たんっと子気味好い音を立てて着地する。
「やぁ、阿良々木先輩」
状況を把握するのにそれ程の時間は要さなかった。
着地後、こちらをくるりと振り返り、目の前で爽やかな笑みを浮かべる少女――後輩の神原駿河が、僕の背中目掛けて駆けてきて、その勢いを殺しきれず僕を跳び越えたのだ。
彼女が僕の頭上を越したのは一度や二度では無い。
しかし残念ながら、何度回数を重ねようと、それは決して良い気持ちはしないシチュエーションだった。
「人の頭跳び越しといて爽やかに挨拶してんじゃねえよ」
「うん? そうだな。それは失礼した。しかし、こちらも言い訳させて頂くと、私が跳ばずにあのまま突っ走っていたら、勢いで阿良々木先輩を轢いてしまうから。ほら、よく言うだろう。『クルマは急に止まれない』と」
「人間の、というか自分の脚力を自動車と同列に語れる奴を僕は初めて見たよ」
「将来的にはリニアモーターカーを名乗りたい。足に反重力装置を搭載したい」
「それはドラえもんだ」
大体リニアって反重力じゃなくて磁力で浮いてるしな。
一通りボケとツッコミの会話を流したところで、改めて神原を見る。
伸びた髪をローツインに結わえているのは目に馴染み始めていたが、彼女のランニングウェア姿を見るのは初めてだった。
「お前っていつも走ってるイメージあるけど、今日はそれ、トレーニングか何かか?」
「うん、そうだな。そういう目的が全く無い訳ではないが――元気が足りない時、私は走るんだ」
彼女ははっきりと、そう言った。
「そりゃまた、なんでだよ」
「理由は上手く説明できない。ただ、走ってるだけで、自分はまだ走れると実感できるだけで、満足出来る」
私は単純で馬鹿だからな、と神原は続けた。
「ああ。これは誰にも内緒だぞ、阿良々木先輩」
いや、お前が馬鹿だってことは誰でも知っていると思うけども。
「……何か、あったのか?」
「ご心配痛み入る。しかし、阿良々木先輩に心配を掛ける私ではない。気にしないでくれ」
「そう言われると尚更気になるんだが……」
「そうか? では代わりに、私のおっぱいのことを気にしててくれ。走るたびに揺れるであろう私のおっぱいを」
「それこそ気にしなくていいだろ。お前のことスポーツマンとして、純粋な気持ちで見れなくなるよ」
「走ることは気持ちが良い。知っているか、阿良々木先輩。走るといいことがあるのだぞ」
神原は言う。
突然の話の切り替えに置いてかれそうになったが。
「バスケットボールも好きだが、私はただ全力で走ることが好きだ。今ならば、そう思える」
そう言う神原の目は、遠くを真っ直ぐ見据えていて。
そのまっすぐな言葉に、僕は息を飲んだ。
走ることが幼い頃に彼女が負った責であることは確かなのだが、それは今や彼女の支えでもあるのだろうか。
左手に巻かれた白い包帯を見ながら、そんなことが頭をよぎった。
「で、いいこととやらはあったのか?」
「ああ。走っていたら、阿良々木先輩に会った」
「…………」
「いいことだな!」
聞く側によってはその発言は、勘違いしかねないものである気がする。
神原ってそういう所があるからな。誤解を恐れないというか、なんというか。
だけど良かったな、神原。
幸い、僕はそんなラブコメを信じる様な勘違い系男子ではないのだ。
「それは単にお前が街中を駆け回っていたから、エンカウント率が上がったってだけの話だろ?」
「それだけでは無い。阿良々木先輩の行く所、私の足は勝手に向かっていくからな。勝手に吸い寄せられる」
「そりゃ迷惑な足だな」
「それこそ磁石のように引き寄せられる」
「リニアの話、まだ続いていたのか!?」
「阿良々木先輩も似たような手を持っているのではなかったか? ほら、女子のおっぱいに吸い寄せられる掌を」
「言いながらさりげなくこっちにおっぱいを寄せてくるんじゃねえ! ランニングウェア姿なんてレアだから喜んじゃうだろ!」
またも馬鹿な話を繰り返す目の前の後輩は、普段と変わらず僕に笑顔を向けてはいるのだが。
――元気が足りない時、か。
後輩が苦しんでいる時に颯爽と現れるような、そんな格好良い先輩になってやれればなぁ。
そう密かに思ったことは、神原には内緒にしておこう。