rainy

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 レイニー・デヴィルの自我がどこにあるのかと言えば、常に私の自我と寄り添っているのだと思う。
 ならば、その自意識はもはや私自身だと言えるだろう。
 全てひっくるめて。余すことなく自分のものだ。簡単に切り離すことは出来ない。
 私は七年もの間、『猿の手』という解釈に救いを求め、自分のマイナスな想いから目を背けていた。しかし、どんなに言い訳をしても、結局、その悪魔的感情は他ならぬ私のものだった。
 その悪魔は私にとって表裏一体である。二律背反である。両価感情である。
 表も私。
 裏も私。
 相反するも私。
 紛うことなき私の想いだ。
 人を好きになることもあれば、人を憎むこともある。疎ましく思うこともあるし、妬ましく思うこともある。好きな人に失望することだってある。そんなことを繰り返し、私は私を嫌いになるのだ。
 人から竹を割ったような性格だと言われることもあるが、かように、私から見た私の裏側は雨降りの悪魔であり、泣き虫な悪魔である。ただし、その性質を表した名前とは裏腹に、常に泣いたり憎んだりして暮らしている訳ではない。
 喜ぶこともあれば、悲しむこともあり、哀しむこともある――と言えば、やはり私の心中の大多数を占めるのは憎悪の感情なのだろうけれど、しかし人間――もとい、人間の感情をエネルギーとする怪異現象だからか、それには振れ幅というか、細かな感情の機微があるように思える。ただ、それを他者に理解して貰えるような説明を用意出来る程、私は器用な存在ではなかった。

「やあ、阿良々木先輩。お身体の調子は如何かな?」
「如何かなって……いよいよお前もフレンドリーな後輩を通り越して、上から目線になってきたな」
「そんなそんな。常に見上げる姿勢を忘れない私だぞ。今だって、阿良々木先輩から自分のあり様を学ばせて頂いている」
「やっぱり僕が低姿勢なんじゃねーか」

 と、彼はため息を吐いた。満更でもなさそうなため息を。

「まあ良いさ。薄く扱われていることには慣れているよ。こと最近の僕に関しては」

 そんな一言が、凪いでいた心中を僅かに波立たせた。

「して、質問の答えは?」
「質問? ……ああ、ちゃんと復調してるって。今日みたいな晴れたはちょっと日差しが目に染みるけれど……それも、もう大分慣れたかな」
「そうか。いつもながらすまないな」
「あ。いや、謝って貰いたくて言った訳じゃねえよ」

 と、彼は決まりが悪そうに頬を掻いた。その大きな心はいつも私を救いもするし、苛みもする。今のケースだと後者である。
 思わず首を垂れてしまった。
 彼の中の、表の私のキャラ付けは、徹頭徹尾ポジティヴなそれの筈なので、私が少し眉を下げるととても心配そうな顔をする。そういう優しいところはほんの少し苦手だ。
 彼は茶化すように口を開く。

「ほら、僕はスポーツ少女が好きだから、スポーツ少女のを腹筋を揉める機会があれば、是が非でも揉んでおきたいと思ってるし」
「ん、んー……? すまない、一日程待って貰えないだろうか。流石の私でも、阿良々木先輩のリビドーの表現方法をポジティヴに受け取るには少し時間が必要そうだから」
「一日でその境地に辿り着けるなら、お前の方が素質はあると思うぜ。僕は少なくとも四日は掛かってるからな。今や、あの健康的な腹斜筋で遊んでみたいと、思わない日はないけれど」
「成程。阿良々木先輩が時たま私の脇腹を眺めていた理由は得心いったが、それ以上は私の変態性に響くから、またの機会にしてくれないだろうか」
「まさかバレていたとは……い、いや、違うよ? アスリートの筋肉ってやっぱ凄いなー、とか思ってただけだって」
「先の性癖を開示された上で聞くと、意味合いが違うような気がするのだが……」
「おっふ」

 彼が素っ頓狂な声を上げた。
 振り向いた先で、私が制服の裾をぺろりと捲り上げたからだ。前触れなく行われた露出行為に対し、妥当なリアクションだったと思う。

「今のは阿良々木先輩の理性を試したのだ」
「……風邪を引かないか心配だから、今すぐへそをしまってくれ」
「わかった」

 相手に笑顔が戻った。呆れ混じりの笑顔だけど、それでも良しと出来た。
 この人を好きになれれば、何かが変わるだろうか。
 この拮抗した状態から、何とか抜け出せないだろうか。
 しかし、それは私には出来ないことだった。

「……じゃあ、また明日」
「ああ。また明日」

 自転車に跨った影が小さくなるのを、私は見送る。赤い空がアスファルトに長い影を引いた。
 また明日。
 私達にとっては明日というのは明日の朝日が昇ってから、ということではなく、日付が変わってから、というニュアンスが強いのだろう。今日の夜を乗り越え、無事な姿で迎えられれば良いのに。
 と、互いに明らかにしなかった二の句から逃げるように、私は走った。
 家に帰りつくまでの間に、なるべく体力を削っておきたかった。

 悪魔の左手が為しているそれらは、確実に私の想いが反映されているのだろうけれど、その時点で私には意思決定権がない。
 専門家の言葉を借りて言えば、トランス状態――まるでテレビの映像でも見ているかのように、他人心地である。一昔前の、アナログ放送時代さながらの分厚いブラウン管越しに、流れる映像をぼんやりと眺めているだけ。そんなイメージが私の脳を支配する。
 ただ、悲しい気持ちだけは自分のことのように感じ取れた。
 ふう、と喉が獣のように鳴る。妬みの感情が腹の底で渦を巻いたのだ。次いで、食いしばった奥歯が軋む。それらは感情が零れた音にしては聞き苦しいものだったけれど、私が発したものだ。
 抵抗しようともがいている私の声だった。
 何もかもが憎い。何もかもが嫌い。お前なんかいなくなってしまえば良い。
 そんな叫びを封じるが如く、彼が、私を地べたに押さえつけている。
 彼の目的は、私を拘束することのようだ。その上半身は血みどろで、筋繊維がところどころで千切れかかっている。そんな両腕のどこに私を組み敷く力があるのか不可解ではあったが、どうやら重力を味方に付けて、関節技めいたことを決めているらしかった。試行回数を重ねることで獲得した技術。そうだ。進捗は遅々たるものだが、それでも確実に、彼は悪魔を圧倒する術を身に付けている筈なんだ。と、私は俯瞰的にそんなことを思った。
 解放を求め、左腕が狂ったように暴れ、相手の背中を掻きむしる。赤い飛沫がまた、打ちっぱなしのコンクリートにまた模様を付けた。

「う……」

 苦しそうな呻きと共に、身体が覆い被さるように落ちてくる。
 体重で肺が押し潰される。が、そんな圧迫感は些細なもので、寧ろ体重をかけている側の肺の方が無事ではなさそうだった。

「ごめん、神原」

 彼が何かを喋る度に、隙間風が吹いたような高い音が聞こえるから。
 彼は、また私を抱き潰す。そして、中に押し入ってきた。悪魔に願いは叶えられないことを示す為に。私は阿良々木暦に勝てない、ということを証明する為に。そうすることが私の為になると、彼は信じているのだ。血濡れて震える指が、雨合羽の合わせ目を開く。その度に、私は心が削られるような思いをする。
 どうして。
 どうして、どうして、どうして、どうして、どうして、どうして、どうして、どうして、どうして、どうして、どうして、どうして、どうして、どうして、どうして、どうして、どうして、どうして、どうして、どうして、どうして、どうして、どうして、どうして、どうして、どうして、どうして、どうして、どうして、どうして、どうして、どうして、どうして、どうして、どうして、どうして、どうして、どうして、どうして、どうして、どうして、どうして、どうして、どうして、どうして、どうして、どうして、どうして、どうして、どうして、どうして、どうして、どうして、どうして、どうして、どうして、どうして、どうして、どうして、どうして、どうして、どうして、どうして、どうして、どうして、どうして、どうして、どうして、どうして、どうして、どうして、どうして。
 どうして、そんな酷いことが出来るんだ。
 どうすれば、私は阿良々木暦になれた。

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