ある追想

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 古い知り合いが自分の知らぬ間に幽霊になっていようと、私は別に構わない。古い知り合いという関係が友達めいた何かに変化しても。友達めいた何かからそれ以上の何かに変化しても。
 ただ、彼女が人間らしく暮らしているのが問題だ。
 私が部屋に帰れば「おかえり」と出迎えて、布団に潜る前には「おやすみ」と声をかけられて、例え隣に彼女がいない日でも逆に私が長期に家を空ける時があっても携帯電話をいじれば「何?」と声が聞けて。「暫く顔を見ていないから、そろそろ誰かに成仏させられたかと思って」なんて嫌味を言えば「私に話したくなるくらい不幸な出来事でもあったのかい?」と、決して気持ち良くはない返事が返ってくる。
 いっそもっと幽霊らしくなれば良いのに、なんて思うことすらある。
 だって、そうでなければ、私はこいつが死んでいることなんて忘れてしまいそうになるから。
 彼女はとても人間らしい。人間の嫌なところを、思わず自分で目を覆いたくなるような嫌なところまで、彼女はあけすけに話す。そして私にもそれを促す。否、強要された覚えはないから、私が勝手にそうしなければと感じてしまうだけだ。彼女を相手取るにあたって。
 それがいつからか、私の逃げ道になっていたことは否定しない。
 嫌われても良い相手、というのは存外楽だ。礼儀も節度も無い相手。それに気付くには時間を要したし、気付いた時には改めなければと考えを打ち消そうとしたが、時間をかけた分その事実は確信に近かった。
 唇を許すようになってどのくらい経ったかはカウントしていないが。いつからか近くにいるような気がしていたんだ。
 かと思えば、ずっと遠くにいて。
「掴みどころがないよ、お前って」
 机に突っ伏したまま吐き出した言葉は相応にくぐもっていたが、彼女にはしっかりと届いたらしい。「ん?」と彼女の眉が上がるが、ただしそれだけで、その先の言葉を自分から促そうとはしない。
 しかし、後先考えて漏らした言葉ではなかった為、私も黙る。
 私の不幸を食べに帰って来た幽霊の顔を久しぶりに見て、今日は私が「おかえり」を言ったのだった。「うわ、やっぱり」と私の部屋の惨状を確かめ顔をしかめる彼女を無視し、既に開けていた缶に口をつける。「飲むか?」と一応意思を伺えば「冗談」と切って捨てられたのだった。
 彼女は自分の小さな尻が収まるスペースを足で寄せて作り、そこに座った。それが私の隣だったことに文句を言う気なんて、もう三年前に失せている。
 昔よりやや伸びた自分の手足をだらりと垂らすだらしない様に、小さくため息をついたのは私か、彼女か。指の先で空き缶が潰れる音がした。
 「……神原選手、酔ってる?」といかにも酔っ払いを相手にする時に使われるような、面倒くさそうな声の響きが癪だったから「酔ってない」と私は答える。
「……そう?」
 そして予想通り。いつもの、言わばパターン化された応酬なのだ。
 左の頬に触れる感触も、もう慣れたもの。
 「でもお酒臭いね」と感想を述べる彼女に、「それはそうだろ。私はもう大人だ。アダルトだ。もうお酒だって飲める歳だ」と反論――になっていなかったと気付いたのは後からだったが――をして、「どこかで聞いたような台詞だな。前に私が聞いたものより、もっとずっと子供染みているけどね」と彼女。
 ぐずぐずとくだを巻く私に対して、意外にも彼女は真剣に向き合っているように見えた。ということは、これも彼女の趣味であるところの蒐集活動の一環にカテゴライズされているのだろう。別にそれでも良かった。ただ、昔と同じように私が嘘を織り交ぜていることは変わらずで、やはり三年前と同じような笑みを浮かべる彼女に対し、ちりちりと罪悪感がくすぶるのは耐え難かった。
 そのまま黙っているのも彼女に悪いと思ったので、「……お前と酒が飲める日が来れば良かったのに」なんて心にもないことを弱々しい声音で言えば、「ふふ」と私が苦手な笑い方をして「そればかりは、時間が解決してはくれないねえ」と、稀有なことに彼女の持論から外れた辛辣なことを言われた。
 本人の――しかも沼地の前だと言うのに、涙が気持ち良く流れた。

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