マインドセット

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 ささやかなリーグ制の練習試合の会場は、沼地の学校の体育館だった。
 馴染みの無い校舎の、馴染みの無い廊下。
 人の寄り付かない場所を選んだとは言っていたが、四校分のバスケットボール部が集合した中での呼び出しであった為、私の気持ちはどこか落ち着かない。
 しかし、どういうことか、呼び出した側の沼地の方にも同じような印象を抱かされた。
「うん。いつもよりそわそわしてるかなって、自分でも分かってはいるかな」
 肯定された。
 相も変わらずスローペースな言葉の紡ぎ方には緊張感なんて欠片も感じ無かったが、本人が言うなら確かなのだろう。
 視線だけで表情を覗き見ると、沼地の頬は僅かだが不自然な形に歪んでいる。頬を内側で薄く噛んでいるようだった。
「どうしてだよ。お前に限って」
「随分と買ってくれているみたいだけど、私だって落ち着かない日くらいあるよ。今日はきみとちゃんと対戦出来るのか、今からドキドキだぜ」
「随分と心にも無さそうなことを言うんだな」
「そりゃあね。皮肉だからね」
 嫌味を言うのはいつも通りか、と一人ごちると、今度はこちらが沼地に覗き込まれた。
「神原選手が私の不調を気にしてくれてるってのは少し意外に感じているけど」
「そういう訳じゃ――」
 私とは違い、首を傾けて真っ直ぐに表情を伺ってくるので、私は気まずく目線を逸らす。
 性格は捻くれているくせに、こういう動作に限り彼女は私よりも直球である。
だから。
「――いや、そうだ。気になる」
 私は反抗を止めた。潔く取り消す。
「はは、そう勘繰らなくてもいいよ。対戦相手のコンディションを知っておきたい、というのは極々一般的な発想だよね」
 マインドセット、と彼女は言う。
 内側から相手の焦燥を煽ることが出来たら、それは十分な強味なんだろうけど。
「まだそんな器用なことが出来る器じゃないかな、私は」
 そんな嘲笑を含んだ台詞を吐いた後、また頬を噛む沼地。
 日頃私の心理状態を乱しまくりのお前がどの口で言ってるんだ。
 と、言いたかったのをぐっと飲み込む。
 そうやって指摘すれば、少しはこちらからも沼地を精神面から攻めることが出来るのだろうか。しかし、かえって調子に乗られる可能性も捨てきれなかったので口に出さないことにする。
 フェアじゃないことだ。
「お前が心理戦に勤しみたい気持ちは分かったが、まだ私の質問に答えていないぞ」
「そうだね、答えを知りたかったら、ねえ」
 沼地はそこで言葉を切り、自分の下唇を触る。
 口寂しいのかな、と嘲笑に持ち上げられた口角を対角線で結んだ点、人差指と中指と薬指が軽くあてがわれ、色の変わり目の縁が三指の腹を押し返している。
如何にも演技めいたわざとらしい仕草の筈なのに、それだけで私は身が竦んだように動けなくなった。
「……は、早く済ませるぞ」
 声が裏返るのを抑えきれなかったが、それを茶化される前にさっさとやってしまうことにする。
 目を瞑った。
 私の弱さと諦めと、興味と背徳感と緊張が入り混じる時間。
 それは一瞬、本当に一瞬、一秒も触れていない接触だっただろう。しかし、私は確かな違和感を覚えた。
 味が、違う。
「分かった」
「ん?」
「お前、ガム忘れたんだろう」
「うん。だから落ち着かなかったんだよ」
 沼地は眉一つ動かさない。
 言い当てられたとて、大したダメージも受けないようだった。
「ちょっと気になってたのは事実かな。大事な大事な試合の前だからね」
「大事な大事な試合の前にガム噛んだりしてるのか、お前は」
「そんな私に唇差し出してくれる神原選手に言われたくはないなあ。でも――」
 誰も私を叱ったりはしないんだよ。疎まれることはあってもさ。
 沼地は、それが極めてなんでもなさそうな調子で言う。
 やっぱりどこかおかしい、と思いつつも私はそれ以上何も言えなかった。
 彼女は私が何も言えないようにしてしまった。
「んじゃ、次はコートの中で会えたらいいね、神原選手」
 沼地が去った後、私は残された気持ちのこもらない言葉と味を洗い流すように、急いでスクイズボトルに口を付ける。市販のスポーツドリンクよりどこかぼやけた味が、無い味を流し込んだ。
 彼女の学校と私の学校が当たるには、互いに一戦ずつ勝たなくてはならないのだが――
「やっぱりガムじゃなきゃ駄目だったね」
 後に、他チームに敗れた彼女はそう語る。
 結局、本日の練習試合において私が沼地と当たることは無かった。
 私は安堵なのか落胆なのか、自分でもよく分からないため息を漏らす。
 大きく息を吐くことと、人の口を借りておいてそんな辛辣な言葉を漏らす彼女の横顔を睨むことしか出来ない。これも私の弱みなのである。

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