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 阿良々木先輩が今から家に来るというので、これは今日こそ抱いて貰えるのでは、という期待を込めながら通話終了ボタンを押した。場を盛り上げる為の手数を惜しむような私ではないので、得意ではない下着と服をしっかりと着用して彼を出迎えたのは、うららかな春の日差しが快い五月の第二日曜日のことだったのだが、神原家の玄関をくぐった彼の表情はどうしてか冴えない。後輩を抱くのにそんな心持ちではいけない。一体何があったのかと訊けば、
「妹と喧嘩をして家を追い出された」
 のだと言う。はて、どこかで聞いたような話だ。
「それは、あれだよ。去年の母の日に――……あ」
 言いかけて、それきり阿良々木先輩は気まずそうな顔を湛えたまま黙ってしまったので、結局理由は聞けずじまいになった。まあ良い。妹と喧嘩をして凹んでいるのだと、ここは単純に捉えておくことにしよう。日頃は空気を読むのが苦手な私だが、十八歳の神原駿河であればそのくらいの気は遣える。
「あんなに可愛い妹と喧嘩をするなんて、贅沢なお方だな、阿良々木先輩は。それで、どちらの妹さんと喧嘩したんだ?」
「両方。しかも珍しく三つ巴。喧嘩してんだから可愛くねえよ。つーか、お前には言ってたんだっけ? 僕、一年前も同じ轍を踏んでるからな」
 自分の小ささが嫌になるぜ、と阿良々木先輩はため息を吐いた。どうやら治まらない腹の虫は火憐ちゃんや月火ちゃんへ向けられる代わりに、自己嫌悪へ転換されているらしい。
「ふむ。それで気晴らしに私を抱きに来たという訳か。ならば身体を貸すのは吝かではないぞ」
「生憎だが、神原くん。親不孝と罵られた日に後輩と抱き合える程の強い心臓を、僕は持ち合わせてはいない。いくら僕でもそこまで最低な兄にはなれねえよ」
「伊達に中くらいの妹の称号を貰っている訳ではないぞ? 阿良々木先輩も来年から成人なのだから、互いが未成年のうちに済ませておいた方が面倒が少ないのではないか?」
「面倒なのは今現在のお前への対処方法だよ」
 部屋は散らかっていたけど、スケジュールになかった家庭訪問時に私の部屋を片付けようという気は起きないらしい。珍しくやる気のない阿良々木先輩は、床に散乱したBL小説単行本の隙間を縫うような形で大の字になる、という器用な芸当を私に見せてくれた。
「うーん……私には喧嘩をするような可愛い妹がいないので、あまり良いアドバイスは出来そうにないな」
「いや、アドバイスを貰いたくてお前の家に来た訳じゃねえから、それは良いんだけどさ……恥ずかしい話、ただ逃げてきただけだし」

 話は変わるが、私は一人っ子なのできょうだい喧嘩をした試しがない。というか、家族を相手に喧嘩をした記憶があまりない。
 とりあえず、おじいちゃんやおばあちゃんとはない。一緒に暮らしていれば叱られることはあるし、一度ならず二度三度反りが合わずに気持ちがささくれたことくらいはあるけれど、私には阿良々木先輩の如くへそを曲げて家出に至った経験はないので、喧嘩と呼べる程のものでもないだろう。
 親子喧嘩くらいはしたことがあったのかな? と、記憶を漁ってみたのだが、少なくともお父さんとは派手な喧嘩をした覚えがなかったし、母は今も昔も怖いが故に私が一方的に畏まってしまうので、やっぱり記憶になかった。
 なので本音を言えば、私は阿良々木先輩の悩みを正しく悩みとして受け止められていないのかもしれない。そう考えると少々心苦しい気持ちはあったが、しかしそんな私でも話くらいは聞ける筈だと、一度堰を切ってからずっととめどなく溢れる愚痴(そう大層なものでもない。後になって振り返ると、単に妹が可愛くて可愛くて仕方がないって話だったのではないか、とも思わなくもない)のお相手をしていたのだが。
「お前だけだよ、神原……僕の話を真剣に聞いてくれるのはさあ」
 なんて、彼は今にも私に縋りついてきそうな勢いで弱音を吐いた。いつもは厭世家ぶっている阿良々木先輩からはすっかり棘が抜けてしまっていたので、下のきょうだいと付き合っていくのはとても大変なものなのだな、と家族のことなんて何も知らない身で思う。
「僕だって、何も考えずに生きている訳じゃあないんだぜ?」
「そうだな」
「ただ分かってはいるんだよ。妹二人に責められて、後輩に慰めて貰いに来ているこの状況が超恰好悪いってことは」
「そうだな」
「少しは否定してくれない?」
 対応を間違えたのか、阿良々木先輩は床に寝転がったまま不満そうに眉根を寄せた。酔っ払いの如くくだを巻く彼は、いつになく自分に正直な様子だった。先輩の知らなかった一面を垣間見たような気になったし、少し可愛らしいと思う。
「しかし、阿良々木先輩も中々どうして良いお兄ちゃんではないか」
「なんでだよ」
「またとぼけちゃって。阿良々木先輩はわざと家を出ることで、今回対立していた火憐ちゃんと月火ちゃんが共通の敵に対し、共同戦線を張れるようにしたのだろう? いくら愚直な私でも、そのくらいのことは分かるぞ」
「……改めて指摘されると恥ずかしいから止めろ」
「そうなのか? あなたの羞恥心は少し難しいな」
 阿良々木先輩が甘え出してから終始そんな感じだったので、多分、神原駿河は愚痴を聞くのがあまり向いていないのだが、私も年下の身であるのでご寛恕願いたいところだ。
 しゃがんでいた私の足首の近くに転がっていた頭を撫でると、阿良々木先輩は何かに感じ入ったかのように肩を震わせて、小さく呻き声を漏らした。それをしばらく続けていると瞼が開いた。そして、それまでろくに見ていなかった私の顔に視線を合わせてから、
「僕さあ、お前のことは仲の良い後輩として見ているから抱けないけど、妹としてなら抱けるかもしれない」
 と、言った。
 ……ん? なんだか話の軸が歪んできた気がするぞ?
 ただし、開いた目の奥を覗く限り、阿良々木先輩はとても真剣だった。真剣だからこそ困るのだが。
「私は一人っ子なのでそういう事情はよく分からないのだが……と、前置きした上で問わせて頂くぞ、暦お兄ちゃん。それは兄と妹間のふれあいとして適切なものなのか?」
「? 阿良々木家基準では割と普通だけど」
 心底当たり前だとでも言いたげな顔で先輩はのたまったが、残念ながらここは阿良々木家ではなく神原家なので、そのローカルルールが適用されるかどうかは微妙なラインである。あと、私は阿良々木先輩とあまり上手に喧嘩が出来ないので、私達はきょうだいにはなれなそうだな、とも思ったが――まあ、気持ち良く抱いて貰えるならなんでも良いか。

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