頚から上がない兄貴が見える

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 その男には頚から上がなかった。
 怖いからあんまりまじまじとは見ることはついぞ出来なかったのだけれど、一歩引いた先から様子を見ただけでも、切り口は生々しい赤だ。頚の皮から肉、中心に備わった骨まで見事に裁断されてあって、きっとこいつの頚を切った奴は確固たる意志を以てして頭を落としたのだろうな、と俺は余計な想像をしてしまった。

 初めてそいつに気付いたのは俺がまだ小学生の時だった。怖い。恐ろしい。とって喰われるかもしれない。いや喰われることはないか。頚から上がないから。でも殺されるかも。
 やばい。目が合った。合った気がした。物言いたげな顔でこちらに向かってくる。いや、実際は頚から上ないし、全部俺の直感だけど、しかし恐怖を前にして直感に勝るものはない。こういう時は口を利いちゃいけない。口なさそうだけど。そうだ。逃げよう。逃げればなかったことになる。
 俺は逃げた。
 だけどそいつは逃げても逃げても追い掛けてきた。俺は足の速さにはちょっと自信があったのに、何度振り切っても気が付いたら後ろに立っているのだ。最終的には自分の布団に潜り、ぎゅっと目を瞑ってやり過ごそうとしたが、目を開けるとそこには当たり前のようにそいつがいる。俺は恐ろしくなってしまい、そのまま三日は布団から出られなかった。怖かったからだ。心配したじいちゃんから声を掛けられた。でも怖い。不登校になりかけて、じいちゃんからぼこぼこにされた。それでも怖い。結局叱られるのが嫌過ぎて、四日目には布団から這い出ることを選んだのだが、それでもそいつは消えてくれなかった。いつまでも俺を見下ろしていた。頚がない面で俺を見下している。それからが地獄の始まりだった。
 俺は片っ端から友達を捕まえて、化け物がいる、幽霊がいる、妖怪がいる、と騒ぎ立てた。だけど誰も信じてくれなくて、その頚なし男が自分にしか見えていないんだと気が付いた。嘘でしょ、ねえ? おかげで友達が減った。頭のおかしい奴だと思われたらしい。本当におかしくなったのかもしれなかったが、まだ幼かった俺にはそれを確かめる術はなかった。
 頚なし男は喋らなかった。きっと頚から上がないので喋れないのだ。だから俺はそいつの身の上を、頚から下の情報のみで推し量るしかなかった。
 男は詰襟の学生服のようなものを着込み、その上に黒い着物を羽織っていた。背中に大きな刀を背負っていて、武者か侍のようななりをしている。俺は歴史の成績があまり振るわないので、その二つの違いがなんなのかはよく分からなかったのだけれど、とにかく現代人とはかけ離れた風体をしているというのは確かだ。
 背丈は俺より高いが、年はそう上の方じゃなさそうだ。腕や脚の長さを比べてみても、俺とさほど変わらないように見える。じゃあ兄ちゃんだな。頚なしの兄ちゃん。頚なしの兄貴。
 そしてどうしてなのか、頚なしの兄貴は常に怒っているようだった。いつも何かに苛立っている。頚がないのによく分かる。それは握られた拳に浮き出す血管の太さだとか、歩き周った時の足音の重苦しさだとか、落ち着くことなく早鳴りする心臓の音だとか、そういうものから感じ取ることが出来る。今だって、俺の枕元では、頚なし兄貴の爪が畳をがりがりと引っ掻いている。長く尖った爪だ。ますます妖怪っぽい。じゃあ、どうして妖怪の心臓の音なんか分かるんだ、と問われれば素直に困ってしまうのだけど、分かるんだから仕方がない。俺は生まれつき、他人よりほんの少し耳が良かった。

 兄貴はどこにでもついてきた。日夜も場所も問わず俺の後ろに黙って立っていた。
 次第に慣れるかと思ったけれど、やっぱり慣れない。おかげで俺は小学校を卒業するまで一人で夜中のトイレに行けなかった。六年生になっても毎晩じいちゃんについてきて貰っていた。洗面所へ続く暗い廊下はどこまでも続いているんじゃないかって思った。じいちゃんに手を引いて貰って歩く。足音は確かに三人分響いているのに、じいちゃんはどうしてか気付かない。
「弱い心が物の怪を見せるんだろう。心を強く持て、善逸。強くなれば迷いは消える」
 じいちゃんはそんな抽象的なことを言って俺を励ましたが、正直慰めにはならなかった。だって、今もじいちゃんの隣で苛々しながら俺が用を足すのを待ってるんだよ? そんなに苛つく音を出すくらいなら、始めからついて来なけりゃ良いのに。なんだってそんなにつきまとうんだよ。もしかして俺のこと好きなの? と、思いかけたが、頚なしの兄貴の目付きがキツくなった気がして止めた。兄貴の目なんて一度だって見たことないけれど、そう感じさせる気迫があった。

 そうこうしているうちに俺は小学校を卒業した。兄貴に見守られながら、もとい睨まれながら俺は私立の中高一貫校を受験し、なんとか合格した。合格発表の日も兄貴はついてきて、俺の後ろで舌打ちをした。ような気がする。
 中学に上がると新しい友達も出来た。その頃にはもう俺は周りの人に兄貴の話をしないようにしていたから、折角出来た友人を失うなんてことはしないで済んだ。
 出来たのは友達だけじゃなかった。なんと彼女まで出来た。が、幸せってのはそう長く続かない。俺が七度彼女を作って七度振られた時も兄貴は見ていた。これは少し思い出すだけでも胸の奥がしょんぼりするからあまり思い出したくはないけれど、いやいや、頚なしの化け物に見られながらセックスとか無理でしょうよ普通に考えて。いや違う。ちょっとだけ見栄を張りました。ごめんなさい。セックスどころか、兄貴に睨まれていると思うと心臓が変に脈打ってしまい、変な汗を掻いてしまうので、結局誰と付き合っても相手の手すら握れない俺だった。別れ話を切り出されて帰ってきた日は決まって、無表情の兄貴はいつになく嬉しそうにしている。最悪だ。それでも六度目まではなんとか頑張れた。だけど七度目になって心がぽっきり折れた。そういう訳なので、もしこの先俺が彼女を作れず、婚期を逃して人生を終えてしまったら、それは全て兄貴の所為だということになる。そうなったらどうするんだよ責任取れよ、と詰りたい気持ちは山々なのだが、頚のない兄貴の顔は怖いので、やっぱり出来ない。

 たまに、本当にたまにだけど、兄貴は寂しいんじゃないかと思うことがある。俺がたまたま他の人より耳が良かったから、身体の音を使って少なからず意思疎通が出来るから、俺に憑りついているだけなんじゃないかって。
 俺だって何もしなかった訳じゃない。どうすれば兄貴は俺から離れてくれるのか、寂しくなくなるのか。それなりに考えた。考えたけどまあ分からなくて、とりあえず怖い思いをして過ごすより、仲良くなった方がずっと良いのでは、と思い至った。なので一度ボードゲームでも一緒にやろうかと誘ってみたことがあった。けれど兄貴は応じなかった。表情が読めない所為もあるけれど、本当に兄貴は何を考えているのかを掴ませないし、悟らせない。昔の人、それでもって多分強い人って、そういうものかな。学生服だと思っていたものが軍服や隊服の類だと気が付いたのはこの頃だ。
 俺も死んだらこうなるのかなあ。嫌だなあ。ものも食べないし喋らないし遊ばない。兄貴は生きている間、何か楽しいことはあったのかなあ。
 不満の音を絶やさない兄貴の背中を見ていると、俺はなんだか物悲しい気持ちになった。
 気付けば俺は高校生になっていたけれど、兄貴の身長にはまだ届いていない。

 その日は嵐の日で、空から注ぐ大粒の雨の音が俺の耳の精度を落としていた。だから兄貴が何を考えているのか、いつにも増して分かり辛かった。
 遠くで雷が鳴っている。自慢じゃないが、俺はあの音が得意ではない。腹の底に響いてくる感じが恐ろしくて苦手だ。なので布団にくるまって雷雲が通り過ぎるのを待っていた。被っていた毛布を剥がされたのはそんな折だった。兄貴は俺につきまといはすれど、積極的に干渉してきたことなんて一度としてなかったので、俺はもう驚いた。
「あに、き?」
 返事はない。当たり前だ。兄貴は喋らない。喋れないのか喋らないのか、実際のところは分からないけれど、とにかく俺は兄貴の声を聞いたことは一度もない。だけど、そっちから絡んできた癖に何もリアクションがないのもどうかと思う。流石にムッとしていると、ずい、と腕が伸びてきた。その様に背筋が冷える。
 ついに殺されるのかもしれない。無理もない。どうしよう。あまりに何も起きないから忘れかけていたけれど、そうだよね? どう贔屓目に見ても悪霊っぽい見た目してましたよね兄貴って。初対面から分かっていましたとも。何? 頚を切られて死んだ無念、今このタイミングで晴らそうとでも? というかなんで俺なんだよ。こんな善良な人間捕まえておいてそんなことってある? 嘘過ぎでしょ。そりゃあ俺ってちょっと友達少ないし、中一でおねしょしたことあるし、この年でまだ童貞ですけども、それだって全部兄貴の所為だからね。
 ぎゃあ、と悲鳴をあげた俺は、兄貴に腕をがしりと掴まれた。直に触ったのは初めてだったが、兄貴の掌は厚くて硬かった。不意に、剣道部の友達の掌を思い出す。よく鍛えられた剣だこのある掌を。いやそんな場合じゃない。そんなこと悠長に考えてる場合じゃない。なのに考えてしまったので、あっという間に両の手首が上にまとめられた。そのままパジャマ代わりに着ていたスウェットを脱がされる。下着を脱がされる。
「へ?」
 いきなり下半身を丸裸にされて俺が目を白黒させていると、間髪入れずに兄貴の手は脚の間に伸びてきた。長い爪の手は迷うことなく俺の陰茎を握った。いや、なんで? 待って。待ってよ、兄貴。待って。
「ひっ」
 太くて硬い指が俺を上下に扱き始めた。まだ自立していなかったそれはすぐに芯を持って熱くなり、兄貴の掌を内側から押し返そうとする。すると肉癖に擦られる形になってしまい、腹の底から快感が浮かび上がってくる。駄目でしょこれは。駄目だって。ねえ待ってよ。アンタ今どんな顔してんのさ。頚から上がないから分かんねえよ。
 我慢だ。我慢をしろ。長い付き合いとはいえ、顔も知らん相手に醜態を晒す訳にはいかない。というかこいつに弱みを見せるのは危険な気がする。俺の本能がそう言っている。
「ん、ぐ……っ」
 そうして我慢を続けていたら顔が熱くなってきた。なんだこれ。髪の間に指を差し込まれ、頭皮をがりがりと引っ掻かれる。いつも俺の枕元で立てている音を、脳髄に直接伝えようとでもいうのか。がりがり、がりがり、手は止まない。痛い。頭ははっきりと痛むのに腹に受ける刺激は程よくぬかるんで溶けてしまいそうだ。
 下半身を弄る手付きにも遠慮がなくなってきた。先端を指の腹でぐりぐりこねられるともう訳が分からなくなってしまった。
「あ、まって、だめ。だめだよ、だめなんだ。あやまる。あやまるから。ごめん、ごめんなさい、ごめ、だからっ」
 何が悪いのかも何を謝っているのかもぐちゃぐちゃで、なのに謝罪の言葉が止まらない。心の奥底に溜めていた罪悪感が堰を切ったように溢れ出す。兄貴の手の動きも止まらない。固い爪で尿道口を弾きながら掌で搾り取られる。いけ。いってしまえカス。そんなことを言っている気がする。それとも俺の妄想か? 兄貴には口がないのでそうかもしれない。
 全身の筋肉が否応なしに収縮する。俺は足をぴんと突っ張って、瞬く間に射精した。他人の手で射精するのは初めてで、何がなんだか分からなかった。初めては可愛い女の子が良かった。なんで俺、頚のない男にこんなことされてるんだろう。気持ち良かった? 多分、気持ち良かったんだと思う。だけどそれ以上に怖かった。とうとう憑かれて祟られて殺されるんだと思った。なのにどうしてこんなことすんの。何考えてんだよ、アンタ。男の性器なんて弄って何が楽しいんだよ。クズだ。クズ。
 せめて兄貴の心臓の音を聞いて手掛かりを探したかったが、倦怠感に邪魔されて四肢が上手く持ち上がってくれない。瞼を下ろして耳を澄ましてみても、自分の心臓の音が大き過ぎてよく分からない。目を閉じてすぐ、俺は夢の中に引っ張られた。

 いきなり頭上から頚が落ちてきた。
 びっくりした。びっくりしたとも。腰抜かすかと思ったわ。だけど失神することは許されなかった。夢の中でも失神できるのかは分からんが。とにかく落ちてきた頚を受け止めなければ。そんな使命感が俺に意識を手放すことを許さなかった。だって兄貴の頚だ。俺は直感する。
 両手で持った頚は軽かった。それは少し猫っ毛の気がある黒い髪で、そうか、アンタの頚から上はこんななりをしていたんだな、と胸に得心がすとんと落ちてくる。頭蓋の形を確かめながら左右をぐるりと入れ替えると、つり上がった目がこちらを睨んだ。瞳の中は真黒だった。ああ、やっぱり。アンタは人間じゃなかったんだな、と鬼のような形相を湛えた顔を眺めて思う。憎悪が溢れて目から零れ落ちそうになっている。
 頚は牙の生え揃った口をぱくぱくさせた。何か言いたいことがあったようだが、俺に届いたのはよく分からない音でしかなかった。どうやら頸から上と下が泣き別れた時に、声帯を胴体の方に置いてきてしまったらしい。そうだよ、アンタはあんなにお喋りな奴だったのに、頚を失くしてしまってさあ。それはそれはもどかしい思いをしたことでしょうね。
 俺は兄貴が嫌いだった。だけどとても大切にしたかった。どうしてそんな矛盾を抱えているのか分からなかったけれど、俺は兄貴の尖った耳に指を這わせながら、もっと仲良くしたかった、幸せの音を教えてやりたかった、と漠然と思った。そんな俺の手から逃れようとしてなのか、兄貴はとても嫌そうに目を瞑った。
「善逸」
 兄貴が俺の名前を呼んだ。いや、呼んだように見えた。それは唇の動きがそうだっただけで、空虚にしかならなかった。俺も呼び返してあげたかったが、膝に乗せた頚の名前はなんといったのか、どうしても思い出せない。

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