おくることばなしに

 少しだけ、阿良々木先輩と私しか知らない話をしようと思う。
 卒業式の日、私の愛すべき先輩方は無事に(一名無事と言って良いか分からない人もいたことを述べておくが)卒業証書を受け取った。
 卒業ムードが漂う中でも阿良々木先輩はやはり阿良々木先輩で、高校生活最後の日もやはり何やらいらないかもしれないお節介を焼いて最高の悪目立ちをしたらしいが、学年が一つ下の私はそんなことを知る由も無く、在校生として式の撤去作業に追われていた。
 しかし、見かけの上だけとはいえ、左手包帯ぐるぐる巻きの奴を働かせる訳にはいかないのだろう。心苦しさと後ろめたさに押されるが、事実を話す訳にもいかず、怪我人という体で適当な所で体育館から追い出された私は、ぼんやりと自分の教室で座っていた。
 まもなく二年生も解散となるのだろう。ちらほらと校門を出て行く姿が見える。卒業式の余韻を乗せず別れを惜しむ事も無い。きっと在校生だ。明日になったらまた学校に来るのだろう。私と同じ様に。
 先輩はもう来ないけど、私は明日からも直江津高校の二年生だ。それも残り少ないが。
 左手を見る。
 私は明日から、一人でこの秘密を抱えて学校に行かなければならない。
 一人で。
 自業自得とはいえ、願わくば――

「神原」

 ふと、名前を呼ばれる。
 入り口を見れば、片手に学生鞄と花束を提げて立っていたのは。

「……阿良々木先輩」
「何してたんだ?」
「それはこっちの台詞だ。どうして卒業生が二年生の教室にいる?」
「ああ、これ受け取ったから礼くらい言おうかと。二年生だったらまだ残ってると思って」

 と、先輩が花束に視線を落とす。
 それを用意したのは私だが、私は今日、今の今まで阿良々木先輩と直接会っていなかったので、戦場ヶ原先輩に託していた。渡して貰えたかどうかは聞いてはいなかったのだが、後でお礼を言わねばなるまい。
 しかし、その前に。

「卒業する先輩から先に礼を言われてしまうと立場が無い。先に阿良々木先輩の卒業を祝わせてくれ。おめでとう」
「ああ、ありがとう」
「うん」

 それだけだった。
 そして沈黙。
 周囲の卒業ムードの名残か、先輩の素晴らしい土下座の話を人づてに聞いてしまっていた所為か(少なくともこの時点では笑えない話だった)、花束を用意するなんて慣れないことをした所為か、左手を凝視していた姿を見られてしまっていた所為か。
 耐え切れなかった私の口から出たのは。

「腕相撲をしよう」

 そんな可笑しな提案だった。

「え?」

 阿良々木先輩の視線が私の左腕へと向う。包帯で包み隠された、私の左腕に。巻き続けてもう十ヶ月になる頃だ。
 中身を知る先輩は私の申し出を断るだろうか。
 実際、私は先輩の前で何発もキメているし。先輩自身にキメたこともあるし。

「腕相撲って、いってもなあ」

 困ったような、そして負のニュアンスを含むような言葉の響きを、やはり、と飲み込もうとすると。

「お前の利き手と僕の利き手が違うから公平じゃないだろ」

 予想と微妙にずれた答えを投げられる。
 気遣いでも嫌味でもない返し。だからこの先輩は質が悪い。否が応でも尊敬してしまう。

「ん? そうだったか」

 私は話に乗る為にとぼけた。

「私は知っての通り左利きだが、阿良々木先輩も左利きだったのでは? ほら、腕時計を右手に巻いているから」
「……その誤解はもう解いていた筈だよな?」
「はて? どうだったかな」

 口角を上げる私。眉を下げる先輩。

「時間が無いんだ、阿良々木先輩。これを誰かに見られる訳にはいかないから、それに」

 もう、これが最後だろう。
 と、続けることはしなかったが、伝わったのか。暫し沈黙の後。

「ああ……分かった。まあ、そうでなくとも男女間のハンデは必要かもしれないし」
「私のような若輩に気を遣って貰えるのは嬉しいが、相手が異性とはいえ、手加減するのは駄目だ」
「しないよ。手加減してたらこっちの腕が持ってかれる」
「うむ。先輩でも容赦はしない」

 机の上で、阿良々木先輩の左手と私の左手が組み合う。そこに二人分の視線が集中する。
 その頃には空気はほぐれていた。

「もしも私が勝ったら、戦場ヶ原先輩を貰っても良いか?」
「戦場ヶ原が良いって言ったらな。それでも、僕だって本気でいくぜ」

 包帯越しの先輩の掌の感触は、ぼんやりとしてよく分からなかった。そしてこれから先も私が知ることは無いだろう。
 自業自得とはいえ、願わくば――先輩方が卒業する前になんとかしたかった。
 そんな未練はやはり飲み込んで、私は左手を握った、という話。

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