「字を教えてくれないか」
ほんのちょっぴり恥ずかしそうな面持ちで、りんさんは僕に声を掛けてきた。
出会ってからすぐの、警戒されていたが故の厳しい一面は、次第に鳴りを潜めてきてはいるものの、僕は未だにりんさんと話すのは少し緊張してしまう。例えるなら、そうですね――胸の辺りがどくん、とする時がある。そんな気持ちを抑えながら、僕は応じます。
「ええと、何から教えれば良いんですかね?」
「私もよくはわからないが……とりあえず、お前がよく眺めているダイダイを、私も読むことが出来たら。とは考えている」
うーん、なるほど。
だけど、それはりょくさんが知ったら怒りそうだなあ……とは思いつつ、りんさんの好きなことを探すお手伝いが出来るなら、と勿論僕は引き受けた。
「でも、どうしていきなり、そんなこと思ったんですか?」
「それは……か、かけるようになったら、字で教えてやる」
とのことなので、僕がりんさんの真意を知るには、もう少し時間が必要らしい。
◇
あかさたな、はまやらわ。
いろはにほへと。
昔々、この星の人はこうやって文字を覚えていたそうですよ。と、僕は『ふね』の中で見つけた、文字が並んでいるペラペラしたものを眺める。ダイダイさんとよく似たこれは、『かみ』と呼ばれていたそうだ。これも、文字を読み続けて知ったこと。もしかしたらりんさんも、僕がこうしてせかいについて調べているところを見て、その楽しさや奥深さを知ってくれたのかもしれない。
だとしたら、その気持ち、わかります。
「……何がおかしい?」
「え?」
「顔が笑ってた」
「あ、別に、大したことじゃないんですが……ただ、りんさんが僕が好きなものに興味を持ってくれるのが、なんだか嬉しくて」
「そ、……そうか」
『ピ!』
「そうだね。シロも、りんさんとお話し出来るようになったら、嬉しいよね!」
そんな背景もあって、否が応でもやる気が膨みます。
「えっと……ではとりあえず、これを真似してかいてみましょうか」
相手も緊張しているのか、やや固い表情で、小さく頷くりんさん。ミドリさんによく似た枝を使って、手がゆっくりと地面を引っ掻いていく。
……そうそう、お上手です。
りんさんも字を覚えたらこの沢山の『かみ』の束も、二人で読めるようになるかも。一人で読むのも楽しいけれど、二人で読めたらもっと楽しいんじゃないかな。そうなったら、めっさ素敵だなあ、なんて考えたり。
「……ここ、ちょっと難しいな」
「えっと、これは手首の力をちょっと抜いた方がかきやすいですよ」
こんな感じですね。と、支えるようにして、横から掌を添える。
すると、ほんの一瞬のことでしたが、りんさんの顔が急に赤くなって――そして少し柔らかくなりました。それがなんだか可愛らしくて、僕の方まで心の内側をくすぐられたような気持ちになっていると。
「りんねぇね、最近わかばにべったりなんだな」
と、りなさんが背中から被さってきた。言葉の通りなら、りんさんにべったりなのはりなさんの方かと思うのですが……。
「なっ……そ、うかもしれない、けれど……」
あらら。
りなさんに体重を掛けられて、手を滑らせるりんさん。からり、と軽い音を立てて、枝が地面に転がった。
取り落とした枝を拾って差し出そうとすると。
「も、もういい。ちょっと一人で練習する」
そのままそそくさとどこかへ行ってしまった。まるで取り残されたような寂しさもあって、僕はつくねんと、りんさんが地面に残した跡を眺める。
……えーっと、これ、なんてかこうとしていたのかな?
「きっと、わかばは教え方が下手だってかこうとしてたんだな」
「ええっ!? そう、ですか? ちょっと、いきなり文字をかくのは難しかったでしょうか……?」
「難しいんだな! わかばが何言ってるのか、りなちゃんにはよくわからない時があるな。話したり読んだりするだけでも難しいのに、いきなりかくなんて大変なんだな!」
りなさん、一人になってからも随分と厳しいご意見。
確かに。僕は一応、文字を読んだりかいたりが出来るけれど……いざという時、大事なことに限って、文字に出来なかったりするもんなあ。頭の中で思った通りの形そのままを、頭の外に持って来るのは、めっさ難しい。
「りなちゃん、あんまりりんの邪魔しちゃ駄目だにゃあ」
どこから聞いていたのでしょう? いつも通りのふんわりとした声で、りつさんがりなさんを諭した。
「邪魔な? りな、邪魔しちゃったかな?」
「いえいえ、僕は別に。みんなで覚えた方が楽しいですし」
「りんねぇねも変なのなー。好きなものなのに、好きなものとずっと一緒にいるのが苦手なのかな?」
「きっと、そういう『好き』もあるんだにゃ。私はもう、大好きなミドリちゃんと一度お別れしたけれど……だけど、ミドリちゃんを好きな気持ちはずーっと残ってて、変わった訳ではないからにゃ。それと同じように、りんにはりんのペースがあると思うにゃ」
「そうなのか? りなはずーっとお腹いっぱいでいた方がしあわせだけどな」
りんさんとりなさん、それからりつさん。とてもよく似た仲良しご姉妹ですが、やっぱりちょっとずつ違うようです。ともあれ、『りんさんのペースに合わせて』というのは、良いアドバイスのような気がします。
りんさんが僕に頼みごとをすること自体珍しいことだったから、ついついはりきっちゃったけど、もう少し肩の力を抜いてやっても良いのかな。なんて考えながら空を仰ぐと。
ずっと遠くの方――それこそりつさんの耳も届かなそうな高台から、こちらに視線が向けられているのが見えた。
◇
「お前なら、きっと気付くと思っていたから」
信頼の言葉を頂くのは悪くない気持ちなのだけれど、でも流石に、ここまで高い場所まで登るのは、ちょっと……。
息を切らした僕がおかしかったのか、りんさんが小さく笑う。そんな顔を見せられてしまうと、湖のほとりから山を越えてきた後だというのに、僕の心の体力も否応なしに回復してしまう。この気持ちを、いつか伝えられたら――それこそ文字におこすことが出来たら素敵なのに、と。そんな夢見がちなことを考えていたら。
「どうだ?」
相手がはにかんだ視線の先。草をかき分けた、土の匂いが強くする地面に、覚えたての文字が並んでいた。触れてみると、頑張り屋さんなりんさんの、努力の跡を伝えてくる。そこでようやく、僕はりんさんの文字を教わりたかった理由に気が付いた。
「……ふふっ」
自然と笑みが込み上げてきます。出会った時からずっと思っていましたが、この人は本当に、強い人です。
わかば。
僕の名前がそこにはありました。