花酔い

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 ――あれだ。お前も知っている、臥煙の忘れ形見。あれは病気だ。
 なんて、いつだったか、どこかの詐欺師が言っていた。
 俺の知ってる奴が、同じ病気を患っていたのを覚えてる――いや、これは嘘だけどな。
 私がその言葉を半信半疑で聞いたことはまだ記憶に新しい。
 疑いの気持ちを捨てたのは本人と再会を果たした後だった。
 彼女の口からずるり、と飛び出して来たのは見事な生花。
 数年に渡って他人の不幸と他人の悪魔を見てきたこの沼地蠟花の目にも、それは中々に衝撃的な光景だった。
 無知な私は、その花の品種なんて知らない。
 何か素敵な花言葉でも付いてればいいのに、なんて的外れなことを思った。

 神原駿河は花吐き病だった。
 嘔吐中枢花被性疾患――片想いを拗らせた奴が発症し、感染者の吐いた花を通して、感染っていく。
 両想いになることのみによって、完治する――らしい。人から聞いた知識なのでアバウトだ。
 まあ、それこそ詐欺師が売り歩いているようなおまじないや、私が蒐集して回っている悪魔と同じような、怪異みたいなものなのだろう。
 私は専門家じゃないので、よく分からない。
 分かるのは、神原が実際に花を吐いていることと、その症状を和らげる治療法はまだ見つかっていないらしいということくらいだ。
 神原は、飽きもせず、苦しそうに花を吐く。
 その事実は神原本人と、無理矢理せがんで花をみせて貰った私以外、誰も知らない。
 ああ、貝木の見立ては正しかったから、あの男も知っているね。

 片想い――発症した原因について訪ねたことは無かったが、大方の見当は付いていた。
 だからある日、戦場ヶ原先輩に会ってくる、と神原がさらりと言ってのけた時、こいつは馬鹿じゃないかと思った。
「冗談だろ?」
「冗談なものか」
 戦場ヶ原先輩が、阿良々木先輩に誕生日プレゼントを買おうと言うんだぞ? あの戦場ヶ原先輩が、私に相談に乗ってくれって言われたんだぞ? 可愛らしい話じゃないか。
「だから、行かない訳にはいかないじゃないか」
 神原は笑顔で言う。私には絶対に見せないような笑顔で。
 こんな顔するんだ、と何故だか感心してしまった。
 ……うん。本当に、素敵な先輩方だぜ。

 同日の夜。
 案の定、神原は帰ってきて早々に、部屋の隅でげえげえ吐いていた。
 あっという間に、辺り一面が朱で染まる。
「先輩の前で吐いたの?」
「我慢、した」
「ふうん……今日も今日とて酷いねえ」
「……あまり、見るな」
 恨みがましい目をした神原は一度拒否したけど、私は構わず背を擦ってやる。
 漂う生花の匂いで、こちらまでむせ返りそうだった。
「一応言っておくが、触るなよ」
「私は恋なんかしないさ」
 それ以上の会話は無かった。
 彼女の額に浮く汗を黙って拭ってやる。目尻に薄く浮かぶ涙も。
 私は神原の吐き気が治まるまで、静かにそうしていた。

 別の日。私は部屋の隅で蹲る神原を見つけた。
 背を鳴かせて、神原はコンビニのビニール袋に向かって嘔吐している。
 その様だけ見ると美しくもなんともない。酒か車にでも酔って嘔吐しているような連中と大差無い。
 ああ。今日は白いんだ。
 彼女は赤い花だけでなく、白い花を吐く日もあった。
 半透明の白い袋に、白い花びらはよく紛れていた。
 彼女の足元には携帯電話が落ちている。
 着信履歴か、受信ボックスか。わざわざ名前なんて確認しなくとも、大体の想像はついた。
 ……誕生日だっけ。
 顔も見たこともない先輩に、彼女の吐いた花を束にして、祝いとして送ってやれば面白いかもしれない。
 やらないけどさ。
「ぬま、ち……」
 最近、分かったことがある。
 神原は花を吐いた後、よく縋りついてくる。
 酸欠でも引き起こしているのか、焦点の定まらない目で、私にしなだれかかってくる。
 甘えてくる、というより、夢中でしがみついてくる、という方が正しい気がする。
 一番近くにある人型のものを欲しているだけで、私じゃなくてもいいんだろうな、とは思う。
 咳き込んだ直後の彼女の身体は驚くほど熱い。
 だから私は黙って背を叩く。
 花の匂いと、胃酸の匂いと、神原の匂いが交じり合い、私の鼻腔を刺激する。
「水飲む?」
「……いらない」
 のど、はりつくから、と掠れた声で神原は続けた。
 苦しそうだなあ、可哀想だなあ、なんて率直な感想を浮かべる自分が割ながら気持ち悪い。
 時折しゃっくりを上げる細い喉が詰まらないように、強く背を叩く。
「なんかさあ、つわりみたいだよね」
 余計な一言を付けると、思っていた以上に意識を取り戻していたのか。
 それまで大人しく抱えられていた神原は私を突き飛ばした。
 まだ口から花びら垂らしてる癖に、随分と元気なものだった。

「花を吐きさえしなければ、元気なんだがな」
 確かに、バスケットボールを手にして向かい合う彼女は、私が知る『発症前の神原駿河』そのものだ。コートの中で、私を容赦無く攻め立てる。
「ちょっと付き合ってくれ」
 と言われ神原に呼び出された先は直江津高校の体育館裏だった。
「何? 告白? そうだとしたら相手が違うんじゃないのかな?」
「違う。気晴らしだ」
 切り捨てるように否定する彼女に続いて、私も裏から体育館に侵入する。
 コートに入るとすぐに、ボールの取り合いが始まった。
 神原本人は自身を不真面目なプレイヤーだと称しているが、不真面目な奴に自分がここまで追い詰められるのかと思うと、良い気分はしない。
 花を吐かない神原は、相変わらず私を苦しませた。
 学生時代には部活動をしている自分に酔いしれて、『バスケットボールが私の恋人だ』なんて言うような奴を私は何人も見てきた。
 しかし、神原駿河にとってバスケットボールは、恋ではないのだろう。
 恋というものにネガティヴな気持ちが伴うものなのか、私の想像の範囲外ではあるのだが。少なくとも神原はバスケットボールを純粋に楽しんでいる間は、花を吐かなかった。
 当時からそんな陶酔しがちな思想に対して、強い感銘も反発的な気持ちも抱かなかった私は、今回も何を思う訳でもない。
 額に浮いた汗は私の目にとても健康的に映った。

 彼女の花吐きは目に見えて酷くなる一方だった。
 花を集めたビニール袋がひとつ、ふたつと増えていき、口を固く縛った白い塊は部屋を確実に占拠していく。
 勿論、それを持て余す神原。二次感染の可能性を考えれば、流石に週二の燃えるゴミの日に回収して貰う訳にもいかないそうだ。
 発病当初はそれほどの量でもなかったらしく、嘔吐した先で水で流してしまえば、それで始末がついていたらしい。
 一月に一度の嘔吐が、一週に一度になってから。神原は袋に溜めた花びらを、人知れず燃やして処分するようになった。それには私も幾度か立ち会ったことがある。
「何度も言うが、触るな。一人で出来る」
「はいはい」
 誰もが寝静まる丑三つ時、人目をはばかるようにして、神原は花で出来た小さな山に火を入れた。闇の中で静かに揺らめく炎は時折神原の横顔を照らすだけで、朱色も白色も区別すること無く燃やしていく。
 一週間分の彼女の想いは三十分と掛からず燃え尽きた。
 しかし、今は。
「全部燃やす前に上から吐かれちゃ、何時まで経っても終わらないじゃないか」
「そんな、こと、わかって……い……」
「私がなんとかしてあげようか?」
 暫し、彼女の目が私に向かって見開かれたが、すぐにいつもの揺らぎがやってきて、火に向かって頭を垂れた。
 立ち上る陽炎と一緒に、花の香りが強くなる。
 一頻り出し切って満足したらしい神原は。
「……なんとかって、どうするんだ?」
「大人に頼る。金さえ払えば頼りになる男を、私は知っているよ」
「……お断りだ」
 憮然とした態度で答えたけれど、結局、東の空が白むまで火は絶えなかった。
 長い焚火を終えた途端、体力尽きてぐったりと寄りかかる神原を引き摺って、私は部屋まで戻った。
 せめて、後始末は最後までしてから倒れて欲しいものだ。

「ちゅーしたら、治ったりしないかな」
 ある日、私は思い付いたことをぽつりと言うと、神原は随分と怖い顔をした。
「ほら。童話みたいに、王子様のキスでお姫様が目覚めたりしないかなって。ちゅーしてあげようかなって」
「余計なお世話だ。お前なんかとちゅーしたら、何か別のものに目覚めそうだ」
「神原選手はもう目覚めてるだろ」
「…………」
「冗談は置いといてさ。うん、布団の上で花散らして寝てるってのはもう、十分お姫様っぽいけどねえ」
 刹那、彼女の肩が震えた。拍子に寝起きの背に張り付いていた花が落ちる。白い背を一枚、赤く染めていた花びらが。
 一晩で自分の寝床に散らかした朱色と白色を、がむしゃらに掻き集めていた手が、止まる。
「……感染ったらどうすんだ」
「それはないよ」

 前に言っただろう。私は恋なんかしないって。
 それとも、神原選手は私が花吐いているところ、見てみたいのかい?
 ……うん。ごめんね。きみの苦しみ、分かってあげられなくて。
 私は人を思いやる気持ちなんて、足と一緒に捨ててしまったからね。

「そうでなければ、悪魔様なんて出来ないさ」
 神原は腑に落ちない様子で私の話を聞いていた。
「だからって、それは」
「だって、知りたいじゃないか」

 嫌味に聞こえるかもしれないけど、そんなに他人にのめり込めるきみを、私は羨ましく思っているんだぜ。
それは、どんな気持ちなのかな、なんてさ。何も感じなかった訳じゃあない。
 いいじゃないか。私は今まで怒りもせずに、黙ってきみに抱かれてやっていたんだから。
 戦場ヶ原ひたぎの名も、阿良々木暦の名も、私には何の関係も無いのに。
 ちょっとくらい、見返りがあったって良いだろう?
 うん? 勿論、そういう意味だよ。
 きみだって、そう思ったことがあるんじゃないのかな。

「――花吐き病の、神原駿河さん」
 ひくつく喉を見て、彼女の身体の素直さを知る。
「……治るといいね」
 返事を待たず、私は彼女の唇に食い付いた。

 中を探ると、すぐにそれが見つかる。
 正直、がっかりした。
 絡め取ってやろうと動かす。神原は拒んだ。が、私も諦めない。
 もごもごと口を動かして貰い受けようとする様は、やはり美しくはないだろう。
 と、そこで非常にタイミング良く、神原の携帯電話が鳴った――拍子、神原が激しく咳き込む。
 途端に彼女の口の中が一杯になる。
 それでも私は離さない。隙に、中の花を奪い取った。
 湿った薄い肉の花びらが、しゃり、と私の歯によって咀嚼されていく。
 私は彼女の不幸を食い漁った。
 苦かった。
 私と一緒だ、と適当な感想が浮かぶ。
 唇の柔らかさとか体温だとか、本当はそういうものも味わいたかったのだけど、彼女が窒息してしまいそうだったので、私はさっさと身を引いた。
 解放された神原はすぐに伏せって口内に溜まった花を出す。
 げふ、ごふ、と一人で咳き込む彼女の背を、私はいつものように叩いてやった。
 床の上で朱色と白色が混ざり合っている。
 花だけ見ていれば、綺麗なのに。片想いの舞台裏というのはどうも綺麗じゃないらしい。

 神原は息を整えた後、携帯電話に手を伸ばす。
 発作を誘発させたのはメールの受信音だったようだ。
 彼女が画面を覗くと、それまできつく結んであった口元が綻んだ。それだけで分かる。
「先輩かい?」
「……うん」
「行くんだ?」
「勿論」
 しかもデートの誘いだ。どうだ、羨ましいだろう。
 なんて、あんなに苦しがっていた癖に、もう嬉しそうにはにかむ彼女を見て、私は確信する。
 彼女は自分の花吐きを治す気なんて更々無かったのだろう。
 花を吐くほど大好きな先輩と、これまた花を吐くほど大好きで大嫌いな先輩が仲良く寄り添っているのを見て、彼女は幸せなのだろう。
 趣味の悪いことだ。私に言われちゃおしまいだ。
 神原は駆けだす。
 私は一途すぎる彼女を馬鹿にしたって良い筈だ。
 しかしそうはせずに、彼女の背中が見えなくなるまで、黙って見送った。
 突如、激しい嘔吐感に襲われて、咳き込む。
 ……結局治らなかったな、と遅まきながら考える。
 口元を覆った自分の掌の中を覗き見ると、むせ返るような花の匂いの中、見飽きた緋色が握られていた。

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